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 動揺が沸点に達した頭で、それでも引っかかる記憶のかけらが脳の一点を冷ます。そういえば、これってどっかで聞いたことのあるフレーズだよな…と。


「純情少年の庄田クンに、俺たちの濡れ場でも見せようか」


 肩から荷物を滑り下ろす。俺はようやく唇が離れた勢いで睦を睨みつけた。


「冗談やめろ」

「恥ずかしがるなよー、いまさら」


 軽く嘲笑する。


(…大嘘つき)


 大嘘つきの、睦。

 また唇を重ねてくる。

 腕力で負けている手で空しく抵抗を試みても、しっかりと抱えられてしまって無駄にもがくだけになる。

 Tシャツの裾から睦の手が入ってきて、肌をまさぐられた。初めての感触に体がびっくりして、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 睦は怒りで完全にプッツン来ちゃったらしい。それは分かった。冷静な顔をしつつ、内心じゃ庄田の言葉にはらわたが煮えかえったんだろう。

 こうなれば、俺は吹き荒れる嵐に逆らえない木の葉に等しい。睦の怒りが治まるのを待つしかない。お前のせいだ、庄田。呪ってやる。


「ぁ…っ」


 乳首を強く摘まれて嫌な声が出た。恨めしく睦を睨む。それに、ニッと悪戯っぽく哂われた。


(クソっ)


 奥歯を噛みしめる。

 睦の唇が耳から首筋へとねちっこく降りていく。舌が弧を描いて、思いがけず心地よく皮膚の上を滑り降りた。心臓が暴れ始める。


「んふっ」

「いい声」


 睦が呟いた。それも悔しくて唇を噛んだ。


「…うぅ――」


 羽根のような感触で背中をなぞられて、また声が洩れた。


「いつもみたいな声を出せよ」


 だから、お前は嘘つきなんだ。と、腹立ちまぎれに怒鳴りたい。

 なのに、頭では怒ってるのに、肌への刺激に体が反応して、ピクピクと震える。気持ちよさと恥ずかしさとで頭がいっぱいになって、涙が出そうになった。


「やめろ!」


 その大声に、はっとした。見れば腕を震わせながら、庄田が俺たちを見据えている。

 そんな庄田に向かって、睦が悪戯っぽい微笑を浮かべた。あの時と同じだ。藤原莉紗をふったあと、俺を嫣然と見つめたときと同じ、不敵な微笑み。

 我に返り、俺は口元を手の甲で隠した。後輩の前で猛烈に恥ずかしいことをした。


「どうした、庄田?」


 睦の腕が俺を解放する。

 睦の腕の中で半ば宙に浮いていた俺は、どっと重力を感じて腰が抜けそうになる。それをなんとかこらえて、倒れてしまわないようにふんばった。


「見所はこれからだぜ? それとも、大好きすぎてこんな淫らな桜井先輩は見たくない? 綺麗でまっさらな桜井先輩じゃなきゃ、嫌? …まったく、ガキかよ。いやらしい現実を見る度胸もないくせに、偉そうに俺に喧嘩ふっかけてくんじゃねぇ」


 庄田が烈火の如く睦を睨みつける。もうどうなっても俺は知らない。


「さっきの威勢はどうした。ん? なんとか言えよ、庄田。分かったろ。拓は俺のものなんだよ。こいつは俺が好きで好きでたまらないんだってさ。俺の目の前で、入れてくれって自分からケツを開くんだよ。だから毎晩、俺のもので突き上げてやってるんだ。それでこいつは善がって喜んでんだよ。その猪みたいな脳ミソでも、ガキの出番じゃないってことが分かるだろ? 分かったなら負けを認めて、さっさと引っ込んでろ」


 ――フラフラだ。血の気が引いて、卒倒しそう。

 …おい。

 睦。

 なんだその言い草は。

 そんなふうに、しょうもない大嘘を睦が並び立てた、直後だった。

 何か、大きな掛け声と共に、庄田がどす黒い顔をして突進してきた。

 本当に猪みたいだった。一瞬の出来事だったけど、俺には全てがスローモーションに見えた。

 彼は振り上げた拳で睦の頬をガンと一発殴ると、倒れかけた胸ぐらを掴んで、今度は腹を膝で強く蹴り上げた。睦の口から断末魔に悶絶するような唸り声が飛び出す。


「あつし!」


 俺の声があたりに響いた。

 腹を抱えてくずおれた睦と、もう一殴りしようとしている庄田の間に、なんとか割り込んだ。両手を使って、力一杯に庄田の体を押し返す。


「やめろ! お前は部室に帰れ!」


 叫びながら、睦が心配で泣きそうだった。

 こんなガタイのいい奴に腹蹴りされて、内臓破裂でもしていたらどうしようと心配でたまらなかった。


「桜井先輩――! でも俺……諦めないから」


 掠れ声で言う。


「分かった! もういい! とにかく、部室に戻れ!」


 さらに強く命じると、追い詰められたように顔を歪ませて踵を返し、走り去る。あいつとは後で時間を取ろう。それよりも、いまは睦だ。


「睦、睦…! 大丈夫かよ?」


 睦は腹を抱えたまま、膝をついて蹲っている。その丸まった背中に手を置いて、俺は何度も呼びかけた。心配で俺の方が死にそうだった。

 まもなく、忍び笑いのようなものが聞こえてくる。


「睦…?」


 睦が肩を揺らしている。わけが分からず横顔を窺った。頬に片手を添えて、本当に笑っている。


「おーいて。いいパンチだったこと」


 赤く腫れた頬をすりすりと撫でながら、いつもの声に戻って言う。


「睦。大丈夫なのかよ…?」


 口からペッと血を吐き出す。ぎょっとした。


「歯、折れたのか?」

「まさか。中が切れただけだ。あんなガキにやられたりしない」

「ハラは? 大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」


 ククっと笑う。


「なんだよ」


 どっと脱力した。心配して損した。


「大袈裟にうずくまるな。心配するだろ」


 むくれて言うと、睦が面白そうに答える。


「あいつ、ざまあみろだな。しょぼくれて戻ってったろ。俺に喧嘩売ったらどうなるか、身に染みたんじゃね?」


 喉を鳴らして楽しそうに笑い続ける。


「お前…」


 俺は半ば呆れて、半ば怒気を込めて、睦に訊いた。


「お前――Qだろ」

「え?」

「Q。俺らのクラスラインの」


 きょとんとした顔をする。突然の俺の言葉の意味が分からない様子で考え込んだあと、はっと思い当たった顔になる。俺の疑念が確信に変わった。

 そうか。

 あれは睦か。

 Qは、今学期の始めに俺らのクラスラインに入り込んで場を荒らしていったとんでもないやつだ。俺は、そいつのせいでものすごく迷惑を被った。

 思い出すうちに、あのときの憤怒やらムカムカやらが甦ってきて、むしょうに腹が立ってきた。


「お前だったんだな、あれ」


 あの妄想癖の、嘘つき野郎は、お前か。

 なんでもっと早く気付かなかったんだろう。よく考えたらあんな悪戯をするなんて睦以外にいない。

 おかげで、あれからどれだけ俺が恥ずかしい思いをしたか。

 睦が立ち上がって、ズボンについた泥をぽんぽんとはたいている。本当に大したことはなさそうで安心した。


「バレたか」


 ふてぶてしく舌打ちして、低く唸る。

 ――は?

 なんとも不遜な言葉に耳を疑う。怒りを通り越して呆れた。バレたか、じゃないだろ。


「なんで俺だって分かった?」


 開き直る戦略に出たらしい。しれっとそんなことを口にする。


「あの時と同じフレーズを使ってたんだよ、さっき」


 おお。さすが、頭いい。などとうそぶく。それでいっそう俺は頭にきた。反省する気はないらしい。


「あのな。あのあと大変だったんだぞ。お前との仲を冷やかされたりして。その度にいちいち、あれは嘘だって説明してさ。庄田にもだよ、なんであんなひどい嘘をつくんだよ。完っ全に誤解されたろ。俺がいつ、お前にケツを開いたよ。あいつが誰かにしゃべりでもしたら、どうするんだ」 


 勢い余ってキワドイ言葉を発してから、耳までカアッとなる。そもそも、庄田の前であんな行為をしたこと自体許せない。


「いいじゃん、どうせ、いつかそうなるんだからさ」

「はあっ?」

「俺は、いつでも大歓迎だけど?」


 ふざけるように付け加えると、睦は皮肉な笑みを口許に浮かべた。


「やっぱり拓ってモテるんだな。ラインでも気づいたけどさ。あれは安田に頼んで、少しの間って約束で、グループに入れてもらったんだ。クラスでの拓の様子が知りたくて。だって俺ら、一度も同じクラスになったことがないだろ?」


 悪びれもせず言う。聞いて呆れる。同じクラスとかって、小学生女子か。

 安田はあのグループを立ち上げたクラスの代表だ。まったく、いくら親友だからってやって良いことと悪いことがある。あの真面目な安田がよく許したものだ。


「だからってあんな嘘をつくな。いつ、睦と俺がそんな関係になったよ」


 つまり、毎晩ヤっているとかいう、アレだ。内容のきわどさに心臓が乱打しつつも、俺は平気なそぶりを努めて装った。


「嘘じゃない。だって俺は、毎晩のように拓でヌイてるんだから。綺麗なお前の顔を想像してさ」


 真顔で言うな。真顔で。

 もう、こっちは高熱で倒れてしまいそうだ。

 なんだってこいつはこう、俺が返答に困るような内容をストレートに言ってくるのだろう。


「な? 嘘じゃないだろ?」


 困り果てている俺の心を見透かすように、甘く言い募る。


「嘘じゃないって――、…違うだろ。それは、嘘だろ。だって…」


 言葉に力が入らない。

 だって。

 悔しい気持ちが沸き起こる。

 俯いて、悲しくて、こぶしを握った。

 だって、俺だって、考えないわけじゃない。

 …もし、俺が女だったら。

 それならもう、俺たちはキスでは終わっていないんじゃないかって。

 俺が男だから、その先を睦に我慢させてしまっているんだろう、って…。

 柔らかく肩を抱かれる。優しく引き寄せられ、胸に抱きしめられた。


「好きだよ、拓。愛してる」


 なのになんだか最近じゃもう、俺の脳を蕩かせてしまうこの言葉で、すぐに誤魔化されてしまう。

 現にいまも心を沸騰させた怒りが引き潮のように治まって、かわりに睦の甘い声で頭がいっぱいになる。睦の体温を受けている肌が蕩けそうになって、全身に幸福の波を呼び起こす。

 いっそ本当に体がとけて、魂が一つになればいいのにな、と思う。

 睦の肩越しに、暗い空間をぼんやりと目に映しながら、ふと思いつく。とけあって、交じりあって、心も体も、魂より深く抱きあえたらいいのに。


 睦と一つになりたい。

 睦に抱かれたい。

 そうなれば、睦の温かさで俺の魂は永遠に凍ることはないだろう。

 睦との時間を、なにものにも、肌一枚にすら、奪われないように。

 いつか、きっと――――。



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