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「
部屋に入るなり睦は苦笑して、鞄を床に置くと散らばっている靴下やシャツをばさばさと拾い上げた。
それらを手に部屋を出ていき、代わりに持ってきたのは布団のかかっていないこたつ机と、座布団が二枚。
「重かったろ。手伝ったのに」
「全然。大丈夫」
その手に自然と目が行った。すらりとして見えるのに力強い指。
腕だってあんなに重いエレキギターを軽々と振り回す。そんな筋力が備わっているのだから逞しい。
睦の体に疚しく視線を這わせている自分に気付き、慌てて目を逸らした。
「おばさんは?」
家に上がる前にはしようと思っていたのに、睦に促されて部屋に入るまま、挨拶をし損なっていた。
「仕事に出てる。気にすんな。さ、勉強しよ、勉強」
ベッド横の学習机の上は様々なものが山になっていて、もう何が何やら分からない。それがまた睦らしい。
面白いのは、文鎮らしい三角形のプレートがあって、『片付けられた机は心の病を表す』なんて書かれている。この混沌とした状態を正当化するために置いているのだろうか。
分からないところを教えあいながら勉強を進めた。
俺はやっぱり、英単語の発音だ。「a」の発音一つで躓いてしまう。こんなの中学の範囲で情けないのだが、英語が猛烈に不得手だったりするのだ。数種類の発音の違いを聞き取れなくて頭を抱えていると、睦が丁寧に教えてくれる。
気付けば夕方六時を過ぎていて、階下でドアの開閉音がしたかと思うと、おばさんの懐かしい声が聞こえた。
「あつしぃー、誰か、来てるのお?」
「拓ぅ!」
その場で対応しあうから、かなりでかい声になる。
「拓が来てる!」
「エエー、拓ちゃん?」
ばたばたと階段を上がってくる音がして、部屋のドアが開いた。
「まあ~、久しぶり!」
満月みたいにふっくらとした、優しい笑顔が現れた。
「お邪魔してます」
「よく来てくれたわねぇ、拓ちゃんと一緒に勉強なら安心だわぁ。もう睦ったら、いつ勉強してるんだか分からないのよ。あ、夕食、食べていきなさいね」
朗らかな口調で誘ってくれる。おばさんは出会ったころから全然変わらない。
「はい、お言葉に甘えます」
幼いころから世話になりっぱなしなので、いまさら遠慮する立場でもなかった。うんうんと、おばさんが笑顔で頷く。
「それより、この間は睦のバカが夜遅くにお邪魔してごめんねぇ。迷惑だったでしょう?」
「大丈夫です」
「今夜はスープカレーだから。たくさん食べてってね!」
元気溌剌という感じだ。
「ありがとうございます」
「ハラ減ったから、ソッコーで頼んます」
睦がくだけた調子で言い足す。
しばらく経って夕食に呼ばれた。
勉強も佳境を過ぎてややダレ気味だったので、この時間はちょうどよかった。
リビングに足を踏み入れると、おいしそうに湯気立つご飯に目が釘付けになる。
新鮮な香辛料の刺激が唾液を誘った。食べ物を前にこんなに食欲が沸くなんて、久しぶりだ。人が作った温かな手料理なんて、いつぶりだろう。
おにぎりも大きくて、たっぷりの海苔が巻かれていて、しっかりと手で握られている。どしんとして頼りがいのあるおにぎりだ。
スープをすすりながらおにぎりを食んだ。ちょうどよい塩味。おいしい。涙が出るほどにおいしい。
たまに簡単な料理はするけれど、だいたい俺の夕食は手軽な麺かコンビニ弁当だ。ましてカレーなんて自分で作っても余り過ぎて、たくさん捨てなくちゃならないから、もう二年は作っていない。
「とてもおいしいです。おばさん」
アーリーアメリカンを意識したようなぬくもりのあるインテリアと、出来立てのご馳走は、もう俺の家にはない家族の団欒を思い起こさせる。
俺はだいぶ感極まった声を出してしまったらしい。おばさんがことさら優しい声で返してくれる。
「いつでも食べにいらっしゃい。一人の食事は寂しいでしょう?」
母さんが夜の仕事で忙しいこと。
だから俺はいつも孤食であること。それもたいした食事をとっていないこと。
そんなのはきっと、大人のおばさんならばすっかりお見通しなのだろう。
「はい」
泣きたくなるのを必死にこらえて頷いた。その間もずっと、睦の柔らかな視線を感じていた。
夕食前は、これをご馳走になったら帰ろうと決めていたのに、睦の部屋に戻ってまた英語をさらって勉強を再開しているうちに、結局、十一時近くになってしまった。おかげで三教科さらうことはできたけれど、さすがに疲れて座卓に突っ伏す。
いい加減、帰らないとと思う。…そう。一分で帰れる距離なのだ。
この間は、疲れた睦を自分の部屋から追い出した。なのに逆の立場でこんなふうに夜中まで居座っては、さすがに図々しいというものだ。ちょっとだけこうやって、一休みしたら帰ろう。そう思っていた。
ところが。
勉強の終わった解放感で睡魔に襲われ、そのままスウっと寝込んじまったらしい。次に意識が戻ったのは、傍で人の動いた気配を感じとったときだった。
「……!」
やばい、と慌てて飛び起きる。
(寝てた。熟睡しちゃってた)
勢いよく頭をあげた。
斜め前には、すでに部屋着で寛いでいる睦。
髪が濡れている。シャワーを浴びたのか。その間も俺は、ぐうすかと眠り込んでいたわけだ。
「布団ひくから」
飛び起きた俺に、落ち着き払った声で睦が言う。
「なんで起こしてくれなかったんだよ!」
立派な八つ当たりと承知しつつ、他に当たりようがなくて叫んでしまう。それで睦の表情が驚いたふうに崩れる。
「布団はいらない。帰るから」
起きたてのよく回らない頭で、とにかく帰らねばと良識が命じる。机の上の教材をカバンに詰めようと急いだ。
「もう一時まわってるぜ」
呆れた声を出された。けれど、二時だろうが三時だろうが、俺の部屋はほんの数メートル先だ。ターザンなら窓から窓へひとっとびの距離だ。当然、帰るに決まっている。
手首を取られた。突然のことに動きがぴたりと止まってしまう。
「おふくろが拓にって。歯磨きとか、着替えとか、布団も」
誘導されて視線を走らせると、確かに睦のベッドの上には布団一式、まくら、ホテルのアメニティと思しき未開封の歯ブラシとバスタオルが置かれていた。
「泊めてやれって言われてるんだ。お前を帰したら、明朝怒られるのは俺だぜ。そうしたら、俺は多大な迷惑を
ひくっと言葉に詰まった。
こいつは、「迷惑」という台詞に俺が弱いことを知っているのだ。こう言えば、俺が断らないだろうと確信をもっているに違いない。
「わかった」
その通りなのでしぶしぶ頷いた。
「シャワー浴びて来いよ」
着替えが手渡される。
幼稚園生じゃあるまいし、睦のパンツなんか履けるかよと思う。それをまるで察知したように睦が言い添える。
「大丈夫。下着は新品だってさ」
「お前、いつもこんなキツ目のボクサーパンツ履いてんの?」
つい、こんな憎まれ口を叩いた。
「じゃあ拓は、いつもユルいトランクスでダンスしてんのか?」
軽く切り返されて、一気に頬の熱が上がる。
「踊りにくくね? つまりその、チ…」
「俺はブリーフだから!」
思わずムキになってしまい、クスクスと笑われる。完全に睦のペースだ。
「ビキニだろ? そう変わらないから、とりあえずそれ履いとけよ。あとTシャツと、はい。ハーフパンツ」
もう抵抗はやめて、大人しく受け取った。
ともかく、これらはおばさんからの心遣いなのだ。そう思ってありがたく受け取ることにする。
シャワーを借りて寝支度を整え、部屋に戻ると、床には座卓の代わりに布団が敷かれていた。
なんだか旅館みたいだ。こんな状況にどこか感覚がフワついて、浮足立っている自分がいる。なんてことはない。なんだかんだ言って睦の部屋に泊れるのが嬉しいのだ。
「拓は俺のベッドを使えよ」
そう言われて、またしばらく攻防を繰り返した。けれど、これもおばさんの命令だからと言われて、結局睦のベッドを使うことになる。これでも睦に迷惑をかけていないと言えるんだろうか。怪しくなってくる。
それに二時間も変な時間に寝ていた俺は、目が冴えてしまっていた。
睦がミネラルウォーターを入れて持ってきてくれたから、二人で布団の上に胡坐をかき、それをちょびちょびと啜る。
そういえばこんなふうに睦と隣りあって寝るなんて久しぶりだ。変に意識してしまって、ちゃんと眠れるだろうかと心配になる。
睦の呼吸の一つ一つさえ感じられ、その体温が伝わってくる。
そんな距離で座りあっていると、胸がざわついてしかたない。しかも、見慣れない黒のタンクトップに湯上りの睦は、妙な色気があって視線の置き場に困る。
「そういえば、庄田君は元気?」
いきなり、そんなことを言われる。なんで?と不審に思いながらチラっと見上げると、からかうような視線だ。
「あの時、手え繋いでたな」
睦が口角をあげる。
やっぱり見られていたのか。
「お前、庄田と付きあってんの?」
「はあ?」
人の気も知らないで、何、うつけたことを言ってやがるんだろう。
「んなわけねぇだろ、ふざけんな」
睨みながら、そういえば庄田にも睦とのことをこんなふうに訊かれて、同じように返事をしたなと思い出す。いったい俺をなんだと思っているのだろう、こいつらは。
「でも、告られたろ」
ニヤついて続ける。
「拓が好き好きでしょうがないって顔してたもん、あいつ」
「な、…どんな顔だよ。だいたい人のこと気にしてる場合か? 付きあってんだろ、藤原理沙と。さっきは図書館でなんの喧嘩をしたわけ? おかげで俺まで睨まれたぜ」
食ってかかると、
「へえ。拓を睨んでたのか、あいつ」
痛くも痒くもないようなすっとぼけヅラが癪に障った。
「おい。とばっちりを食った俺の身にもなれ。なんで俺までお前の彼女に睨まれなくちゃならないんだよ」
「それは誤解だって」
悪びれるふうもなく笑う。
何が誤解だというのだ。俺はしっかり睨みつけられたというのに。
「あいつは、ストーカーなんだから」
続いた言葉に、ひっくり返りそうになった。
ストーカー? 藤原理沙が?
「だって…あの子、芸能人だろ」
芸能人がストーカーになるってどういうことだ。逆ならあり得るだろうけど。
「そうらしいな。俺はよく知らない。だからかな、男は全部自分のものになると勘違いしてるみたいだった。いい迷惑だ」
落ち着きはらって言うが、俺のほうは愕然とした。
「ならお前、あの子と付きあっていないの?」
念のために確認する。あっけらかんと睦が答えた。
「もちろん。藤原には好きな奴がいるからって、ずっと言い続けてきたんだけどさ…。どうしても信じようとしてくれなくて。今日はちょうど拓がいたし、あいつだって教えてやったんだよ」
「――?」
眉をひそめて、そんな顔をしてしまう。
いま、なんて言ったんだ、睦は。
「藤原が拓を睨んだのは、だからだろ。もう近寄ってくることはないだろうから、許してやれよ」
脈拍が乱れ始めた。だというのに、睦は顔色一つ変えない。
「あ――、じゃ、お前の好きなのって…?」
聞き間違えかもしれない。
いや、きっとそうに違いないと思いながら、おそるおそる訊ねた。
睦が頬杖をつき、俺へ視線をとどめる。
「お前だよ。いま、そう言ったろ」
軽く呼吸が止まった。
「少しも気づかなかった?」
「そんな。気づくわけないだろ…」
掠れ声で、息も絶えだえに答えた。睦の顔を見ていられなかった。
気付けるわけがない。
だって、俺は、ずっとかなわない想いだと信じて胸を焦がしてきたのだから。
諦めなくてはならない恋だと、侘しく心にしまい込んできたのだから。
「お前は? 拓。返事を待ってるんだけど」
睦の声が、急に甘く色づく。その瞳に間近でとらえられる。どきんとした。
好きだ、という気持ちが溢れてきて止まらない。
…好きでいていいんだ。これからは、我慢しなくていいんだ。
「好きだ。…睦」
くしゃり、と、髪を優しく掴まれた。
心を蕩かす声が返ってくる。俺の大好きな声。
「うん。実は、少し気づいてた。だってさ…、俺を見る拓の目、いつも潤んでるから」
――潤んでる?
身に覚えのないことに、ひどく動揺してしまう。
「そ、…本当に?」
「こんなときに嘘を言ってどうなるよ」
自覚がなかった。でもたいした問題じゃない。俺は睦が大好きで、睦もまた、俺を好きでいてくれてるんだ。ラッキーとしか言いようがない。
「好きなんだよ、拓」
体を引き寄せられて、睦の唇がさりげなく耳に触れた。体が寄せられるのなんて、昔から数えきれないほどあるのに、いまさらのように意識して肩がピクンと跳ねる。
「男同士でもいいのか…?」
「関係ないじゃん?」
「それ、答えになってない」
苦笑を漏らすふりをする。
嬉しくてしかたないのに、それを隠そうとする。
「その素直じゃないところも、好きなんだよなぁ」
爽やかにかわされた。
顎に指が掛かって、クイと持ち上げられる。
「あ…」
無防備な声が漏れた。
「可愛い」
滅多にないことを言われて、どうしていいか分からなくなる。なのに睦は憎らしいほど余裕だ。
睦の手が俺の手を探り、触れ合うなり指を強く絡ませる。これまで味わったことのない甘い気分に全身を支配された。
「ずっと、一緒にいような」
「うん…」
人生の最高をひとまとめにしたような幸せが今日、この日に来ようとは、思いもよらなかった。
ぎゅっと抱きしめられて、目眩に似たものに襲われる。想いが繋がったんだ。…好きという想いが。
ゆっくりと布団の上に倒れこんだ。睦の体が俺へと重なる。
圧される感覚が快い。
「大事な拓」
嬉しくて。もったいなくて。
横になってしまうと、ぴたりと密着した体を、睦が遠慮するみたいに離した。
もっともっと睦を感じたかったから、睦の優しい吐息を頬に感じながらも、それだけがなんとなく淋しかった。
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