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 睦からメールを貰って喫茶店を出た。近くのショッピングセンターのエントランスで待ち合わせだった。

 九月最後の週末。昼間は残暑が残りつつも、日が暮れてからは秋の気配が色濃く大気に滲む。


 向こうの交差点に睦が近づいてくる。でかいサブバッグとギターを肩にさげ、ベースを背中に背負った真美と一緒だった。

 俺は慌ててショッピングセンター内に隠れた。真美は俺と睦の関係を知らない。以前、真美が心配していたのは睦の「彼女」であって、当然、俺と睦みたいな関係は念頭になかったはずだ。でもその後、真美に内緒で睦と付きあい始めたことで、俺は彼女に対して後ろめたい気持ちになっていた。


 待ちあわせ場所から近い、そこがこそっと見える一角に隠れていると、しばらくして睦が一人でやってくる。使い古した単語帳を尻のポケットから取り出して開く。

 長い前髪が風に揺れている。睦のそんな横顔に俺は思わず見とれてしまうんだけど、街中でも睦は人目を引くようで、通りかかる通行人はちらちらと彼に視線を送っていた。

 睦のルックスには確かにそれだけの魅力があるし、また一方で俺は知っている。近隣の親たちが自分の娘を嫁がせたいと思うくらいには、俺たちの制服には――正しくはその校章には――価値があるんだということを。俺たちの高校は国内でも有数の進学校だからだ。


 二分、三分。五分――十分。

 さすがに真美もいなくなっただろうと伺いながら睦のもとに向かう。


「ごめん。待たせて」


 急いできました、というそぶりをした。


「ホント、待った」


 苛立った顔をする。ほんの十分だろ。お前なんかしょっちゅう待たせるだろ。などと心の中で反論してみる。


「お仕置きだ」


 俺の顎を掴むと唇を重ねる。


「ち…ちょっと、何すんだよ!」


 どすんと突き離した。黄色い声がどこからか聞こえてきた気がして、俺たちのせいなんじゃないかと焦る。睦の腕を引っ張って、再度店内に逃げ込んだ。


「ちょうどいい。腹減ったし、ここで何か食おう」


 暢気に言う。俺はここで夕飯なんか食うつもりはないけれど、行く当ての定まらない足は自然とエスカレーターに向かう。


「お前、外でキスとか、マジやめろよな」

「いいじゃん。いまどき男同士のカップルなんて珍しくもなんともないだろ。なんならここで首にキスマークつけてみようか?」

「くっ。バカ言うな!」

「嬉しいくせに」


 腰に腕を回してくる。


「ちょ、やめろって」


 取り乱して振りほどく。


「可愛い。拓。真面目だし。可愛いし。だから妬ける」

「妬けるって、何が」

「おとといの体育祭だよ。もう拓の写真が出回ってるんだ。近頃じゃダンスしてる写真だけじゃなくて、ペットボトル飲んでる顔とか、パン齧っている顔とか。あれは隠し撮りだな。トイレにもカメラが仕込んであるかもしれない。ヤバいサイトにあげられるかもしれないから、放尿のときは気をつけろよ。俺とのセックスの写真まで出回ったりして。だとしたら俺らまだ未成年だから、児童ポルノに引っかかるのかな」

「やめろ」


 話の内容がドぎつくてヒく。


「モテる恋人を持つとつらいなぁ」


 わざと道化た声をあげる。


「念のために言っとくけど、俺、ここでメシ食うつもりないから」


 睦がレストラン街の一軒一軒を真剣に物色しているので、とりあえず断りを入れた。睦が驚いた顔をする。


「どうして?」

「昨日、今夜の分まで肉じゃが作ったから。帰ってそれ食べる」

「なんだ、そうなら早く言ってくれよ。なら、それをもらう」

「睦のぶん、ない」

「ええ? なんだ。がっかり」


 本気で肩を落とすから、胸が痛んだ。

 本当は、睦のぶんくらいはある。けれどあまり一緒だとおばさんに変に思われそうで心配だった。夏休み以降、睦は週の半分以上を俺の部屋で泊まっていて、いくらなんでも変だと思われそうで、それが怖いのだ。


 結局、睦も自分の家で食べることになって俺たちは家の前で別れた。

 実際には、暗い家に戻って一人でとる夕食は侘しい。睦との食事が贅沢すぎるくらいに楽しくて幸せだから、いっそう一人の夕食が寂しく感じられる。強い光が作る陰影の闇が深いのと同じように、底知れぬ孤独に侵食されるのだ。


 夜の十二時を回った頃にスマホが鳴った。

 俺はベッドに入って眠りかけていて、相手によっては出まいと思いながら画面を確認した。真美からだった。


「ハイ」


 返事はしたものの、目は眠気に抗えずにまた閉じる。ちょっと油断すればすぐに夢の中に引きずり込まれそうだった。


『桜井? こんな夜遅くにごめん。いま、いい?』


 丁寧な挨拶とは裏腹に、いつになく尖ったような、なんとなく棘のあるような響きが俺の睡魔を払う。


「いいけど…何?」

『睦、そこにいる?』

「え?」


 突然、睦の名が出てきたので驚いた。


(そうか。前はここにいたんだっけ)


 脈絡もなく睦の名前が出てきたことに、俺は焦るように理由をつけた。


「いや。いないよ」

『ほんとに?』

「うん」

『そう。なら、良かった。私、あんたに言いたいことが。じつは…、私――』


 少しの間があって、真美が何かを言うか言うまいか逡巡しているような、ためらっているような空気が伝わってきた。


「どうかしたのか?」


 言いにくいことなのかと思って、こっちから促してみる。


『あんた、…、…るい』

「え?」


 聞き取れなくてスマホを耳に押しつける。


「ごめん、何? 聞こえなかった」

『あんた、気持ち悪い』


 耳に滑り込んだ言葉が言い知れぬ憎悪に満ちていたから、眠気が一気に吹き飛んだ。


「真美?」

『桜井、あんた、気持ち悪いよ』


 今度ははっきりと繰り返される。


「どうしたんだ。なんのことだよ」


 気持ち悪いって何がだ。ムッとして訊き返した。


『私、見たの、さっき』


 その響きに嫌な予感がした。


『お店の外で、あんたが睦とキスしてたの、見たの』


 今度こそ言葉を失った。奈落へ落ちる感覚がする。


『私、買い物があって。終わって外に出たら、まだ睦がいて。声かけようか迷っていたら、あんたが。あんたと待ちあわせだとは聞いてたんだけど――まさか、突然あんなことするなんて。しかも公衆の面前で――いったい、どういう神経してるの、あんたたち』


 いや。あんたたちって。

 キスしてきたのは睦のほうだ。どうして俺が責められているんだろう。


『その後も、すごいいちゃついてたよね。まさか付きあってるの? 男同士で? 嘘でしょ?』


 どう答えればいいのか分からない。いや、答えるのは簡単だけれど、その後に来るであろう反応を想像するだけで答える気が失せた。真美は俺の沈黙を肯定として受け取ったらしい。


『気持ち悪いのよ。桜井。男のくせに女みたいに睦が好きなの?』


 喉に硬いものが引っかかったようになって、顔が熱くなる。恥ずかしさなのか、怒りなのか分からない。

 なんでこんなことを言われなくてはならないのかという憤りと、ごめんと謝れば彼女は解放してくれるのだろうかという卑屈な気持ちとで、心が揺れた。


『女みたいな目で、物欲しげに睦を見るんでしょ? そういうのって恥ずかしくないの? ――気持ち悪い、桜井……私、ほんとに、吐き気がする』


 本当に吐き捨てるように言葉を切る。

 そこまで言うかと思った。でもはたと気付いた。真美に釈明できることは、何もないのだ、と。

 なぜならその通りだからだ。俺は男なのに、女みたいに物欲しく睦を見て、欲情し、睦に抱かれている。はたから見たら気持ち悪いやつなんだろう。

 沈黙が続くから、通話が切れたのかと思って画面を確認した。まだ繋がっていた。


 もうどうでもいいやというなげやりな気持ちから、再び睡魔がひた寄ってくる。

 目を閉じた。手が疲れて、押しつけた耳とスマホとの間が汗で湿っている。

 何分経ったのか。

 やがて耳元で真美が嗚咽する音がして、驚いて目を開けた。真美は懸命に声を圧し殺しているみたいだった。


「…真美?」


 大丈夫か?と訊くのもおかしいし、気持ち悪くてごめんと謝るのもやっぱり変だから、そのまま口を噤んだ。


『ゴメ…っ、桜井――!』


 スマホの向こうで、真美が小さく叫ぶ。


『私、ひどいこと言っちゃった。――――ゴメン…桜井。ほんとに。…あんたを傷つけた。あんたは何も悪くないのに』


 声を震わせている。俺の心も震えた。なぜだろう、目に涙が浮かんでくる――。


「いいよ。泣くなよ、真美」


 ごくりと唾を呑み込んだ。

 分からないわけではない。

 真美のつらさ。

 俺のつらさ。

 でもどうしようもできないんだ。


「ごめん――私、あんたに嫉妬したの」


 真美が泣きじゃくる。

 未来のことは分からない。

 そう声をかけたかった。

 いつか俺だって。睦から別れを切り出されるか、それとも高校を卒業したら自然消滅することだって、あるかもしれない。そう不安になることだって俺にはある。いずれにしても、俺はそのつらさに泣くだろう。何日涙を流しても足りないくらいに、きっと泣く。


 なのにどうして俺たちはこんなに必死になって誰かを好きになったりするんだろう。

 どうして俺たちの心は、体は、自分ではない誰かを激しく求めてしまうのか。

 通話は切れていた。

 ――俺だって。

 いつかは消える一瞬の灯火をたまたま手にしているに過ぎない。

 でも睦のいない人生なんて、そんな人生を生きることなどもう、俺にはほんのわずかでさえ我慢できない。それほどに睦は俺のすべてだった。



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