第2話 11999


 手の甲に現れた白い印。

 曲線を重ねたような模様で、マークとしては成り立っていないように見えるが……角度を変えて見てみれば、数字に見えないこともない。


 11999……か?


 チカチルは――『一万千九百九十九番目』の勇者という意味なのか。



「あはは、勇者になっちゃった」


「………………そ、そっか……」


 帰宅したチカチルを出迎えた母親が、すぐさま娘の変化に気づいた。

 だって右手が白く輝いているのだから。

『勇者の証』は偽装ができない。真似て作ったとしても再現ができない輝きが本物にはあるのだ。そのため、チカチルの報告を疑うこともできなかった。


「…………」


 母は、胸中が複雑そうな顔をする。

 勇者に選ばれることは光栄なことではあるが、同時に危険も付きまとうことになる。

 最も危険な役目であるがゆえに、国の王と同等の権力を手に入れたとも言える。


 ……それに、かつて我が家と娘を狙った(しかも、家は一度壊されている)勇者を思い出すと、まず嫌悪が出てくるのは仕方ないことだろう。

 一部の勇者の身勝手な暴走とは言え、やはり好印象は抱けない。


「先生になる夢はもういいの?」

「うん。……だって……先生になるのは妥協の夢、だったから」

「…………そっか」


 なにを諦め、妥協したのか。言う必要はなかった。

 チカチルはかつて諦めた夢を、今、その手に掴むことができているのだ。


 念願のその立場に立つことで終わりではない。

 最も大変なのはこれからだということも分かっている。

 それは先生であろうと勇者であろうと変わらないことだ。


 母の大きな溜息が響いた。

 それは娘のわがままを仕方なく認めるためのものではなかった。

 母は、どうしたって娘が心配なのだ。


 もちろん、勇者の役目を知っている……だからこそどこにもいってほしくないし、危険な目にも遭ってほしくない。当然だ。


 でも。


 母のわがままは娘の幸せよりも優先することではないだろう。


 一度冷静になるべきだったのだ。

 吐いた溜息は、気持ちを落ち着かせるためで……。

 母は、納得はしたけどやっぱり心配で……でも、それでいいのだと思った。


 娘を全面的に信頼し「あとはご自由にどうぞ」では、あまりにも冷たい。

「いつでも心配しているから、たまには顔を出しなさい」――と。

 それくらいのわがままならばきっと娘の幸せを邪魔する感情ではないはずだ。

 チカチルだって、まったく心配されていないのもそれはそれで寂しいのだから――――



 勇者となったチカチルは、まず勇者の案内所である『教会』へ向かうことになる。

 大きな町に建っている白い建物が目印だ……。虎の国で言えばやはり首都の『ピンズ(タウン)』の教会が最も近いだろう(他が遠いというだけだが)。


 早速だが翌日、チカチルは教会へ向かうために家を発つ。


 かなり急いだ動き出しだが、彼女に焦りはなかった。

 単純に気分が高揚して家にいても落ち着かないから、教会に顔だけ出そうと思い立って即行動したのだ。


 元々、頭で考えるよりも先に体が動くタイプである……。娘を知り尽くしている母は止めても聞かないことを知っているので、入念に準備を手伝い、娘を送り出す。


「チカチル、ちゃんと連絡してね?」

「分かってるって。――ちゃんと手紙、出すからさ」



 虎の国では文通(もしくは魔法による連絡)が一般的だ。……どうやら蛇の国では遠方でも一瞬で連絡が取れる『通信端末』が主流になっているらしいが……。


 最近では竜の国も徐々に他国の技術を取り入れているらしい。

 各国で大きな動きがあれど、やはり虎の国は最新技術を嫌い、未だに伝統を重視している。

 それが悪いとも言えないので、一長一短ではあるが。


「チカチル」

「もうっ、お母さんは心配し過ぎ、」


 呆れる娘を、母が強く抱きしめた。

 ……父親がいない母娘おやこは互いに離れてしまえばひとりきりだ。

 これまで一度も長い時間、離れたことがなかった……。急に出ていってしまうことになった娘をこれでもかと抱きしめ、その存在を確かめるのはやり過ぎではないだろう。


 たっぷりと一分と少し、娘を抱きしめた母親は満足したようだ。


「いってらっしゃい、チカチル。――ついでに世界を救ってきなさいね!」


「……うん。――うんっ、いってくるね!」



 そして、チカチルの新しい人生が始まった。


 母と娘。互いに、姿が見えなくなるまで手を振り続ける。


 その後、見えなくなっても。


 ふたりの手は、しばらく振り続けたままだった。

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