永遠にわたしのもの

 私に特定の家はない。強いて言うなら、"狼の心臓"が住まいだが、人が乗り込めるコックピットポッドには操縦のために座る席が一つ。フルフラットにはなるが、成人男性のほとんどは足がはみ出してしまう。簡易トイレと冷蔵庫、各種収納スペースはあるが緊急用といった程度の大きさだ。キッチンはないし、シャワーもない。およそ家とは呼べない。だから、地上にいるときのほとんどはホテルで暮らしている。買い物に執着がなく、料理に興味のない私にとってはなんとも都合のいい施設だ。金がかかりすぎることが難点だが、ある程度の蓄えはあるし、滞在した街でどうにか稼げばなんとかなる。

 そういうわけで、私はニューカラント州ハインラッドの〈キングス・イン・モーテル〉に一週間分の宿泊費を前払いしていた。ウエストヴィクトリアではなくニューカラントにしたのは料金の安さのためで、ラビットホープではなくハインラッドにしたのはギャングによる万が一の襲撃を避けるためだった。車や列車では数時間かかる距離であっても、アストラナードで飛べばそれほど時間はかからない。同じ街にいるようなものだ。

 セイディ・マクファーレンの話を訊いた翌日、私はハインラッドからラビットホープへ飛び、明るいうちにゼペタ・ギャングの情報を集めた。無駄だとわかると映画館に足を運び、二十世紀の映画を観て過ごした。いい映画というものは、どれだけ時代が流れても色褪せることはない。

 日が暮れる前には州を越え、ヴィオレッタに飛んだ。新たにダウンタウン二番街のモーテルをとり––––一泊分だったが、ハインラッド三泊分の料金だった––––夜の繁華街へ繰り出した。

 繁華街の喧騒はどこも似たり寄ったりの品の悪さだが、ヴィオレッタはそれが顕著に現れていた。暴動のような罵声と笑い声が耳をつん裂き、ケバケバしいネオンが夜を奪う。よくわからないオブジェの前で酔い潰れて寝そべる人間。コンビニの前でゲロを吐く人間。およそ正常とは思えない人間が、そこら中に転がっている。"眠らせない街"の住人は、誰もが他人を陥れようと悪巧みをしているように見えた。

 私は人混みをかき分けながら、呑み屋街を歩いた。通りに蠢く飲食店のキャッチは、ほとんどが真っ当な店だろう。が、どいつもこいつも詐欺師みたいな顔に見えた。

 ごった返すサカエ・スクエアの七丁目を曲がり、暗い路地に入った。光が強くなれば、影は一層深くなる。この世の縮図のようだ。

 笑い声が途切れることはないが、愉快なものではない。他人を陥れ、利益を独り占めするような笑い。意味もなく蔑むような笑い。思いやりの対局にあるような笑いだ。たとえ銃声がなったとしても、誰も気にも留めないだろう。犯罪が横行するには、十分すぎるほど条件が揃っていた。

 ネオンが差し込む路地の終わりに、毛布代わりのレジャーシートに包まる老人が見えた。いや、老人かどうかはわからない。髭も髪も伸び放題で傷み放題だった。生きているのか死んでいるのかもわからない。

 私はスラックスから火星ドルの紙幣を一枚取り出すと、浮浪者の前に置かれた空き缶の中に入れた。浮浪者は両手を合わせ、小さく頭を下げた。どうやら、死んではいないようだ。

 こんなことはなんの解決にもならず、自己満足を満たすだけの偽善行為なのかもしれない。だが、やらない善より偽善の方がマシだ。いや、偽善だろうがなんだろうが、何かをしなければ、精神がもたなかった。きっと偽善ですらない。私自身が正常でいるためにやっただけだ。

 再びネオンが降り注ぐ通りを歩いた。無性に煙草が吸いたくなり、火をつけたものの、その煙はあまりにも苦かった。結局、長いまま吸い殻となった。

 ホテル街の一角にたどり着くと、雑居ビルの一つに入った。用があるのは三階の雀荘の向かいある、マッサージ店だ。

〈和洋折衷〉という名のそのマッサージ店に入ると、受付の髪を後ろで括った若い女性に、カスミはいるか、と訊いた。

 ポニーテールの女は、私にはわからない言葉で何か言った。おそらく、旧アジアの言語だ。

「カスミ」私はいくつものカーテンで閉ざされる店内を指さし、次に自分にその指を向けた。「ダン。ダンが来たと伝えてくれないかな」

 ポニーテールの女は顰めっ面を崩さなかったが、独り言をこぼしながらカーテンの向こうにいなくなった。

 私は入り口の天井に取り付けられたテレビに映る、地球文化のドキュメンタリー番組を眺めて待った。音もなく、文字もなく、風景だけが流れる映像では、何を伝えようとしているのかわからなかった。

 煙草を咥え、火をつける前に、ポニーテールが戻ってきた。

「カスミ、三番」女は片言で、カーテンレールにぶら下がった番号を口にした。

 私は咥え煙草のまま礼を言い、三番のカーテンに入った。

 診察台のようなベッドに腰かけると、ベッドサイドテーブルの灰皿に目が留まった。煙草に火をつける。煙草のにおいと、リラックスアロマの匂いが混ざり合う。

 しばらくすると私が入った方と反対側のカーテンが開いた。暗い通路があり、その向こうに部屋があった。灯りの漏れる部屋から、女のシルエットが手招きしていた。

 私はそれに従う。

 部屋の中はカーテンの中と変わらない内装だった。もっとも、ここは防音になっているのだろうが。私が部屋に入ると、カスミは後ろ手にドアを閉めた。

「ジャケットを脱いで」

「次はズボンかい?」

「ちんぽこ握ってほしいなら別の店に行きな。ここはそういう店じゃないよ」

「ジョークにしても品がなかったな。すまない」私は腰のホルスターからスカイフォールのリヴォルヴァーを抜いてグリップをカスミに向け、脱いだジャケットの上に置いた。

「スカイフォールに紺のスーツ。変わらないね、ダン」

「このスーツはミッドナイトブルーって言うらしい。どんな色なのか、俺にはわからないけどね」

 カスミは左のビーチサンダルを脱ぎ片足立ちになって、足の指で右の脛を掻いた。

 私はラビットフットのパックを取り出し、パックの口をカスミに向けた。カスミは黙って煙草を一本とる。私はカスミの煙草に火をつけてやった。

「アンジェラ・ロメロ。この名前に聞き覚えは?」

「ないね」カスミは即答した。本当に知らないのか、あらかじめ答えを用意していたのか、返答だけではどちらなのか判断できなかった。だが、彼女の瞳が揺れたことを、私は見逃さなかった。

「知っているようだね。何があった?」

「なんのことだかわからないね」

「とぼけるなよ。〈ピンクフラッグ〉っていったか? 君が働いていた店だ。アンジェラはそこで働いていた」

「その名前を口にしないでほしいね。ピンクがどんな色かもわからないくせに」

「彼女を殺した人間を捜している」

「警察は自殺と認定したはずだけど」

「認定はしていない。その可能性もあるという見解だ」

「どっちにしろ、それじゃあまだビンゴブックには載っていないはずだね。……誰かに依頼されたの?」

「それは君が知る必要のないことだ」

「そうね。そしてあたしには関係のないこと」

 海中のような静寂。遠くの海上から、リラックスミュージックが微かに聞こえてくるような気がした。

「エンジェル。それがあの子の源氏名よ」カスミは諦めたように深い煙を吐くと、吸い殻を灰皿の上で捻った。「五年前だったかな。あたしがまだあの店で働いていた頃、あの子は新人として入ってきた。お茶したことはないけど、お酒を呑みにいったことはあると思う。二人でじゃなくて大勢で、ということだけど。その場に誰がいて、いつどこに行ったのかも覚えてない。日常の中の記憶できない出来事の一つでしかなかった。その程度の関係よ。連絡先は知っていたかもしれないし、知りもしなかったのかもしれない。どっちにしたって連絡をとったことはない。店にいたときも、辞めてからも。個人的な付き合いなんてないの」

 彼女はそこで言葉を切り、私たちの間にある空間を見つめた。私はラビットフットのパックを向けたが、彼女は受け取らなかった。一点を見つめながら続きを語る。

「あの店の女の子たちとは、いまでも付き合いがある子が何人かいるの。あたしと同じように辞めた子もいれば、今も働いている子もいる。そのうちの、まだ働いている子の一人が言ってた。エンジェルのヒモは売人だって」

「パラディーノ・ファミリーの下っ端ってことか?」

「わからない。パラディーノのタトゥーが彫ってあったのかは知らないけど、薔薇のタトゥーはあったって」

「薔薇?」

「赤い花。そいつのタトゥーは黒い薔薇だったらしいけど。あ、あんたにはどんな薔薇も全部黒にしか見えないか」

「意地悪言うなよ。それで? そのタトゥーはどこに彫ってあった?」

「太ももの付け根に彫った黒薔薇のタトゥーが最高にホットって、エンジェルは言ってたそうよ。左脚か右脚か両脚か、それは覚えてない。そもそもどっちの脚かなんて話、してなかったかも」

「永遠の愛。決して滅びることのない愛」

「何? 急に。気持ちが悪い」

「黒い薔薇の花言葉だ」

「花の色はわからなくても、花言葉ならわかるって?」

 私はカスミの嫌味には応じない。「他にもある。『あなたは永遠に私のもの』。恨みや妬みのネガティブなニュアンスだ。エンジェルの場合、どっちだと思う?」

「あたしが知るわけないでしょ」

「その黒薔薇の男はどこに住んでいる?」

「だから、知るわけないでしょ。エンジェルは十七番街のアパートだったはずだから、その辺なんじゃない?」カスミはアパートの場所を口にした。

「そいつは黒だと思うか?」

「さあ。灰色ってとこじゃない? ねえ、あんた灰色はわかるの?」

「さあね」本当は、黒と白の区別さえついていないのかもしれない。「他に容疑者と考えられる人間は?」

「容疑者って。あたしは警察じゃないのよ? わかるわけないでしょ」

「君の主観でいい。アンジェラ––––エンジェルを殺しそうな人間に心当たりはないか? 男でも、女でも」

「だから、あたしはエンジェルとは親しくないんだってば。他の子に訊きなよ」

「誰に訊けばいい?」

「エンジェルと親しい子。あたしの友達はだめね。みんなあたしと変わらない反応だと思う。訊くなら……ピーチがいいんじゃない?」

「それも源氏名か?」

「もちろん。あたしはあったことないけど、あの店でエンジェルと一番仲がいい子だそうよ」

「その子の本名は……知るわけないか。ピーチは? 今も〈ピンクフラッグ〉にいるんだな?」

「今は仕事の最中かも。まだ所属してるのかってことなら、答えはイエス」

「わかった」私は立ち上がり、リヴォルヴァーをホルスターにしまった。「助かったよ、カスミ」

 カスミは曖昧に頷いた。

「また来るよ。今度は客として」

「その日が来ないことを祈ってる」

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