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 ゆるやかに波打つ茶色の髪が、斜線を引きながらまぶたにかかっている。高く通った鼻筋と、きゅっと閉じられた少し大きめの男らしい唇。そして、引き締まった顎のライン。すべてが俺好みに美しく整っていて、どうしたって目が離せない。好きだという気持ちに抗えない。


「昨日のダンス部、すごかったな…」


 急に、寝言みたいに睦がぼそりと言う。どきっとした。


「めちゃくちゃ巧かった。あんな高速のダンス、お前ら、よく揃って踊れるな」


 切れ長の目が開いて視線を向けられる。美麗な流線型を描く瞼を目の当たりにして、俺の頬にすっと熱が溜まった。


「拓はさ、なんでダンスを始めたんだ?」 


 俺はどぎまぎした。


「なんだよ、急に…」

「だって、俺がアメリカから帰ってきたときには、もうキッズのコンテストとかで賞を貰っていたろ? なんで? いつから始めたんだ?」

「いつって…、」


 それは、睦がアメリカに行ってしまったあとだ。

 残された俺は寂しくて、悲しくて、どうしたらいいか分からなかった。睦のいない毎日は学校にいても家にいてもつまらなくて、しばらく呆然としていた。

 夢中になれるものが欲しかった。水泳とか、ピアノとか、絵画とか。なんでもよかったけれど、一番面白そうだったのがダンスだったのだ。

 ジャズから始めてヒップホップやブレイクへと進んでいくうちに、その面白さの虜になった。練習をすればするほどうまくなった。それはどこか勉強にも似ていて、ダンスは俺の努力をけして裏切らなかった。睦のいない心の空白を埋めてくれたのが、ダンスだった。


『俺、四月からアメリカに行くことになったから。テキサスってとこ』


 睦はあのとき、アメリカに行くことをなんて素っ気なく俺に伝えたことだろう。俺の受けるショックや、置いてきぼりを食う寂しさなんか、頭にかすりもしないような顔をしていた。だから睦にはダンスを始めようとした俺の気持ちなんか分からない。


 ――睦。

 俺は、お前がいなくなった寂しさを紛らわすためにダンスを始めたんだ。でも、そんなこと、絶対に教えてやらない。

 答える代わりに質問を返した。


「なら、お前はなんで? 俺だってびっくりしたんだぜ、すげえギター巧くなって帰ってきたろ。なんでギターを始めたんだよ」

「それ、は――――まあ、いろいろあって…」


 言いにくそうに返事を濁す。俺は呆れて言い返した。


「なんだよ。自分でも答えられないことを人に訊いたわけ?」


 途端に睦が唇を尖らす。


「答えられないわけじゃない。ただ、あんまりいい思い出じゃないから。アメリカでは、言葉が通じないうちはクラスメートからバカにされたりもしてさ。何か、打ち込めるものが欲しかったんだ。エレキは親父がやってて、前から興味があったし」


 睦は、よっと身軽く起きあがり、胡坐を組み直す。


「ほら。俺は答えたぞ。拓は? なんでダンスを始めようと思った? いつから? 前から興味があったわけ?」


 これじゃ質問攻めだ。俺は黙ったまま、部屋着のジャージでベッドに這いあがった。寝る前に習慣にしているストレッチをし始める。


「おいこら。シカトするな。どうしてだって訊いてんだろ? どうしてダンス始めたんだ?」


 睦、しつこい。お前のこと好きだけど、しつこい性格はいただけない。無言の返事の意味を学べ。


「何がきっかけだったんだよ」


 もう、そんなのどうでもいいじゃないかよ。

 だんまりを決め込んでストレッチをする俺の体に、睦が視線を置く。


「体、柔らかいな。俺、拓が体育会系にいくと思わなかった。どっちかっていうとインドア派で、部屋で静かにしていることが多かったろ」


 感心するように言う。ちょっと面映ゆくなった。それでまたつんけんと答えてしまう。


「睦が知ってる俺って、小三までだろ。インドアもクソもあるかよ」 


 睦がじっと俺を見ている。


「それだけ柔らかければ体操部にいけるな」

「体操には興味ない」

「まあ、そうだろうけど。でも、やろうと思えばできるだろ?」

「うーん? …ダメだと思う。体操とダンスとじゃ、使う筋肉がぜんぜん違うからな。俺にはダンス用の筋肉しか付いてない」


 黙り込んで俺を眺め続ける。真顔で見つめてくるから気になってしかたがない。そんなふうにガン見されたら、ストレッチしにくい。


「昨日のお前、とても綺麗だった」


 トートツに言う。いや。唐突が過ぎるだろっ。


「なんとか言え。綺麗だったって言ってんだぜ」


 近くに顔を持ってきて、やたらねちっこい視線を注ぐ。俺はいよいよこそばゆくなって、もごもごと答えた。


「みんなに伝えとく。ダンスがキレイだったって、睦が褒めてたって」

「アホか。拓を綺麗だって言ってんだぜ、俺は」


 よくもまあそんなキザったらしいセリフを恥ずかしげもなく言えるなと、なんだか逆に腹が立った。こっちは不毛な恋心を持て余して苦しんでいるのに、神経を掻き乱すような言葉を、ぺらぺらと喋りやがって。


「なんだよ。ありがとうとでも言わせたいのかよ。気色わりぃコトぬかすんじゃねえ、バカ」


 すると、からかうようにニっと笑う。…嫌味なやつ。よほど自分の顔に自信がなきゃ、こういう笑い方ってできない。

 スマホが鳴った。ジージーと震えている。しばらく放っておかれても頑張って鳴り続けている。睦はそのねちっこい視線をようやく俺から外してスマホを手に取った。緊張がほどけた俺は、ふうっと深い溜め息を吐いた。


「ハイ。ああ、オウ。大丈夫」


 低くて、ちょっと余所ゆきの声。


「明日な。真美まみの分も持ってくから。うん、いいよ。用意してある」

『絶対、忘れないでよ!』


 静かな部屋の中だから、向こうの声が聞こえる。真美だ。倖(こう)田(だ)真美。

 彼女と俺は中三のときに同じクラスだった。睦と同じ軽音部でベースがやたらに巧い。五弦ベースを指弾きする。女にしとくのはもったいないとよく言われるけれど、「それって男女差別でしょ!」と怒っている。細めの瓜実顔にナチュラルなボブヘア、目鼻立ちがはっきりしている美人だ。高校は女子校に進み、睦とは個人的なバンドを組んでいて、実のところ俺は密かに、睦はいま、真美と付きあってるのだろうとふんでいた。


「え、タブ譜? 見れない。手元にないから。は? いま? 拓の部屋」

『こんな時間に? 何やってんの、男同士で!』

「てか、男女のほうがまずいだろ、この時間」


 睦が冷静に切り返す。その通りだと俺は心を痛めた。睦にとっての俺は、まさにそんな色っぽいこととは無縁の相手なのだから。

 やっぱり睦と真美はこんなふうにじゃれあうくらい親しい仲なんだな…と、俺は人知れず寂しさに胸を焦がす。

 睦がスマホを持った腕を伸ばしてきた。


「真美が声を聞きたいって」

「なんで?」


 訝る俺に、「さあ?」と首をすくめてスマホを押しつけた。


「ハイ」

『あーホントに桜井の声だ。ヨカッタ』


 声をひそめて囁いている。


「なんだよ、それ」

『だってさ。睦、どっかの女と一緒なのかなって、ちょっと心配だったの』


 こそこそと言う。俺がへたなことを言うと会話の内容がばれちゃうから、ベッドに寄りかかっている睦の後頭部を傍目で伺いながら、「大丈夫だよ」とだけ告げた。


『ねえ、桜井。睦に彼女の噂とかってある? 睦、誰かと付きあってるのかな』

「…えっ? いや――聞いたこと、ないけど」


 やたら大きくリアクションしてしまった。

 えーと?

 つまりそう真美が質問するということは、睦と真美は付きあってないってことなのか?


『よかった。この話、睦には内緒ね』 

「分かってる」

『だよね。桜井、優しいから。あんたの声聞くの、久しぶり』

「こっちの文化祭以来な」

『今年も女子たくさん連れて見に行くよぉ』

「お前んとこは九月のあたまだっけ?」

『そう。絶対に来て! 男子たくさん連れてきて!』

「模試に被らなかったら」

『もう。相変わらずオソロシク勉強ができるんだろうね、桜井は。そういえばあんたのダンスしてる写真、SNSで出回ってるよ。めっちゃキワドイ顔のやつ。高田がツイッターにあげちゃったの。周りからヤバイヤバイって書き込みされたのに削除しなくて、リツイートで出回っちゃって。私の友達や後輩も何人か持ってる』

「マジ。たまんねぇ」

『しかたないよ。可愛い顔してんだもん桜井は。気をつけなよ』

「気をつけるって、何を」

『まあ、こんな状況だから、イロイロと』


 いろいろと、のところを妙に強調する。深追いすると話が面倒な方向になりそうだ。どうせ男にも狙われてるとか、そんな話題になるのだ、経験上。


「ご忠告、痛み入ります。じゃあな」


 高田のバカが。明日学校で会ったら殴ってやる。

 スマホを睦に返した。睦が、切れてる?という口パクをしたので、俺は首を振った。

 睦がスマホを耳に当てる。


「ああ――じゃ。また明日な」


 スマホを切って座卓に戻すと、睦はまた大欠伸をする。俺のベッドに頭をもたれて目を瞑る。その表情が眠気のためかシンと沈んだ。

 大きく開いた学ランとワイシャツから覗く胸元に、俺は、視線を這わす。なんというか睦って、精悍、なんだ。ほんと、これじゃモテるのはしかたない。


「家に戻ってから寝ろ、睦」


 しばらくして声をかけた。


「俺も、もう眠い」

「帰んの、面倒だな…」


 目をこすりながら睦が呟く。


「一分で帰れる距離だろ」

「面倒くさい。泊めて」

「お前が寝れる余分な布団、ない」

「ここでいい。ここで寝かせろ」


 睦の両手が俺のベッドに滑り込む。


「ああ! 学ラン入れるな! 汚えだろ!」


 咄嗟に叫んだ。


「なんだよ、人のことゴキブリみたいに」


 不貞腐れた声を出しながら、そのまま上半身を掛け布団の下に潜り込ませる。


「う、わ、やめろ! 布団が汚れる!」

「あ~~~気持ちイイ。拓の布団、い~い匂~い」


 歌うみたいに言う。

 それ以上入らないように学ランの裾を掴んでひっぱった。うちの高校の学ランなんて、ゴキプリよりも雑菌だらけなのは俺自身がよく知っている。なにしろ、ちょっと暑くなれば脱いでそこらへんの床に転がしているのだから。

 しばらくの攻防の末、ようやく睦はむくれた顔をして荷物を片付けた。


「……分かったよ。帰ればいいんだろ」

「当たり前だ。何時だと思ってんだよ。明日に響くだろ」

「年寄りか」


 睦が吐き捨てる。何様だ。時計を見ると一時近い。


「ざけんな。もう夜中だぜ」

「まったく、拓くんは口が悪くなったね。昔はあんなにお行儀のいい男のコだったのに」

「お前がいつまでも帰ってくれないからだろっ。俺はいま、猛烈に眠いんだ!」


 勢い付いて睦を部屋から追い出す。睦はぶつくさ言いながら帰っていった。

 雪崩れこむようにしてベッドに横になった。

 寝入るまでに一分もかからなかったけど、そのわずかの時間で、俺は睦と真美が付きあっていないことを知って、愚かしくもほっとしていたのだった。



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