03「存在の軽さ」
沼地を抜けるとやがて安全な草原地帯に出た。さらに一両日かけて歩くと見慣れた街道に出る。このあたりから徐々に人影が見えるようになり、目指すウォルズの街に到着した。この街はそれほど大きくはないが、辺境地帯にしてはそれなりに整備されている。
冒険者ギルドも、役所も、教会も、小さいながら商店街もあった。ローグたちは、まず宿を取ると、一旦休憩して鋭気を養うことにした。
ローグは荷物の入った頭陀袋を下ろすと、宿の人間に駄賃を握らせて湯を運ばせた。ウォルズには公営浴場もあるが、ローグは部屋で身体を拭う程度に留めた。これからチャズのアジトを突き止めて高確率で戦闘が始まるだろう。
創傷を考えれば身体は清潔に保ったほうが良い。傷口が汚れていれば回復するのに時間がかかるし、なによりもローグには一つ所に留まる余裕がなかった。
盗賊職であったチャズは幼いころか非合法の組織で働いていた。それが予言者の言葉によって王国に見いだされ、その才を魔王討伐に役立てるよう命じれたのだ。
ローグはが知っているチャズは十代半ばからの数年間で、ここ十年の彼の変遷は知らない。顔を見ればもちろん見分けることができるはずだが、どのように変わっているか見当もつかない。
ローグは久方ぶりに宿の寝台に寝転ぶと、わずかに気をゆるめた。それから数時間だけ深い眠りに落ちた。窓から零れ落ちる夕日が赤みを帯びたころに、ローグは長剣を鞘ごと抱えながら跳ね起きた。
腑抜けきっている。ここが野外ならば、ここまで気を抜いて寝入るということはなかっただろう。疲労は抜けるどころか倍加していた。身体の節々に鉛が詰められたように重たかった。
正直なところ、チャズを捜し出してどうというのだという気持ちが強い。奪われた国宝である紫紺の欠片を取り戻し、チャズの首を上げても王都に戻り歓迎されるという図がまったく脳裏に思い浮かばない。
要するに、ローグはすでに王宮からしてみれば過去の人間なのだ。国王になったアルフレドや王妃になったシャナイアからすれば、いまさらおめおめとローグに戻られても邪魔なだけだ。
それが証拠に、この十年間、連絡ひとつ寄越さなかったのだ。
盗賊であったチャズは手先は器用であったが、平民の出であり、最初から王都の上流社会に馴染めるような男ではなかった。
チャズは公爵の娘を嫁に取り、婿入りする形で貴族の一員になったが、ずいぶんと蔑まれ身の置き所がなく、酒や安い商売女に入れあげて憂さを晴らすくらいしかやることがなかったと、よく嘆いていた。
むしろ自分は王都を放逐された格好で冒険者となれた幸せだったのかもしれない。故郷の領地で自分を王子扱いしてくれた家臣たちや領民のこともローグの脳裏から薄れ、具体的なことはあまり思い出せなくなっている。
記憶の中でローグが幸せだったのは、少年のころの王都で暮らした数年間だけだったのかもしれない。
重たい腰を上げて、ローグはベッドから飛び降りると部屋の扉を開けた。夕飯前までに、ある程度はチャズの居所に関して目鼻を付けておかねばならない。
狭い宿で引き籠り、ウジウジ考えているよりも行動しているほうが性に合っている。
ローグは頭陀袋を背負うと階段を降り、ウォルズの冒険者ギルドに向かった。
「それでは、我らの前途を祝して乾杯しましょうか」
フランセットが上機嫌でワインのグラスを掲げている。ローグは黙ったまま、やけに固い肉を切り分けて、ゆっくりと口に運んでいた。ローグたちはウォルズで唯一といっていい酒場で夕餉を取っていた。
とはいえ、このような場末の飲食店では客層も料理もたかが知れているが、フランセットがしつこく誘うゆえにローグも同席を拒み切れなかったのが実情だ。
「お酒、吞まれないんですか?」
わずかに頬を絡めたフランセットがとろんとした目で訊ねてくる。聖職者はみな酒好きなのは珍しいことではない。
特にロムレス教では飲酒を禁じていないので、角でなければ誰も目くじらを立てたりしないのが普通である。ローグは店の者に煮立てた茶を運ばせると、静かに口に含んでいる。
「あっしは酒を呑まねえことにしてやすんで」
フランセットはローグの返答が気に入らないのか口を尖らせて眉を八の字にした。冒険者は酒好きが多いが、ローグはよほど義理がある相手でなければ酒を飲む姿を見せなかった。
少年だったころには、家臣たちの手前自分を大きく見せるために過度に呑めるところを見せようと酒精をがぶ飲みしたが、不覚にも気を失った。しかも敵地だ。
一度、それで殺されかけたことがあり、懲りていたのだ。
「もう、一杯くらい良いじゃないですか」
「明日があるんでシスターもほどほどにしたほうがようござんす」
チャズらしき男がいるであろうアジトの情報はそれほど苦労せずに冒険者ギルドで得ることができた。魔王を討伐した勇者パーティーの情報はそれほど巷に広まっていない。伝説的な偉業も十年も経てば風化してしまうし、そもそも、魔王軍の恐怖を直に目にしていない辺境住民からすれば仲間のひとり、しかも盗賊のような下働きをした人間の名前など知らない者のほうが多いのだ。
パーティーのビッグネームは勇者アルフレドと王女シャナイアのふたりだ。すでに剣聖の称号を剥奪されたローグですら知る人ぞ知る、というレベルであった。
ロクな情報の伝達技術がないこの世界では、ひとたび都から離れれば、ほとんどの国民が農夫であり生活は千年前とたいして変わらない。黙々と田畑を耕して故郷から一歩も出ずに死んでゆく人間がほとんだ。
ローグが情報収集に動いても、チャズが逃げるということはないだろう。ローグは看板が下りるまで粘ろうとしたフランセットを無理やり店から引きずり出すと、どうにか宿にまで連れ戻すのに苦労した。
フラフラになったシスターを部屋に叩き込み、宿の主人に頼んでカギをかけさせた。
女がひとり部屋に泊まり施錠しなければ、ちょっかいを出す者が当然いると考えるのが当然である。
ローグは帽子だけを脱いで壁にかけると、靴も脱がずに剣を抱きかかえたままベッドに座り、目をつむった。横になれば深い眠りに落ち込む。そういった油断をする自分が嫌いなのだ。
だが、風雨に晒されず、モンスターの襲来に怯えることのない街場の宿に泊まるだけでローグにとっては充分過ぎた。数時間ほど浅い眠りに落ちたあと、ローグはぎいと扉が音もなく開いた空気の動きで片目を開いた。
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