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父さんが死んだのは小五の時だったから、睦がアメリカに行っている最中だった。
その死に打ちひしがれ、心が死んだようになって、そんな状態をどのように睦に告げたらよいのか分からないまま、俺は半年ほど手紙を送れないでいた。
睦は、「病気しているのか」と心配そうな手紙を何通も送ってくれたけれど、それにも返事を書けずにいた。
そのうち、おばさんの友人伝手で知らせが入ったらしい。
『友達なのに、側で支えてやることもできない。こんなにつらい思いをしているときに、一緒にいてやれなくて、ごめんな』
そう書かれていた。
仕方ないじゃんか、なんでお前が謝るんだよ。
そんなふうに強がりながら、その心遣いに目が熱くなった。
睦がそばにいてくれたらと、父さんが死んでからずっと思っていた。
睦さえいてくれたら、この底の抜けたような真っ暗闇にも、光が届くだろうに。
はるかアメリカの地にいながら、どうして睦はそんな俺の気持ちを感じとってくれたのだろう。心のどこかが確かに睦とつながっているような気がして、俺は嬉しかった。
その手紙を手にしながら、睦に会いたくてたまらなくなった。そう思うと目から涙が零れた。
「睦――…」
いつになく激しくしゃくりあげながら俺は、睦の体温が伝わってくるその手紙をぎゅっと握りしめていた。
一学期の中間考査は四日間にわたる。
考査最終日の前日、放課後に市立図書館に行った。
テスト期間中の部活は休みで、テストのあとすぐに向かったから、図書館の自習スペースにはいくつか空席があった。
明日のテストは現代文と英語と化学だ。
苦手な英語のCDをおとしたポータブルプレーヤーをイヤホンで聞きながら、リスニング問題を解いていた。
まもなく肩にすっと手が乗ってきたから振り向くと、睦が立っている。
いつもの人懐こい微笑で俺の隣に座ると、化学のプリントと、A4の藁半紙の束を机に置く。藁半紙にひたすら書きまくるやり方は、中学から変わらない睦の暗記法だ。
(…会っちゃったか)
チリつく胸の痛みを覚える。
なるべく会わないように逃げ回っていたのだ。
その顔を見てしまえば、好きだという気持ちで胸が詰まったように苦しくなるから。
いまだって、こうして睦を隣に感じているのは苦しい。アイドルを彼女に持っているような睦を、いまだに想っている自分が身の程知らずに思われて、恥ずかしかった。
それにこうやって学校以外で睦といると、庄田みたいなやつからまた二股だのなんだのと誤解されるのも嫌だった。本来なら、友達なんだから一緒に勉強することくらい自然なのに、いったん変な噂が立つともうそんな目でしか見てもらえなくなる。
そして、もっと困惑する状況に陥ったのはそれから三十分ほど経ったときだった。
相変わらず英語の聞き取りに夢中になっていたところに、突然、睦が腕を揺さぶってきた。今度はなんだよ、と顔を上げて睦を見ると、なんとも複雑な表情で俺を見ている。
次に目に入ってきたものにぎょっとした。睦の背後に立っているのは、藤原莉紗。もどかしげな微笑を浮かべて俺たちを見比べている。
デートなら他でやれ、と俺はムッとした。
睦が椅子から立ちあがり、俺のイヤホンをとって囁く。
「ちょっと話してくるから。荷物、見てて」
なんで俺が、と文句を言う間もなく、藤原と行ってしまう。
睦は両手をズボンのポケットにしまい込んですたすた歩く。彼女はやや追いかけ気味についていく。
(あーあ、もうちょっと気ぃ遣って歩いてやれよ、優しくない男はフラれるぞ)
いっそフラれてくれりゃありがたいのに、そんなことを本気で心配したりする。ほんとにアホらしくなった。
二人は十メートルほど先、トイレや喫煙室に続く通路の角で立ち止まった。向かいあって、なにやら込み入った様子で話し始める。見れば見るほどお似合いのカップルなのに、深刻な話をしているのか二人ともに笑顔がない。
急に睦がこっちを指さした。藤原がその視線を追い、俺の目とかちあう。
(…なんだ?)
不意打ちを食らって茫然とする。
人を指差して、なんの話をしていやがるんだろう。
心臓が不快に脈打って、耳から入る英語の音声が理解不能のまま脳内で流れていった。
藤原莉紗は俺から視線を外し、睦とさらに話し込む。なんとなく口論っぽい。
なんだろう。
誤解でもされたんだろうか。
まさかと思うけど、Qとか庄田みたいなやつから、二股の話でも耳に入ったりしたんだろうか。
ならば俺が誤解を解いてやろう、莉紗サン。
俺と睦とは、なんでもナイです。…え? 付きあってる? 俺と睦が? まさかぁ、ありえないでしょう。あはは。とでも言うよ。ならいいだろ。
ともかく二人して俺の前からいなくなれ。お似合いの二人を目にしているほどつらいことはないから。
しばらく経って、藤原莉紗だけがこっちに歩いてくる。ぼさっとしてた俺は、慌てて視線をノートに落とした。
ところが俺のすぐ横まで来て、藤原が立ち止まる。予想外のことに驚いて体が硬直した。
焦点の定まらない目でノートを見ているふりをする。そのまま数十秒。
永遠のように長く感じられたその間に、薔薇に似た甘い芳香が漂ってきていたずらに鼻先をくすぐった。なんらかの反応を強く求められているような気がして、俺はしかたなくゆっくりと彼女を見上げた。
頭上にあるのは、美しい顔に、きつく、きつく、俺を睥睨する瞳。そしてぎゅっと寄せられた、憎悪の影射す柳眉。
(なんだ?)
愕然として、再び視線をノートに落とした。見ていられなかった。それで、藤原はやっと歩を進め、去ってゆく。驚いたままの俺はまだ固まっていた。
(なんで俺が睨まれたんだ?)
あまりに鋭い視線だったから、だんだんとムカついてきた。
例えば、これからデートをしたかったのに、俺がいて駄目になっちゃったとか?
でもそんなの、勝手にすればいい。
例えば、二人でいる席がなくて困っているなら、いますぐ、俺、ここをどきますけど。
…ああ。でも、違う。
そんなことじゃない。
あの子が、あの可愛い顔を売りにしているアイドルの女の子が、あれだけ顔を歪めるなんて余程のことだ。だからそんなつまらない理由じゃない。
睦を見た。
彼女を怒らせてしまったというのにしょぼくれるでもない。平然とした表情でスマホをいじっている。
…何したんだよ、お前。
あんな顔、彼女にさせてさ。おかげでこっちまで睨まれちゃったじゃないか。
心で咎め立てていると、何を思ったか睦が視線をあげて俺を見る。目と目が合うと、ニヤリといたずらっぽい微笑を浮かべた。…この不敵な笑い、どういう意味だ。
鷹揚に歩いてくる。席に戻るなり、暢気に言った。
「ああ、腹減ったな。拓、昼メシ済んでる?」
「いや――」
いきなりそんな話かよと毒気を抜かれる。
「なんか食いに行かね?」
図書館だから本来は私語を慎まなくちゃならないんだけど、ここは児童図書スペースが近くて、子供たちの声もかなり騒がしいからそんなに気を遣わなくてよかった。
俺も腹はすいていたけれど、昼食を抜くのには慣れていたし、それよりもいまここを離れることで、いろいろと不便が起こることのほうが嫌だった。
昼飯を食べに行くくらい長時間席を外すなら、この席を引き払わなくちゃならない。戻ってきたときにはもう空席はないだろう。つまり、勉強できる場所がなくなってしまうのだ。だからといって、こんな真っ昼間にまだ母さんが寝ている家に戻りたくはなかった。
「他に勉強する場所ないんだよ。家は母さんがいるから嫌なんだ」
正直に打ち明けた。
睦に母さんのことを詳しく話したことはないけれど、父さんの死後、母さんが会員制クラブの店を持ったという話は、同級生の家庭ではよく知られているらしかった。
睦が落ち着いた調子で言う。
「んじゃ、俺んちに来いよ」
想定外のことに唖然としてしまった。
「いいのか?」
「そりゃあ。悪い理由なんかない」
さらりとしたものだ。
――でも俺は困る。
睦への恋しさを忘れたいのに、こんな誘いを貰えば抗えなくなる。本当はいつだって睦といたいという、自分の本心を思い知らされる。現実から目を背けたいのに胸が苦しくなるのだ。
なのに俺は呆気なく陥落した。
苦い内心が外に出ないよう、気を付けながら答える。
「じゃあ、そうする。金ないから、昼飯はマックでいい?」
「もちろん」
「ついでにお願いがあるんだけど」
「ん?」
「英語の発音を教えてくれないか。時間があればでいいけど」
何か他に理由があれば、睦の家に行くにも自分の中で納得がゆくように思えて、そんなことを頼んだ。
睦が鞄を肩に担いで、びっくりしたような顔で俺を見る。
「お前がそんなこと頼むの、珍しいな。秀才なのに」
「…秀才?」
変な言葉。
「いいけど。俺が拓に教えられるのって、それくらいだしな」
謙遜だと思った。
図書館は駅前の大型ショッピングセンターの上層階にあるので、エスカレーターで地階へ降りた。
目の前にある睦の髪を眺めながら、一度でいいから触れてみたいなぁと思う。ちょっと茶色がかっていて、ライオンの鬣に似ていて、触ったら気持ちよさそうだ。
もし俺が女の子だったら、俺たちはどう見えるのだろう。少しは、お似合いに見えるだろうか。
…などと、くだらない妄想をしているのは、さっきの藤原莉紗の顔がちらついて頭から離れないせいだ。
『あんたなんて』
…あの瞳は確かに、俺にそう語っていた。
もしかして、俺みたいなのが睦とつるんでいることさえも彼女には許しがたいことなのだろうか。それにしても、憎まれるほどのことはしていないと思うのだが。
午後の二時過ぎで、店内はすいていた。
ハンバーガーを頬張りながら、テストのヤマはりとか試験範囲の漢字の確かめとかをしあう。けれど、本当に俺が訊きたかったのは、やはり藤原莉紗とのことだった。
こっそりと睦の顔色を伺う。彼女と喧嘩したわりには平然としていて、本当はたいした喧嘩じゃなかったのかもしれない。
「これ、酸素がくっつくのに還元ってのがちょっとね、ミソ」
三個目のチーズバーガーを左手でパクつき、右手で藁半紙にガリガリと書きながら、睦が言う。
先に食べ終わった俺は試験範囲の国語をさらっていた。
そろそろ幼稚園帰りの親子が目立ってきたため、睦の食べ終わるのを待って店を出る。
睦と歩いているといろんな女の子が振り返る。電車内でもちょこちょこと視線を送られる。自信ありげな子ほど堂々と笑顔を遣してくる。でも、それでも藤原莉紗ほどの美少女はいない。そして睦の方も、どんなに他の女の子たちから誘うような眼で見られても相手にする気配はない。
そんなとき俺は、さすがだなと思う。
よく藤原莉紗を選んだなと、心から感心する。
(お似合いだ)
そう。ほんとに藤原莉紗ほど睦に似合う子はいない。喧嘩したなら早く仲直りしたほうがいい。
そっと唇を噛んだ。
(早く諦めろ)
誰のためでもない。自分のために睦への思いを断念しなければ。でなければ、自分がつらすぎる。
睦への想いをカプセルにでも入れて遠く宇宙に飛ばしてしまおうか。いま、飛ばしたらどうなるだろう。もうどうしたって取り戻せなくなるのだろうか? それでも俺は、幸せだといえるんだろうか。こんなつらい恋でも、しないよりかはしてる方が幸せってこともあるのか。
答えの出ない問いが空しく思考を行き来する。
「何、ボンヤリしているんだ?」
駅から家に向かう途中で、睦が俺の顔を覗き込む。
「さっきから泣きそうな顔してるけど…」
虚を突かれて、うっと小さく喉が鳴る。そんな顔、してるのか。
わざとむすっとした。
「別に。なんでもねえよ」
二人で明るい道を静かに歩く。
この苦しみから抜け出せる術を知りたい。そうすればこんなふうに嘘をつく必要はなくなる。
(諦めろ)
どうしようもなく切なくて縮こまってしまう心に、そう言い聞かせた。
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