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真美が事故にあったと睦からメールが届いたのは、それから数日後のことだ。
日曜日の昼さがりだった。突如やってきた秋雨前線のために朝から激しい雨が打ちつけていた。十月の始めなのに晩秋のような寒さだった。
日曜日の病院のロビーは入院患者らしき人達が大型テレビを見ているだけで閑散としていた。睦はロビーの奥の長椅子の端にうなだれた様子で座っていた。
「睦」
声を掛けると深刻な顔で見あげてきて、またおろす。俺は黙って隣に腰掛けた。
しばらくすると男の警察官がやってきた。一人は中年で一人は若い。中年のほうが睦に声をかけた。
「友達から話を聞いたよ。少し確認したいんだけど――ええと、きみは?」
俺に視線を向ける。
「睦と真美の友達です」
「そうか。きみは事故現場にいたわけではないね?」
「はい」
ならばと警官が睦に視線を戻す。
「友達がいるところで話す? それとも向こうで?」
「ここでいいです」
睦の声にはほとんど感情というものがなかった。
「そう。――ええと、つまり、きみがぼんやりと歩いているうちに前方の信号が赤になった。きみはそれに気付かずに渡ろうとしたんだね」
「信号があることに気付きませんでした」
重苦しい口調で睦が答える。
「雨が降っていたね?」
「はい」
「今日はかなり強く降ってるものね。そのときも?」
「はい」
「傘はさしていた?」
「はい」
「それで信号がよく見えなかったのかな」
睦が考え込む。
「分かりません。普段なら気づきます」
「よく使ってるスタジオの帰りだったみたいだけど、その道はこれまであまり通らなかったの?」
「初めて歩く道でした。あの先にコンビニがあるからって…」
「そのまま歩いていたら、横から大型バイクが近づいてきた。そのバイクには気づいたかい? 音とか、気配とか。バイクにはそういうのがあるだろう?」
「よく覚えていません」
「ならば、さっきも教えてくれたように、突然、真美さんに後ろへ突き飛ばされて、その直後にはもう彼女がバイクに轢かれていた、と」
話の筋に衝撃を受けて俺は固まった。
「はい」
「そのとき彼女は何か言っていたかな、きみを
「危ないと叫んでいました」
若い警察官はメモにペンを走らせていた。
「では、きみは信号にも気づかず、大型バイクが走ってきたことも覚えていないくらいに、何かに気を取られていたということだと思うんだけれども。何に気を取られていたのかな?」
「気を取られた?」
怪訝そうに警官へと視線を向ける睦に、警官が頷く。
「だって大型バイクが来たわけだからね、普通なら気づくと思うんだよ。きみは耳が悪いわけでもないんだろうし」
「あ…」
まもなく、睦が声を落とした。「うん?」と、警官が身を乗り出す。
「あの」
睦は気まずそうに言いよどむ。
「いいから、なんでも話してみて」
警官が優しく促した。
「いい歌詞が思いつきそうだったので。歩きながら、そればかり考えていました」
それまで親切そうな微笑を浮かべていた警官は、その一瞬、冷たい視線で睦のギターを見た。
「きみは作詞もするんだ?」
「はい」
「そうか。もし彼女がきみを助けなかったら、きみは自分が轢かれていたと思う?」
その問いかけに、睦は肩をぴくりと震わせて警官を見つめた。
「はい。もし真美に助けてもらわなかったら、俺が轢かれていました」
その言葉は
「ありがとう。今日のところはこれでいいよ」
警官が膝を叩いて立ちあがる。
「もう真美さんの麻酔もきれた頃だろう。だがバイクの運転手もあばらにヒビが入って全治三ヶ月の重症だ。きみがぼんやりと道を歩いてしまっただけのわりには、代償が大きすぎるね」
睦が悄然と視線を落とす。
警官が去っていっても、どう声を掛ければいいのか分からなかった。まもなくひょろりと背の高い、二十歳くらいの青年がそばに来た。睦は座ったままで見あげた。
「睦。俺、いったん家に帰るわ」
「ああ」
「もし何かあったらすぐに知らせろよ」
「うん」
多分、バンドのメンバーなんだろう。睦が膝の上で頭をかかえる。いつも飄然としている彼が、こんなふうに憔悴しているのを初めて見る。
面会の時間になったようで、入り口からちらほらと人が入ってきた。ロビーもざわつき始めた。
「指が転がっていたんだ」
睦が低く呟く。
「真美のだ。道路に。左手の小指と薬指だった。雨の中で、ものすごい血が流れて――」
そこまでひどい事故だったのか。
「睦」
「俺のせいだ」
「そんな」
首を振った。
そんなふうに自分を責めるな。
言いかけた言葉は途切れて続けられなかった。そんな慰め、睦はいらないだろうと思った。
「真美の片足は、もう動かない」
大事故だったのだと愕然とする。
十分も経たないうちに、睦の両親がやってきた。睦と待ちあわせていたようで、まっすぐこちらに向かってきた。
「拓ちゃん。来てくれたの」
答えるかわりにおばさんに深くお辞儀した。
「睦。さっきおまわりさんから連絡があって、真美ちゃん、気づいたって」
睦がゆっくりと立ちあがる。ギターを背負うと余計につらそうだった。
「俺も行っていいですか」
迷惑だろうと知りつつ訊ねると、やっぱりおばさんはうろたえた顔をする。
「嫌な場面を見ることになるわよ。私たち、真美さんとご両親に謝りに行くんだから」
「病室まで入りませんから」
食いさがると、じゃあ、と頷く。三人の後ろに従った。
睦と両親はノックのあとで真美のいる個室に入った。俺はその数歩手前で待った。
ドアの向こうから、叫ぶような悲痛な泣き声が聞こえてくる。事故で意識を失っていた真美は、二本の指と片足の機能がなくなってしまったことを知ったばかりなのだ。左手の指を失ってはべースも弾けない。その絶望は、到底、計り知れない。
「すみません、この通り、お詫びいたします」
おじさんの声が聞こえる。おじさんと、おばさんと、睦。三人が深々と頭をさげる光景が目に浮かんだ。
「すみませんじゃないわよ! それで許してくれっていうの? 許せるわけないでしょ! どうしてくれるのっ、まだ十七なのよ、この子は!」
真美のお母さんの声だった。
「あなたがぼさっと歩いていたのがいけなかったんでしょ? あなたのせいなんでしょ?」
「やめろ、子供相手に」
たぶん真美のお父さんだ。
「いやよ! だってこの子のせいじゃないの! 真美が指をなくしたのだって、足が駄目になったのだって、この子のせいなのよ。そうなんでしょう? あなたのせいなんでしょう? どうしてくれるのよ! 真美はこれからだったのよ! これから、たくさんしたいことだって、将来の夢だってあったのに、全部あなたのせいでめちゃめちゃになったのよ! どうしてくれるのよ、ねえ! 何か言いなさいよ! 黙ってないで、何か言いなさいよ!」
「すみません」
睦の声が低く続く。つらくて聞いていられない。でも睦のほうが何倍もつらいのだ。
「すみませんじゃないでしょ! どうしてくれるのって訊いているのよ! ねえ、あなた、ちゃんと責任とってくれるんでしょうね? あなたがこの子の人生をめちゃくちゃにしたんだから、あなたが責任をとってくれるのよね? そうなんでしょう?」
「いい加減にしなさい!」
さっきの男性が鋭く声をあげた。
「いやよ! …いい? あなたには責任をとる義務があるのよ。おたくは代々、医者なんでしょ? なら、あなたも医者になるのね? 真美の責任を取ることも、できるわけよね? あなたには一生、真美の面倒を見てもらうわよ。だって何もかもあなたのせいなんだから。本当だったら指をなくすのも、足が動かなくなるのも、あなただったはずなのよ。それをこの子が身代わりになったんじゃないの! せめてこの子の人生を背負うくらいの責任をとってもらわなきゃ、私たち、うかばれないじゃない! 大事に育ててきた一人娘なのよ!」
大きく泣き崩れる声が続いた。
体が震える。口を押さえたまま泣いた。涙が次々と溢れてとまらない。
(睦―――、睦―――…睦―――)
可哀想な睦。なのに何もしてやれない。
「またご挨拶させていただきます。明日も参りますから!」
お辞儀をしながらおばさんが出てきた。睦とおじさんも深々と礼をして病室を後にする。
睦がもう一度頭をさげて、ドアを閉めた。息を吐きながら視線を向け、俺のと重なる。疲れた顔をしていた。
「睦…!」
唸り声がしたかと思うと、おばさんが睦の頬をはたいた。鋭い音に、行き交う看護師や患者がいっせいに目を向ける。
「いつまでもそうやってフラフラしているからでしょ! 何がギターよ! 何が音楽よ! 音楽がなんだっていうの? だからこんなことになるんじゃない!」
おばさんは踵を返し、早足で行ってしまう。おじさんも冷ややかな視線を睦に送った後で、見棄てるように去った。
残された睦がまた小さく溜め息をつく。
溜め息ばかりだ。それしか出てこないみたいに。
どうしようもできないのに、どうしたらいいかを探さなくてはならない。
睦が歩き出し、俺も並んだ。高い壁が目の前に立ちはだかって、逃げ場も用意されていないみたいだ。後ろから追いかけてくるものは、なんなのだろう。
ロビーのさっきの場所に戻って座った。俺はなすすべなく、睦を見守るだけだ。お前の苦しみの一つ一つを、取りのけることができたらどれだけいいだろうと思うよ、睦――――。
「帰らないのか?」
「先に帰っていい。俺は、また真美と話さないといけないから」
「何を…?」
何を、話すんだ。
「睦?」
嫌な予感がした。運命の歯車が回り始めて、取りあった俺たちの手を離そうとしているみたいに。
睦が俺を見あげる。まるで泡沫のようなまなざし。俺は体をこわばらせながら、不安におののいている。
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