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 翌日から、学校でもこっそり待ち合わせて一緒に過ごした。はたから見れば仲の良い友達同士。また、そう見えるように俺自身、努力していた。

 誰かに感づかれて、冷やかされたり、藤原のときみたいに目障りだと言われるのは嫌だった。長く続けたいから密かに大切にしたいと思った。


 そう睦に告げると、少し残念な顔をした。

 オープンな性格の睦は「本当のことをバラしちゃえばいいじゃん」などと、暢気なことを口にする。いっそ祝福してくれるんじゃね、なんて、能天気なことまで言い出す。

 俺だって、みんなの前で睦は俺のものだと宣言できたらどれほどいいかと思う。

 でも、心無い奴から否定されたり批判されたりするのは嫌だ。俺は睦と違ってそんなに強い心の持ち主じゃない。


「旨いな、拓」


 コーヒーを一口飲んだあとで、睦が同意を求める。

 俺はそれを、ちょっと新婚さんみたいなくすぐったい気分で受け止める。

 背伸びして、学校帰りに珈琲専門店で一緒に買ったレギュラーコーヒー、タンザニア。マイルドで酸味があるって書いてあった。

 二人のためにと買って、部屋にあがってからゆっくりと淹れたコーヒーだ。選ぶのも楽しかった。味や種類のことは結局よく分からなかったけれど。


「これから二人でいろんな種類を飲んでいこうな。それで、お互い好きな銘柄を見つけて、いつか朝食にそれを飲んで一緒に出かけような」


 店を出たあと、帰り道で睦が言った。めちゃくちゃキザったらしく感じて俺は首まで熱くなった。

 どうして睦は思ったことを、こうもストレートにぶつけてくるのだろう。

 幸せだけど、苦しい。

 それが、まだまだ遠い先の未来の出来事でしかないからかもしれない。

 俺たちがまだただの高校生で、自分で稼ぐこともできず、親の世話になっている未熟な身の上であるから感じるのかもしれない。


 けれど睦の描いて見せる未来は、なんて祝福に満ちた1コマだろう。

 そんな未来を前に、俺は安らかな気持ちで命長らえたいと願う。こんな気持ちになれたのは生まれて初めてだ。


「進路アンケート出した?」


 ぼんやりとそんなことを考えていると、睦が訊いてくる。


「先週末までだったろ」


 そう返すと、気まずそうに表情を曇らせる。


「俺、必ず親と意見がぶつかるからさ。まだ話してなくて」


 いつになく落ち込んだ声だ。

 うちの高校では、二年のうちに志望する学部を決める。三年になって、受験で使う選択科目を無駄なく履修するためだ。そのために親と話し合うようにと言われている。


「そう…」


 少し意外だった。

 睦のお父さんは個人病院を経営している内科医で、整形外科や泌尿器科、婦人科など、いくつもの診療科を抱える総合病院の院長だ。

 睦がその跡取り息子として両親に期待されていることは、小さい頃から俺も知っていたし、だから睦が狙っているのは当然医学部だと思っていた。親と意見がぶつかっているということは、彼自身は現段階で医学部を志望していない、ということになる。


「拓。俺、大学に行かないかもしれない」


 ボソリと呟く。

 そこまで思い詰めているのかと驚いた。睦がもどかしげに続ける。


「ギターをやりたくてさ。こんなことを言うと、軽蔑するか?」

「まさか…。俺がお前を軽蔑するわけないだろ」


 当たり前だ。


(似ているんだ)


 俺たちは、似ている。

 思いがけないところでの一致に感動した。一方で睦は、力のない笑みを漏らす。


「拓がそう言ってくれると、すごく安心する。けれどまあ、お袋や親父は絶対許してくれないだろうな。医学部どころか大学にも行かないなんて言ったら、どうなじられるか」


 睦がこんな弱音を吐くのは珍しい。


「睦、俺も大学には行かないつもりだ」


 そう告白すると、今度は睦が目を丸くする。


「どうしてお前まで…。もしかして、俺にあわせようとしてそんなことを言ってくれているのか?」


 俺は苦笑した。


「違う。俺も、睦と一緒だ。本格的にダンスをやろうと思ってる。高校を卒業したら、プロになるためのスクールに通う。ずっと前から決めていたことだよ」

「でもダンスなら大学に通いながらでもできるだろ。拓ほど頭いい奴が、もったいないな…」


 睦なりに俺のことをおもんばかってくれての言葉なのだろうが、俺は真剣に首を振った。


「お前だってそうできるんじゃないの? 大学に行きながら、ギターを続ける。なんでもないことだ。そんな奴、ごろごろいる。でも、それじゃ嫌な理由がお前にはあるんだろ? 俺も同じだよ、そうしたくない理由があるんだ」


 ここまで話しているうちに、最後まで言ってしまいたい衝動に駆られた。


「俺はね、睦。できるだけ早く、この家を出たいと思ってる。早く母さんの扶養から外れたいんだ」


 そう。

 誰のためでもなく、自分自身がよりよく生きるために、俺は一人立ちしたい。


「この間、大学に行かないことは許してもらった。でも別に祝福してもらったわけじゃない。もし失敗したら自分のあの店で働けばいいって言われたよ。つまり、店に来た客に体を売れってことだ。いざとなれば、そんな人生でいいと思われてるんだ、俺は。結局、俺なんかそんな程度の存在なんだろ、母さんにとっては」


 睦が、まるで自分のことみたいに傷ついた顔をする。それに気付いて俺は急いで言い足した。


「そんな情けない顔するなって」


 たまらなかった。睦にこんな顔をしてもらうために話したんじゃない。


「同情なんかいらないよ。ダンス、絶対にがんばってやるって、俺は決めてるんだからさ。俺は負けないよ」


 心配をかけたくなくて、できるだけ明るく言った。


「ああ。そうか、…そうだな」 


 睦が相槌を打つ。一生懸命に納得してくれようとしているのだ。

 そうだ。睦さえ分かってくれれば俺は充分だ。

 俺は母さんなんかに負けない。

 ふと、忌まわしい記憶が甦ってくる。

 胸が爛れそうな過去が、どうしても呼び起されて。


『ダメ…もうちょっと待って』


 あれは中三の時。高校受験間際の二月だった。


『店の男のコで我慢してよ。ユウトなんてどう。可愛いでしょ。モテるのよ、あの子。とにかく、拓はまだ無理…』


 他学年がテスト期間中で、俺たち三年も午前帰りだった。

 いつもより早めに帰宅して階段を上がると、母さんの部屋から洩れてきた声に気付き、耳をそばだてた。玄関の靴から、誰か男が来ていることは察しがついていた。

 艶っぽい母さんの声に野太い声が重なる。


『美樹に似て綺麗な子だよな。これって一目ボレかも? 一度でいいからよ、頼むよ』


 二日前、母さんから紹介を受けた高倉という男の声だった。

 母さんは奴を株のトレーダーだなんて言ってたけど、まさか。それならこんなところでクダを巻いているヒマなんかないはずだろうと噴き出しそうになった。

 これまで母さんが連れ込むのは集りのヒモっぽい若い男ばかりだったけれど、高倉は違った。四十はいっていた。顔は一見俳優みたいに端整だけれど、体が大きく、目つきはいかにも凶悪で、髪型だの服装はヤクザそのものだった。


『一目ぼれ? バカらしい。ただキレイな男を抱きたいだけでしょ、あんたは』


 母さんの嘲笑に似た声が続いた。


『とにかく拓はまだ無理よ。ほんのガキなんだもん』

『美樹の息子だからよ、壊したりはしねえ。丁寧にやるからよ』

『どうだか。でも言っとくけど、あの子を狙ってんのはあんただけじゃないからね。それに、抱くなら店の子の倍、金を出して。アタシから見ても上玉だからね、拓は。安売りはしないの。取れるだけふんだくってやるのよ。特に、あんた達みたいな美しい男を漁る性癖のある奴からはね』

『そんなナマ言うと、朝までヒイヒイ突き上げちまうぞ?』


 男が愉しげに言葉を継いだ。


『お前の綺麗な顔がいやらしく歪むのを眺めるのが、たまんねえんだ俺は』


 下卑た嘲笑がねっとりと耳にこびりつくのを感じた。まもなく母さんの甘い喘ぎ声がしてきた。

 心臓まで凍てつきそうな冷たい廊下で俺は全身を震わせながら、驚きの声が洩れ出ないように強く口を覆った。

 母さんが俺を男に売ろうとしている。

 信じられなかったし、信じたくなかった。いつ、そんな事態になるのかと、不安でたまらなかった。 


 思いつめた俺はその夜、一回だけカッターで五センチばかりの傷を手首につけ、沁み出た血に慰められた。その行為はいまでも俺の腕に一本の薄い傷跡を残している。

 でも、いまとなったら。

 もう母さんのためになど、一滴の血だって流すまい。


(俺は負けない。母さんなんかに負けない)


 沈黙が過ぎる。

 不意に睦が顔を上げた。


「どんなことになっても一緒にいような」


 温かくて真摯な眼差しが、まっすぐ俺へと注がれる。それに励まされ、勇気を貰った。重い話をしてしまったせいか、なんだか互いに気が高ぶっている感じがした。


「うん。俺も。睦がどんな道を選ぼうと、ずっとそばにいる」


 深い色の瞳が俺を包む。

 どちらともなく唇を重ねた。磁石が吸い寄せられるみたいだった。

初めてのキスだ。

 あまりに恍惚となってふらりとし、体を支えようとして思わず机に置いた俺の手に、睦の手が重なる。

 手の甲をしっかりと握られ、感じていた不安と悲しみが拭われた。母さんと高倉から受けた心の傷が、睦から流れ込む優しさによって癒されてゆく。


「気持ちいいな…」


 睦が呟く。

 だんだん強く、深くキスを重ねるうちに舌先が触れた。


「ん、――」


 いったん触れてしまった舌をさらに触れあわそうとして、唇を深く咬ませる。裏に表にとゆっくり舌を絡めれば、唾液のはじける音が響き始める。


「んん……」


 熱い蠢きが体の奥から湧き立ってきた。


「気持ちいい?」


 唇を触れ合わせながら睦が囁く。


「うん…」


 重ねた唇からどちらのものともつかぬ吐息が洩れ、呼吸が乱れた。その息を盗みあうように、またキスにキスを重ねる。


「可愛いな。大好きだ、拓」


 ふと睦が離れた。名残惜しさに唇がついていきそうになる。そんな自分にびっくりする。

 眩しいものでも見るように目を細めて、俺の顔のあちこちに優しいキスの雨を降らせる。目尻の涙もそっと舌先でからめとられた。


 床へと押し付けられて、睦の体が重く覆いかぶさってくる。不意に固いものが腿に当たって、ドクンと大きく心臓が揺れた。たぶん俺のものも睦は感じているはずだ。

 睦の体温を感じながら、切なく目を閉じた。甘く沸き立つ衝動に懸命に逆らう。

 好きで好きでたまらないという想いが胸の奥にじんじんと募る。

 一方で、いっそ一つに溶けあってしまいたいという衝動に俺は必死に抗っていた。



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