アステロイド・スピードウェイ
ラビットホープのバーで、ウインズロウウイスキーのグラスを傾けながら更けていく夜の時間を味わった。
店内のテレビには、火星圏の宇宙領域で行われているアストラナードのギャラクシー・レースの映像が流れていた。それがリアムタイムではないことはすぐにわかった。レース後のインタビュー映像の総集編が流れたから。映像では無愛想なレーサーの女が短いコメントを口にしていた。音声もテロップもなかったから内容はわからなかったが。唯一流れた文字テロップは、彼女の乗るアストラナードの機体名だった。おかげで、それが"兎の腎臓"ということだけはわかった。どうでもいいことだが。
この店に来るまでは文字通り足を使って一日中ラビットホープの街で聞き込みをした。だが、これといった成果はなく、ゼペタ・ギャングのアジトはおろか、やつらがどんな悪事を働いているのかさえ掴むことはできなかった。私が知り得た有益な情報といえば、愛煙するラビットフットの煙草が、この街で生まれたということくらいだ。知ったところでなにも変わりはしないが。
しかし、私の勘が言っている。やつらは必ずこの街に潜伏している。
話を訊いた人間の半分は、本当に知らない者の反応だった。が、残りの半分は、知っているのに知らないという者の反応だった。知っているのに知らないと言うのは、無条件に私立探偵を嫌い、足を引っ張ろうとする人間か、関わり合いになりたくない人間のどちらかだ。後者の場合、ゼペタ・ギャングはこの街の住人たちに恐怖を植え付け、口を封じているのかもしれない。
いずれにせよ、知っているのに知らないと言う人間に、本当のことを話させるのは容易なことではない。問い詰める側の技量によっては、それも可能なのかもしれないが、少なくとも私にはそんな技量はない。加えて言うなら、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロのように、杖のつき方か何かから真相への糸口を掴む事件の組み立て方もできない。どれだけ文明が進んでいても、三世紀も前の人間に敵わない。それが想像上の人物であろうとなかろうと。
とにかく、私にできることは自分の足を、肉体を使って手がかりを掴むことだ。三世紀前を超えるような推理はできなくとも、三世紀前と同じような肉体労働は真似できる。
だから、私はバーに来た。くそに塗れたギャングが活動するのは、決まって夜だ。陽の下を胸を張って歩くことができないから。
私は自らが囮になる覚悟を決めた。ゼペタが凶悪なギャングであるなら、自分たちのことを嗅ぎ回っている人間を野放しにしたりはしない。向こうの方から私を見つけ、恐怖を与えようとするだろう。闇雲に夜の街を彷徨い歩くよりは、バーでやつらがやって来るのを待っていた方がいい。
そうして、私は三杯目のオン・ザ・ロックを舐めた。
鈴の音がした。来客を知らせる音だ。あるいは、招かれざる客の。
私はあえて振り向いたりはせず、グラスの中で渦を巻く液体を見つめた。
「おまえにいいことを教えてやろう。二十二世紀じゃ、腕時計を操作するだけで、音声通信も映像通信もホログラム通信もできるんだ。コズミックウオッチって代物でな。二十一世紀みたいに、電話を携帯する必要もない」
「スマートフォンは今でも需要があるよ、ファナナ。レトロブームってやつなのかもしれないな。もっとも、今ではコズミックフォンって呼ばれているけど」
「皮肉に皮肉で返すんじゃあねえよ」ファナナは私の左隣に座り、カウンターに身を乗り出して私と同じ酒を頼んだ。オン・ザ・ロックではなく、トゥワイスアップだったが。「どうして電話に出ない?」
「友人が少ないもんでね」
「俺はその数少ない友人の一人だと思っていたんだがな」
「友人ってのは、いつでも電話できる相手を指すわけじゃあないだろう?」
「それでもメッセージくらいは返せるんじゃあないか? パンケーキやミルクシェイクの店に誘われるとでも思ったのか?」
「人生なにがあるかわからないからな」私はそう言って吹き出した。
ファナナもつられて笑い出す。
「気色悪いね。男同士のじゃれあいを見せにきたのかい?」もう一つの、嗄れた声が言った。
私はその女と、テレビ画面を交互に見た。「セイディ・マクファーレン」
名前を呼ばれた女は、肩をすくめてガムを紙に吐き出した。
「レーサーだったのか」
「あんたこそ、探偵だったのか」
私は女からファナナに視線を移し、また女に戻した。
「依頼を受ける気はあるかい?」女は言った。
「内容によるね」
セイディはガムもないのに何かを吐き出したそうな顔をし、私の右隣に座った。「はっきり言ったらどうだい? 金にならない仕事はしないって」
「俺が金目当てで探偵をしているとでも?」
「へえ、違うってのかい?」
「人間社会に生きている以上、金は必要だ。儲けなんていらないって言うやつの方が、俺には信用できないけどね」
「あたしは探偵ってやつの方が信用できないけどね」
「その探偵に依頼しに来た人間がいるようだが」
「ファナナの推薦じゃなきゃ、来ようとも思わなかったね」
「誰の推薦かどうかなんて俺には関係がない」
セイディは乱暴に席を立ち、出口に向かおうとしたが、ファナナに腕を掴まれて止まった。
「話だけでも訊いてやってくれないか?」ファナナはセイディの腕を掴んだまま言った。
「あんたがそう言うなら」私はウイスキーグラスから女の方へ視線を移した。女は何か言おうとしたが、私は無視して続けた。「俺のことはこれっぽっちも信用する必要はない。今までも、これからも。でも、ファナナのことは信用しているんだろう? だから、ここへ来た。だったら、彼の顔を立ててやるべきなんじゃないのか? スラム流の喧嘩腰で突っかかったって、誰のメリットにもならない。まだ話す気があるなら、座れよ」
セイディは唾を吐きたいのを堪えるように口元を歪め、元の席に座った。バーテンダーにレッドガールピルスナーのボトルビールを頼むと、しばらく無言で飲んだ。
私は辛抱強く話し始めるのを待った。無性に煙草が吸いたい気分だった。
ボトルビールを半分ほど飲むと、セイディはようやく語り出した。
セイディには一人の友人がいた。名前はアンジェラ・ロメロ。セイディは彼女のことをアンジーと呼んでいた。
アンジーはヴィオレッタでコールガールをしていた。最高級とまではいかなかったが、少なくとも夜の繁華街で立ちんぼをする必要はなく、不衛生な診察台みたいなベッドで身体を売る必要もなく、その界隈ではそれなりに有名な店に在籍していた。八ヶ月前までは。
昨年十月十九日金曜日未明、〈ヨコハマラーメン〉店の店主は店を閉めると、まとめた残飯を店の裏に運んだ。火星政府の定めた法令を遵守し、生ごみはリサイクルボックスに捨てた。火星では、生ごみをエネルギーに還元する取り組みが進められている。それ以外のごみは、裏路地の飲食店共同ごみ捨て場に運んだ。そこでアンジーに出会った。彼女は全裸で、ごみ捨て場の中にいた。酔っ払ってもいなければ、ドラックでトリップしていたわけでもなかった。目を開けたまま眠ったように横たわっていた。こめかみに銃痕を残して。ヴィオレッタ警察が記録した証言によると、一目見ただけでは人間だと気づかなかったらしい。どこかの迷惑な変態が、ラブドールを捨てたのだと思ったそうだ。遺体とは無縁に生きてきた人間にとっては、それが普通の反応なのかもしれない。
「アンジーは日曜日にあたしのレースを観にくることになっていた。ゲンクブルク州沖合の海上レースのね。自殺なんてありえない」セイディは吐き捨てるように言った。
「自殺? 警察は自殺として処理したのか?」
「自殺の可能性も捨てきれないって」
「裸になってごみ捨て場で自分のこめかみを撃った? 馬鹿げている。仮に自ら死を選ぶとしても、そんな方法を選ぶかな」
セイディは長い人指し指を伸ばした。「一つ、アンジーは娼婦だったから。ヴィオレッタで娼婦の死体は珍しいものじゃない。一つ、彼女は両親に縁を切られている。家族が捜査の進展を求めるようなことはない。家族にとって、彼女はただのコールガールだった。血族の汚点でしかなかったから。ねえ、人間っていうのは職業で決まるの? 一体、誰が本当の彼女を知っている? 彼女の魂を知っている? 一つ、だから真剣に捜査する気なんてない。証拠も容疑者も、手がかりは何もないから。"面倒事"としか考えていない。あいつら警察は、娼婦には人権がないと思ってる。自分たちだって散々世話になってるくせにね。女の警官だってそう。無条件で彼女に同情したりはしない。むしろ、自分よりも高級な服を着て、高級なアクセサリーを着けて、ブランドもののバッグを持ってる彼女たちに腹を立ててる。自分たちは毎日毎日、何時間も働いてるっていうのに、彼女たちはちょっと股を開いて数時間で月収分を稼いでるんだと思ってる。危険な目に遭うのも自己責任だってね。あいつらが彼女たちのなにを知っている?」セイディは唇を噛みながら二本目の指を伸ばした。ちょうど、煙草でも挟むみたいに。「最も大きな一つは、ヴィオレッタがパラディーノのシマだから。現に、アンジーの店の客の何人かはパラディーノ・ファミリーの連中と寝てる。もしかすると、アンジーもそうだったのかもしれない。どっちにしたって、本格的に捜査するとなるとパラディーノのアジトに踏み込まなくっちゃならない。ヴィオレッタの警官どもが、そんなことすると思う?」
「ないだろうね。ヴィオレッタ署のほとんどの警官は、しっかりパラディーノから賄賂をせしめてる」私はほとんど水になったウイスキーを呷った。「わかりかけてきたよ。君はパラディーノを相手にしても臆さない人間を必要にしている。だから、大嫌いな探偵のところにも来た」
「別にパラディーノが相手だと決まったわけじゃない」
「ヴィオレッタで娼婦殺しを捜すのに?」
セイディは歯を見せて下唇を噛んだ。きっと、娼婦という言葉に反応したのだろう。
「見つけられる保証はできない」私は言った。「なんせ八ヶ月も前のことだ。証拠なんてもうなにも残っていないのかもしれない」
セイディは立ち上がった。今にもビール瓶を叩きつける勢いだった。「泣き寝入りしろって? 他人だからそんなことが言えるんだ。人の不幸で飯食ってるくせに!」
セイディはそう吐き捨てると大股で店を出ていった。店の外で、彼女が唾を吐くのが見えた。きっと噛み煙草のせいだ。
私は椅子を回し、カウンターに肘をついてファナナを向いた。
「引き受けよう、って言おうと思ったんだけどな」
「わかっているさ」ファナナは渦を描くウイスキーを眺めながら、自嘲気味に笑った。
「跳ねっ返りの女の扱いはどうも苦手でね。あんたが手綱を握ってくれよ」
「わかっているさ」ファナナはトゥワイスアップを一息に飲み干した。
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