翡翠と玉 中
時間というのは、ときとして恐ろしいスピードで流れていき、しばしば僕らは月日の移り変わりの速さに驚かされる。
僕にとってのこの一週間も、あまりにあっという間であり、具体的には文化祭前に控えている中間テストの勉強をしていたら、いつの間にか七日間を消費してしまっていた。
僕自身あまり勉強に熱心なわけではないが、何事に対しても、派手に手を抜くことができない性格なのだ。
テスト期間が終わると、校内はやがて行われるイベントに向かって、その雰囲気を次第に柔らかなものへと変えていった。放課後には、校舎のいたるところで文化部の集まりが確認できるようになった。中庭から聞こえてくるコピーバンドの演奏や、音楽室から聞こえてくる管楽器の音が、放課後の校舎を鮮やかに彩る。
そんな中、僕ら将棋同好会も例にもれず、空き教室に身を寄せ合っていた。折りたたみ式の将棋盤を机に並べ、黙々と駒音を響かせている。
「で、今年の文化祭、俺たちってなにするの?」
同学年のメンバーが、たった今思い出したというように声を上げた。
将棋盤から目を話さず、僕は答える。
「例年通りでも良いかなとは思ってる。というか、それ以外はあんまり思いつかなかった」
ほぉん、という気の抜けた返事が返ってきて、それからまた教室はしばらくの静寂に包まれた。
「何だっけ、今年はどこかの部活動と教室を折半するんだろ?」
「野鳥同好会だよ、たしか」
他のメンバーが補足をする。
僕は頷く。
「しかし、野鳥同好会って、どんな活動をしているんでしょうね」
一年生の後輩が盤面を注視しながら、ぼんやりとそう問うた。黒縁メガネのブリッジのところを人差し指で抑えながら、前後にゆらゆら揺れている。どうやらそれが、彼の集中しているときの癖らしい。
「さぁ、この前会長さんと話してみたけれど、そこまでは聞かなかったな」
「山とかに潜るのかな。双眼鏡とかを持って」
メンバーの一人が、両手に輪っかを作って双眼鏡のポーズを見せた。今日の活動に集まったメンバーが奇数であったために、相手がおらず、手持ち無沙汰なのだ。
「さぁ、でも当日は何かしらの展示をすると言ってたな」
僕がそう言うと、「写真かな」と誰かが言った。
その頃には僕はすっかり盤面に集中していたので、誰の声かはわからなかった。
その一局を指し終えると、僕は手の空いてるメンバーとバトンタッチをして、教室の隅っこにある椅子に座って、ただ思考を巡らせていた。
僕の高校では、文化祭前の二日間は授業がなく、文化祭の準備にすべての時間をあてることができる。例年の将棋同好会は(というか、僕が在籍していた去年は)教室に特別な飾り付けなどはせず、気持ち程度に、将棋の駒の形にかたどったダンボールを壁などに貼ったりしていただけだったので、その準備期間の多くを各々のクラスで過ごしたものだ。昨年のクラスの文化祭準備は、誰かが装飾に力を入れようと元気よく提案したために、慢性的に人手が足りていなかった。
しかし、今年はそうもいかない可能性がある。野鳥同好会が活動に力を入れるとなると、こちらがあまりにみすぼらしい装飾をするわけにもいかなくなる。お互いにのために、そうもいかなくなるのだ。
もう一度話し合う必要があるかもしれない。
そう考えて、ふと、前回の機会に先輩と連絡先を交換していなかったことに気が付いた。
前に担当してもらった教員にそのことを相談すると、彼は「呆れた」という顔をしたが、機会を設けるために速やかに動いてくれた。
結局、二度目の話し合いは、準備期間前日の放課後に、文化祭当日で実際に使用する三階の教室で行うこととなった。
話し合いの当日、僕は予定の時刻よりも少し早めに教室に到着した。先輩を待たせるという行為に、気が引けたのである。
僕が到着してから間もなくして、先輩が現れた。早く来てよかったと、こっそり安堵の息をもらす。
先輩は僕を見ると会釈をして、僕の予め用意しておいた椅子に、僕に向かい合うかたちで座った。
「お久しぶりです」
僕がそういうと、先輩は笑顔を浮かべながら「お久しぶり」と反復した。
それから僕は、「お呼び出ししてしまって、すみません」と付け足す。先輩は首を横にふると、「私ももう一度話しておきたかったから、ちょうど良かったの」と言った。
締め切った窓の向こうから、ランニングをする運動部のかけ声が小さく聞こえる。それと対比するように、教室は僕と先輩以外おらずあまりに静かで、外界から遮断された特別な空間のように感じられる。
「早速ですが、当日に予定している飾りつけの雰囲気や規模などを伺ってもよろしいですか」
僕がそう切り出すと、先輩は何やら鞄をまさぐりはじめた。待ってましたと言わんばかりの雰囲気だ。最終的に鞄から出てきたのは、現像された大きな写真が複数枚と、百円ショップに売っていそうな造花(蔦に等間隔に葉っぱがついているような、草だけのものもいくつかあった)の数々だった。写真の表面には、様々の野鳥の姿が鮮明に写し出されている。ズームアップで撮られたものもあり、素人目にはかなり本格的に感じられた。
「この造花で自然を演出して、鳥の写真をその生態に合わせて展示するの」と彼女は言った。
「例えば、このメジロという鳥は、市街地なんかでもよく観察されるんだけど、基本的には花の蜜や果実なんかを好んで食べてるの。だから、この赤い実をつけた造花の近くに置く」
先輩は、鮮やかな緑色をした小鳥の写真を手にとって、そう説明した。その特徴的な見た目をした小鳥は、確かに僕でも見たことがあった。
「次に、このモズという鳥。この子はさっきのメジロとは違って肉食なの。昆虫やカエル、場合によっては体の小さい鳥なんかも食べる。そして、たまに獲物を木の枝先に吊るしたりする」
先輩は、太く鋭いくちばしを持った小鳥の写真を僕に見えるように掲げた。
「だから、このカエルの隣に写真を飾るの」
そういって、先輩は鞄からデフォルメされたプラスチック製のカエルの置物を取り出した。焦点の合わない目を遠くへ向け、間抜けに口を開けたカエルだ。
その後も、先輩はいくつかの写真を取りだして、その生態などを簡単に説明した。これらの様々な野鳥についての話を聞いていると、ほとんどの写真は、どれも近所の山で撮影したものなのだそうだ。なるほどこれだけの多種多様な小鳥が身近なところに存在していたのだと、思わず感心してしまう。
しばらくそうして写真の野鳥について解説していた先輩であったが、ふと思い出したかのように「でも──」とうつむいた。窓の向こうで、グラウンドの木々が優しく揺れる。
「でも本心では、写真の展示と平行して、もう少し何か別の、もっと特別なことをやりたいの」
僕は曖昧な反応しかできなかった。なぜなら、先程提示された案でも、十分に凄いと感じてしまっていたからだ。学生が主体となる文化祭という舞台でそれだけの展示ができるのであれば、大多数の人の予想は上回ることができるだろう。
しかし、きっとそういうことではないのだろうと思う。
どうしたものだろうか。遠くのコピーバンドの、一番のサビを歌い終わって二番のAメロに移り変わっていくのを、しばらく聞いていた。なんとか返す言葉を捻出する。
「では、実寸大の野鳥のパネルを置く、なんてのはどうでしょうか」
しばらくかけてなんとか絞り出したアイディアだが、その言葉は先輩の鼻先にさえ触れることなく、勢いを失い、力なく地面に落ちていった。
しばしの静寂。
「あとは──、野鳥モチーフのゲームとかでしょうか」
もう一つ、思いついたところを言葉にしてみる。今度の言葉は、いくらか先輩のもとに届いたようだった。
「ゲーム?」
小さく首を傾げ、こちらを伺う。
「はい、デジタルのものは難しいと思うので、スゴロクとかの、ボードゲームとかになるとは思いますが……」
「なるほど」と先輩は頷いた。
例えば──と先輩は続ける。
「モズに枝に吊るされてしまったので一回休み、みたいなこと?」
突飛な絵面に僕は首をひねったが、先輩のなかでは何かがしっくりと嵌まったようだった。
「とにかく」と先輩は声をあげた。「ボードゲームの線は、面白いかもしれないね」
そういった先輩の表情を見て、僕は言い表し難い、強いて言うのであれば安堵に近いような感覚を覚える。
「そういえば、将棋もボードゲームと言えるの?」思いついたように、先輩は問うた。
「ボード、つまり盤の上で行うので、ボードゲームと言えると思います。将棋と似たゲームであるチェスも、ボードゲームと呼ばれますし」
「じゃあさ、たとえば鳥をモチーフにした将棋とかはないの?」
飛躍した質問だったが、その問いに対する回答を、僕は偶然にも知っていた。
「ありますよ、トリ将棋」
それを聞いて、僕の答えがよほど予想外だったのか、先輩は驚いたような表情を大げさに浮かべた。
「江戸時代に作られた少し変わった将棋です。といっても、小鳥の表記に用いるトリの字で表記するのではなくて、猛禽類のキンの字でトリと読みます。通常の将棋は、駒の名前に金将とか銀将といった名前が用いられますが、禽将棋の場合はキジとか、ツルとか、タカの名前が使われています。まぁ、彼らも野鳥ではあるんでしょうけども、一般にイメージされる野鳥よりは、スケールが少し壮大になってしまいますね」
江戸後期に考案されたという禽将棋は、現代の将棋とはかなり異なった形式を持つ。例えば、現代将棋は前提として八十一マスから成るが、禽将棋は縦横それぞれ七マスの計四十九マスから成る。また、駒の動きなども大きく異なり、戦略性などもだいぶ違う。
「なるほど……」と先輩は顎に手をあてた。
それから先輩は何かを考えていた様子だったが、しばらくしてから再び顔を上げた。
そのときの先輩は、灰色の空から雲が捌けて青空がはっきりと見えたような、そんな表情をしていた。
僕は、たっぷりと息を吸った先輩から発せられる言葉を、じっと待った。
「じゃあ、私たちで新しく
そう言い放った先輩の目は、しっかりと僕を見据えていた。そのとき、僕は彼女のことを、小鳥よりも、むしろ猛禽類のようだと思った。
また、胸の内を明かすのであれば、彼女に捕らえられ空高くまで連れ去られてしまうのも、まったく悪くないと思った。
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