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 窓ガラスがコトンと鳴り、慌ててノートから目を離した。再び、コトン、コトンと音が続き、少し経って、今度はしびれをきらしたような強い音がする。


 さんざん聞きなれた音だった。

 小一のときに二人で決めた合図。

 あのころは俺も睦もまだスマホを持っていなくて、そのころの俺は、それこそこの合図がするとうきうきしてベランダに出たものだ。二人だけの秘密であるこの合図は、近所の空き地に基地を作ったときみたいに俺を高揚させた。


(でも、なんで今になって)


 また大きな音が鳴る。いったい何時だと思っているのだ、あいつは。

 イライラを落ち着けるために息を大きく吐き、やおら立ちあがってカーテンを開けた。ガラス越しでは外の暗闇がよく見えない。それでも照明の反射の中で、数メートル先に四角い大きな光があって、人影が一つ浮かんでいる。


 窓を開けた。四月になったとはいえ夜風はまだ寒々としていて、まるで人を冷やかすみたいに肌へと纏わりついてくる。

 足元には色とりどりの洗濯バサミ。睦が窓へと投げつけてきたものだ。

 睦と俺の家は隣りあっている。正確にいえば、ちょっとずれた斜め前。

お互いの部屋は同じ二階にあって、数メートルという距離で向かいあっている。


 幼稚園のときに俺たちが仲良くなった理由のひとつは、家が近かったからだろう。降園後も近くの児童公園で遊んだ後で、互いの家で遊びあったりした。その間、母さんたちが茶話を楽しんでいたときもあった。遠い昔の話だ。


たく


 小窓に肘をついて睦が小声で呼ぶ。


「なんだよ」


 極力、迷惑そうな感じを醸し出した。万が一にも「呼ばれて嬉しいです」なんて顔をしてはならない。そして時間が時間だから、話は小声で。


「スマホの電源、切ってね?」


 責めるように眉をひそめる。


「ちょっと待ってろ」


机に戻ってスマホの電源を入れると、すぐに電話が鳴った。


『どうして切ってるんだよ。話したいときに話せないのは、不便だろ』


 むくれた声を出す。


「何様だ」

『いまから行っていいか?』


 甘い声にクラりときそうになる。心して尖った声を出した。


「何時だと思ってんだよ」

『まだ寝ないだろ。数学、教えて』

「冗談じゃねえ。俺は英語をやってるんだ」

『あなたはぁ、英語をやってていいですぅ。片手間に少しだけぇ、ぼくに数学をぉ教えてくれませんかぁ?』


 下手に出た言い方が癪にさわる。バカにしてんのか。


「わざとらしい」

『いやいや、本当にまずいんだって。明日、木村の授業があるから、これじゃ殴られちまう』


 昼間の歌声とは違う、鼻にかかったような、俺の耳にすっかり馴染みのある声だ。まるで毎日頬を埋める枕みたいに親しげで、心地いい。


「勝手に殴られてろ」

『ええっ? 冷てぇ』


 大袈裟に叫ぶ。


「ぅるっさいな。分かったよ」


 そのしつこさに呆気なく敗北する。いや、本当はいつだって睦に会いたいのだ、情けない話。

 睦が部屋の中でこっちに来る準備をし始める。それを確認して窓とカーテンを閉じた。


 一瞬、チャットの続きを見たい衝動に駆られた。

 気になるのは、やっぱりQだ。


(睦が、Qと――?)


 うん、だめだ。どうしても信じられない。

 だって、そもそもなんで男となんだよ。ありえないだろ。

 あいつは、めちゃめちゃ女にモテる。幼稚園の時からずっとだ。

 俺だって少なからず告白を受けたことはあるけど、桁が違う。俺の知る限り、睦は中学までで二桁は女子に告白されている。それで数人と付き合ったはずだ。


(…でも、もし――)


 もし、睦が男とも付きあうような奴だったら?

 実際問題、睦は男にだってモテる。

 だとしたら睦とQがセックスをしたとしてもおかしくないわけで。あ…でも、どうやってやったんだろう。睦はいったいどんな顔で、どんな声を……。


 不覚にも体がじわりと熱くなる。

 ――いや待て。

 ほんと、こんなときに妄想する内容じゃないから。

 ご当人がすぐ、ここに来るんだからさ。

 俺のクラスの奴らがラインで自分のセックスの話をしていたなんて、睦は思いもよらないだろう。そして俺は、いまからなんでもないような顔をしてあいつに数学を教えるんだ。それって、どうなのよ。て、ひどく後ろめたい気分になる。

 だいたい、女からモテまくりの睦が男と付きあうなんてありえない。正気に戻れ、拓。


 玄関のインターフォンが鳴ったので一階に下りた。


「ありがとうな」


 玄関を開けると、学ラン姿の睦がスーパーの袋を差し出す。


「お袋から。ご迷惑おかけしますって」


 ビッグサイズのポテトチップスと麦茶のペットボトルだった。


「気を遣わなくていいのに。でも、おばさんにお礼言っといて」

「拓ンところに行ってくるって言ったら、すごく怒られた。こんな時間にやっぱり迷惑だった?」


 などと訊ねつつ、俺の返事を待つまでもなくシューズを脱ぎ始める。教えてもらう気は満々ってところだ。


「まあな。でも、俺一人だし」


 一人なのは本当だった。毎日、母さんが帰ってくるのは朝の九時ごろ。ここ何年もすれ違いの日々を送っている。そして彼女はもう、これっぽっちも俺などに興味がないみたいに仕事に打ち込んでいる。もっとも、あれが「仕事」と呼べるほど真っ当なものならいいのだが。


「リビングは寒いし、俺の部屋でいいだろ? コップ持ってくから先にあがってろ」

「ん。じゃあこれは俺が預かって久」


 俺の手からさりげなく袋を抜き取る。いつも思うけど、こういう仕草はなんだか紳士的だ。


 二人分のコップを持って部屋に戻ると、睦は座卓の前にちょこんと座っていた。――いや、「ちょこん」というのは可愛すぎか。図体がデカいから、「ちょこんとした態度で」が正しい。

 アメリカに行く前の睦と俺とじゃ、俺のほうが少し高かったくらいなのに、中一で再会したときにはすっかり抜かされていて今では十センチは違う。俺だって百七十あるのに、だ。


 幼稚園の頃の俺たちは、この座卓でよく仮面ライダーを描いた。いまでも雑誌の付録シールなんかがすみっこにいくつかこびりついていて、俺たちの古臭い歴史を物語ってくれる。


「ポテチ出した方がいい?」

「俺は夕食とったばかりだからいらない。拓に、って持ってきたんだ」

「そうか。でも、俺もいいや」


 コップに麦茶を注いでから、睦が俺の机の上を眺める。


「ほんとに英語の勉強してたんだな」

「そう言ったろうが」

「俺を断るための言い訳かと思った」


 別に言外の意味はないのだろうけど、こういうことを言われると俺は返答に困る。

 お前を断るわけがないというのは素直すぎて嫌だし、本当は断りたかったんだと言えば嘘になる。こういう何気ない言葉にいちいち反応してしまうのが、俺の至らないところだ。結局、何も言い返せないまま数学のノートを手渡した。


「悪いなあ。お前の春休みの努力、横取りしちゃって」

「そう言って人の解答を写すの、何度目だよ」


 だから罪悪感を感じているんだってー、とおどけたように言う。どこまで本気なんだか。

 机に戻って英語の続きをした。しばらくは二人のシャーペンが走るだけの静かな時間が過ぎる。


「あー? なんで?」


 ところが五分も経たないうちに、後ろで睦が低く唸った。俺はどうしようかちょっと迷って、ほっとくことにした。


「なんで? なんでこうなるんだよ」


 五分くらい経ってまた唸っている。睦は勉強で理解できないところがあると不機嫌になる、はた迷惑なタイプだ。

 睦が貧乏ゆすりをしながらがさがさと髪をかきだした。伸びかけの茶髪がぴょこんぴょこんと跳ねる。


「これ、理解できないんだけど? どっか間違ってね?」


 さすがにカチンときた。


「おい。人の解答見ておいて、理解できないからって間違ってるって、どういう神経だよ」

「あー? 悪ぃ。じゃ、ここ教えて。分からない」

「もうっ、しゃあねえなっ」


 荒っぽく立ちあがって座卓に向かった。


「世話やかすな。俺は英語やってていいって言ったの、お前だろ!」

「だから、ワリいって言ってんだろうが」


 …のわりに、めちゃくちゃ偉そうだが?

 見るとまだ一問目で躓いている。こいつ、今日中に家に帰れるんだろうか。


「ここ。なんで。なんでこの式からこうなるんだ?」

「相加・相乗平均」


 俺の即答にハタとした顔になる。


「…え? あー、なるほどぉ、相加相乗ね。存在忘れてた。だったらそうメモしてくれ、これじゃ分からないだろ」

「なんでそんな説明を、いちいち俺がメモしとかなきゃならねぇんだよ」


 うっそりと睨んだ俺の顔を見て、睦がちょっと怯む。


「了解。じゃ、ここは? なんでt大なりイコール2なんだ? イコールって必要か?」

「ええと、それは」


 ノートの空いているところに二次関数のグラフを二つ書きながら説明した。睦がしばらく考える。


「分かった。なるほど。ホント頭いいな、お前は。さすが学年一位」


 現金なもので、褒められれば嬉しくなる。ともかくこんな調子で、課題が終わったのは十二時近かった。

 睦は声をあげて大欠伸しながらのけぞり、腕枕で後ろに寝転ぶ。そのまま寝そうな勢いだったから、俺は慌てて声をかけた。


「寝るなら家に帰ってからにしろよ」


 返事無し。

 睦がこてんと腕を放り出す。まもなくすうすうと寝息が聞こえてくる。

 俺は近くによってその顔を覗き込んだ。

 眠ってしまったんだろうか。

 睦の厚い胸板が静かに上下する。俺は疚しい気持ちでそれを眺めた。

 さっきはステージにあったものが、いまは手の届くところにあって、俺だけが見ている。貸し切りみたいに贅沢に。

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