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スーパーで睦のお母さんに会った。
図書館で睦と勉強をして別れた後だった。睦はバンド練習のために東京に行っている。
コンビニ製の夕食に飽きた俺は、今夜は自炊しようと思い立ち、夕方、食材の買い出しに出掛けた。久しぶりに温かいご飯でも炊いて、野菜炒めにでもしようかとピーマンの袋を籠に入れたとき、後ろからポンっと肩を叩かれたのだった。
「たーくちゃんっ」
振り向くと、まん丸な笑顔のおばさんが立っている。睦って顔の輪郭はおじさん似だけど、目はおばさんそっくりだなと思った。
「偉いわねぇ、夕食のお買い物? またうちに食べにいらっしゃい。拓ちゃんのぶんくらいは、いつでも用意してあげられるんだから」
「はい。ありがとうございます」
「睦、しょっちゅうお邪魔して迷惑じゃない? 一緒に勉強してくれるのはとてもありがたいけど、睦ったら、いつもそのまま泊まっちゃうんだからねぇ。ごめんねぇ」
すまなそうに言う。俺は顔が赤らんでくるのを必死で抑えた。あれから俺たちはいわゆるヌキあう仲になっているのだが、おばさんはもちろん、そんな俺たちの不純な関係を知らない。
「大丈夫です。俺、夜は本当に家に一人なので、逆に心強いです」
「そう? おかげでね、睦の成績、すごくあがったのよ。順位だって初めて十番以内に入ってくれて。絶対に拓ちゃんのおかげだと思うわ。ありがとうね。ああ! ちょうどいい。実はね、拓ちゃんにずっと前からお願いしたいことがあったの。少し時間ある?」
おばさんの手が俺の腕に乗った。
「はい」
そのまま引っ張られ、野菜置き場の裏の人通りの少ない通路に連れていかれる。ピーマンの前は他の買い物客の邪魔になっていた。
「ごめんね、おばさんの立ち話なんかに付きあってもらっちゃって。睦には聞かれたくない話なの。ずっと拓ちゃんと二人きりで話せる機会を待っていたんだけど、――でもあの子、いつも拓ちゃんから、全然離れないでしょ?」
…おばさん、ホントに俺たちの関係に気付いていないのかな。ちょっと不安になった。
まあでも、知らないからこんなふうに無邪気に話しかけることができるのだろう。
「睦ったら、ほんとに拓ちゃんのこと、大っ好きなのよね」
不意打ちを食らって、かっと頬が燃えた。
――大丈夫。落ち着け。おばさんは当然、「友達として」前提に話しているんだ。
おばさんから笑みが消えて、真剣な顔に変わる。
「だからね、拓ちゃんのアドバイスならあの子、きっと耳を傾けると思うの。睦ったら医学部の進学をやめて、本気で音楽の道に進みたいらしいのよ」
冷や水をとろりと背中に注がれた気分だった。火照っていた思考がすっと冷める。
ああ、そういうことか。
すとんと腑に落ちる。おばさんは、睦の進路の話をしたかったのだ。
「大学進学をやめてギタリストになるなんて言ったときには、おじさんもものすごく激怒しちゃってね。殴りあいの喧嘩になるかと思ったくらいよ。そうしたら今度は、音楽教師もいいかも、なんて言うでしょう。いつまでもそんなふうにフラフラしていて、ほんとに困った子よ」
この時点でもう俺は、話を切りあげて買い物の続きをしたくなった。
睦は別にふらふらしているわけじゃない。睦は睦なりに、自分の夢と親からの期待との妥協点を必死に模索しているだけだ。
『その話、俺には関係ありません』
話を切りあげるには、それだけを言えばいいことだった。それでもそう言えないのは、他でもない、おばさんが睦のお母さんだからだろう。
「挙句に、この間の進路相談で、来年度は理系をやめるって言ったらしいのよ。それも一人で決めちゃって。高三でそんなことしたら、もう取り返しがつかないでしょう? 途中で医学部を受けようったって、無理だもんねえ、本当に馬鹿な子よ。だからね、いまならまだ間に合うし、拓ちゃんからひとこと言ってやってくれないかな。来年はもう受験生だし、ふらふらしていないで医学部を目指して頑張れって。おじさんからもおばさんからも、医者になることを期待されてるんだよって、拓ちゃんから説得してくれないかな?」
見開かれた目。色よい返事を期待する屈託のない沈黙を、ひどく息苦しく感じる。
「睦は、俺の言うことなんて聞かないと思います」
ようやく吐き出した言葉に、おばさんが背すじをピンと伸ばす。それは俺たちが小さい頃から、子供を注意するときのおばさんの癖だった。
自分こそが正しいと胸を張るような仕草を目の前にして、なんともいえない居心地の悪さを覚える。
「それでも拓ちゃん、言うだけ言ってみてくれない? お願いよ。睦の中では、拓ちゃんってすごい存在なのよ。絶対に耳を傾けると思う。睦はね、自分で自分の将来を決められるような自由な子供じゃないの。もう、病院の跡取りっていうことが決まっている、ね。生まれたときからそういう定めというか、宿命なの。それはおじさんだって同じだったのよ? そこを、睦ももっと大人になって本気で受け入れてくれないと、とても困るのよ」
力説するおばさんを見ていられなくて、視線を落とした。
なんて身勝手な言い分だろう。
そのことに、なぜこんなにも無自覚でいられるのか。
おばさんとおじさんが恨めしく、心から睦を気の毒に思う。これじゃまるで奴隷と一緒だ。自分の将来を決める自由もない。自分の好きなことに打ち込む自由も許されない。ならば、睦の人生は、いったい誰のものなんだ。
怒りすら感じながら俺は、おばさんのグレイのスカートと俺の間の一点を、空しく見つめた。
――かわいそうな睦…。
「拓ちゃん?」
おばさんがしびれを切らす。それで冷たく「嫌です」と言えばいいものを、俺はそうできなかった。
「睦のことだから、俺が何を言っても無駄だと思います。でも機会があれば伝えます」
こんな中途半端な答え方をしたのは、なにより断れば断るほど話が長くなりそうだったからだ。俺は一刻も早くこの不愉快な話題から逃げたかった。
「ありがとう! よろしくね。ごめんね。変なことを頼んじゃって」
おばさんが何度も頭をさげる。いたたまれない気持ちになって俺は俯いた。
息が詰まった。
睦の背負っているものの重さがつらかった。
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