*** 2 ***

p7



 日曜の朝。

 大失敗だった。

 図書館が開く時間なんて待たないで、もっと早くに出かければよかったのだ。

 市立図書館に行くときは、開館に合わせて八時半に家を出る。普段ならそれでもこの人に会うことはない。なのに、今日は珍しく帰宅が早かったらしい。おかげで鉢合わせる羽目になった。


 七時半ごろ朝食を作りにリビングに降りたときには、彼女はもうすでにソファに寝そべりながら、ぼんやりした目で朝のニュースを眺めていた。俺に気付くと、呂律回りの悪い声で言う。


「拓、朝食作るなら、あたしのもお願い」


 酒臭い息。タバコ臭い長い髪。洋服からはきつい香水の匂いが漂ってくる。いつも洗面所に転がしてある高級ブランド品だ。

 体に密着した黒いミニスカートの裾から、ガーターベルトと白い腿が露わになっている。足元には脱ぎ散らかされたストッキング。それらが悪戯に、俺の神経を逆撫でする。


 母さんと会うのは久しぶりだ。

 コーヒー用の湯を沸かした。別のコンロでベーコンエッグを炒める間に、冷凍してあったほうれん草をレンジで温める。それにオーロラソースを添えた。


「あたしパンはいらない。太るから」


 そう言われ、自分の分だけのパンを焼き、インスタントのブラックコーヒーを二つ淹れた。


「できたよ」


 声をかけると「う~ん」とひとつ大きく唸って、ソファから身を起こす。強張った肢体をほぐすように肩と首をくねらせると、腰までの波打つ髪が腕に絡みつく。半開きにしている紅い唇が、気だるげに溜め息をついた。

 油断しきったような顔。でもその虚ろな瞳の真ん中は、いつもどこか冷めている。


 ああ、俺には分かっているよ、母さん。

 あなたは別に、見た目ほどボンヤリでもなければ、アタマが弱いわけでもない。まったくとんだ役者だってこと。

 そんな母さんだから、やりおおせたのだろう。夫を死に追いやることだって。その保険金で夢に見ていた店を持つことだって。

 うまくやったよな。父さんは過労死扱いで、この家のローンもチャラ。それも全部、計算ずくだったんだろう。


「あんたはなんでもできるから、ほんと助かる」


 食卓に着くとマルボロに火をつける。濃紫のマニキュアが光る指には、でかくて赤い宝石の指輪。偽物はけして身に着けない主義。商売繁盛上々ってとこだ。おかげさまで俺もあれこれ必要な金を貰えているんだから、感謝しなきゃならない。

 胸元の広く開いた服から豊かな乳房が浮き出ている。その谷間に輝く大ぶりなダイヤモンドのネックレス。ときどき、気にするように手のひらで顎や頬をリフトアップする。透き通るような白い肌は見た目ほど弱くない。逆に、強いからこそ美しい。昔から女優みたいだと言われ続けてきた美貌で、実年齢より十歳は若く見える。

 幼いときからこの人にそっくりだと言われてきた。顔が似てる親子は性格も似ると聞く。事実なら生きる気が失せるというものだ。


 母さんは眠そうな目で紫煙を漂わせながら、物憂げに箸を動かし始めた。

 見ているうちに俺もタバコが吸いたくなった。

 俺がタバコの味を知ったのは、父さんが死んだときだ。葬儀のあとで、父さんが外回りに使っていた営業カバンから一箱だけ見つけた。

 玄関に素っ気無く放り出されていたそのカバンを、俺は最初、何気なく手に取った。汚れた取っ手に手垢が染み付いていて、茶色く変色していたのを憶えている。カバンは縁や底が擦り切れていて、まるで疲れた父さんの心が放りだされているみたいに感じられた。


 あのとき、使いかけのセブンスターのケースにはまだ十本以上が残っていた。それと携帯トレーとを部屋に持ち込み、一本だけ吸った。見様見真似で根元まで吸ったら気持ちが悪くなって、トイレに駆け込んだ。胃酸まで吐き出しながら目から涙が溢れて止まらなかった。

 吐くことで食道や喉を痛めつけたせいなのか。父さんの死が悲しかったからか。それとも、母さんへのやるせない憎しみのためなのか。あの涙の理由は、いまでもよく分からない。喉から何も出なくなった後も、俺は同じ姿勢で涙をトイレに落とし続けていた。


「高校は行ってる?」 


 久しぶりに会ったと思ったら、驚くようなことを訊いてくる。


「行ってるよ。そうだ、進路のことなんだけどさ。教師から親と話せって言われてて」

「ふうん…」


 気のない返事。


「俺、大学に行く気はないから。そのための金は、必要ないから」


 意外だったのだろう。母さんは珍しく興味を持った眼差しを上げて、ゆっくりと俺を見た。


「で? 何すんの?」

「バイトして、働きながらダンススクールに通う。そこでインストラクターの資格を取って…。できれば、プロになってステージに立ちたいと思ってる」


 しばらく沈黙した彼女は、突然、可笑しそうにアハハ…と笑った。


「あたし、あんたのこと、もうちょっと頭のいいヤツだと思ってた。こういうの、世間知らずっていうのかな。それとも、無知なガキの夢?」


 新しいタバコを咥えて火をつけると、長いブレスで俺のほうへと吐き出す。冷や水を浴びたみたいに体が凍りつき、小刻みに震えだした。それに耐えようと、膝の上でこぶしを握る。


「まあ、やってみればいいんじゃない? 自分で稼いでスクールに通うなら反対しないわよ。どうせ、うまくいきっこないだろうけどね。失敗したら、あたしの店に来ればいいわ。拓は可愛い顔してるし、いくらでも稼がしてやるから」


 最後の言葉が決定打となって、体の震えが止まらなくなった。そろそろ見た目にも分かってしまいそうなくらいに、足も腕もガタガタと震えている。

 父さんの命と引き換えに出したボーイズ・クラブ。深夜から朝まで従業員に身を売らせているくせに、よくそんなことを息子に言えるな。


「眠い。じゃあね。ごちそうサマ」


 気だるげに立ちあがり、髪をかきあげながらリビングを出てゆく。二階へあがる足音がひえびえと鼓膜に響いた。

 もうおしまいか。俺の話は。


『親からは、失敗したら体を売ればいいと言われました』


 担任に伝えたらどんな顔をするだろう。

 でもいい。

 とりあえず自分の希望を伝えて反対されなかった。それで良しとしよう。あの人にこれ以上を求めるのは、酷というものだ。


 まだ箸をつけていないベーコンエッグとひとかけ齧ったパン、飲みかけのコーヒーが目の前で冷めていく。


(早く、この家を出よう…)


 寂しい食卓を見ながら固く決心する。

 早く、自分で自分を養えるようになろう。早く、ここから逃げるんだ。

 進学をまるきり考えなかったわけじゃない。大学に行きながらだってダンススクールには通える。でも、そのためには母さんの援助をまだ必要としてしまう。

 中学までは救い出してくれそうな誰かを探したり、見えない神様に祈ったりした。

 けれどいまでは分かる。運命は自分で切り拓かなければならない。一歩を踏み出すのは、他でもない自分自身なのだと。

 だから俺は進学をやめる。俺が俺らしくあるために。自分自身で自分の道を切り拓くために。それを、幼稚な夢だといくら嗤われようとも。


 あの夜のことを、俺はまだ忘れられない。

 夜中、母さんは父さんに静かに、さっきみたいに冷淡な声で滔々と語りかけていた。俺はドアの向こうで、息を潜めながら母さんが発する信じられない言葉の数々に耳を傾けていた。


『すごいわね、あなた。ホント、仕事たいへんよねぇ…。連日連夜、夜中過ぎまで働かされて。安い給料でよく我慢してるわね。ていうか、恥ずかしくないのかなって。――プライドはないの? 拓にも、これからお金がどんどんかかってくるっていうのにね。この家のローンだって、何十年も残ってる。だから不安なのよ。あなたが死んで、保険金でも入れば別だけどね。――今夜もうちにいられるのは四時間? ご苦労様。たいへんね。まあ、でも実際あなた、よくがんばってる。だって、過労死ラインゆうに超えてるじゃない? たとえ自殺しても、会社から慰謝料をもらえちゃうレベルよね。欝で自殺しても、誰もおかしいって思わないんじゃない? ほんとこんな人生であなた、よく我慢していられるなって、逆に感心しちゃう、あたし』


 父さんはそれを黙って聞いていた。もともと気の弱いところのある人だった。

 二日後、職場で首をつった。誰もいない、夜中の会議室で。


 なのに俺は。

 警察に訊かれても、あの夜の母さんの言葉を訴えられなかった。訴えてしまえば、捕まって母さんまでがいなくなってしまうと思ったからだ。

 …情けない、弱い俺。母さんだけを責められない。

 でも、母さんは許せない。絶対に。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る