02「沼地のバケモノ」

 早朝、ローグが浅い眠りから目覚めると、携帯用のパンと簡単なスープが地面に広げられたラグの上に置かれていた。


「今朝はわたしが用意しましたよ、むふん」


 ローグの目の前の木皿には温めたスープが並々と盛ってあり、左にはスプーンが置かれている。朝食を済ませると、早々に歩き出した。


 ウォルズまではあと二日といったところか。

 フランセットの速度はまるで落ちず、むしろ初日よりも軽快だった。


「ローグさま、この森、どこまで続くんでしょうか」


 いささかげんなりした声でフランセットが訊ねてきた。そう思うのも無理はない。人の手が入らない森は、灌木が無暗に生い茂り、獣道を見つけるのもひと苦労なのだ。


 元来、森というものは人の手が入って適度に枝葉を落とすので、日光がほどよく当たって、あらゆる樹木が生育できるようになっている。そうでなければ、昼間でもなお暗く、どのような怪物が棲んでいるかわからない危険な場所でしかない。


 ローグたちが歩いている森は、地図にも載っていない人から忘れ去られた地である。周囲には、村もないので原始そのものに近い植物分布を数千年保っているのだろう。とはいえ、冒険者たるもの整備された道しか歩けないのであれば、即刻廃業を考えたほうがいい。


 ローグからすれば、多少不気味な森であっても、人間に出会う確率が少なければもめごとに巻き込まれる確率が減るのでよほどマシなのである。


「わ、また沼ですか」


 フランセットがうんざりした声を上げた。

 ようやく鬱蒼とした森を抜けたかと思えば、ゆく手には無数の沼地が広がっていた。


 ローグが立ったまま水筒を取り出したのを見ると、フランセットは長く息を吐き出してふらふらと沼のほうへ近づいてゆく。どうやら、なにか生き物がいないか探している様子で、淵にかがみ込んで熱心に目を凝らしていた。


「あまり近づかないほうがようござんす」

「え?」

「沼にはなにがいるかわからねえんで」

「考えすぎですよローグさま。あ、ほら小魚とかいるみたいですよ」


 フランセットはのんきな様子で沼の奥でぱしゃんと音を立てて跳ねる水泡を指差してころころと笑っている。


 こういった人気のない奥地の沼には思いもよらないモンスターが、獲物がこないか虎視眈々と目を光らせているものなのだ。ローグは長い旅の経験で、そういったことを知っていたが、フランセットはいかにも無警戒で危うかった。


 考えればかつて魔王を討伐する旅路で問題になったのは、あくまで敵の強さであって旅程の険しさではない。考えるに、冒険者が単独で行動するには、知識と度胸と強力な運がなければ、モンスターと戦う前に力尽きる確率のほうが大きいのだ。


 警告はしたのだ。フランセットは物珍しそうに、ぼごぼごと泡立つ沼地をいまだ見やっている。


 ローグが水筒を腰にくくりつけると同時に異変は起きた。沼の中央寄りに浮かんでいた木の根っ子の塊の距離が瞬きの間に近づいたのだ。枯れた木の根。無生物にはあり得ない動きだ。頭の隅で警戒のシグナルがチカチカと鳴った。


 ローグが身を乗り出すよりも早く、木の根っこの中心部がきらりと光った。途端にプカッと浮いた朽ちた木の根からぬめった長い腕が伸びてフランセットの足首をつかんだ。


「きゃああっ」


 悲鳴を上げると同時に、フランセットの小柄な身体がずいと沼に向かって引き込まれた。仰向けになっている。突然のことでなんら回避行動を取る暇もなかったのだろう。


 フランセットを捕えた手。強烈な腐臭が漂った。ぬるぬるとした手のひらには水かきがあり、長さは優に二十メートルを超えているだろう。


 ローグはすでに外套の中で長剣を抜き放っていた。ローグは唇から鋭く細い息を吐き出しながら、気合一閃、長剣で奇怪な長い腕を薙ぎ払った。スパッと切断された長い腕からは間欠泉のように濃い緑の体液が噴き出し、あたりにはムッとした草の臭気が立ち込めた。ローグは転がっているフランセットを左手で、ぐいと陸地のほうに引き寄せるとおのれの背に隠した。


「ななな、なんなんですかあ?」

「ノッケンでござんす」


 静かな沼地に住むノッケンという水の精霊は、ぷかぷかと朽ちた根っ子の塊のように浮いており、一見して見分けがつかない。ひとたび人間が近づくとぬるぬるした長い腕で沼に引き摺り込み、臓物を喰らうという恐ろしいモンスターだ。


 木の根っ子とノッケンを見分けるのはかなり難しい。しかし、ノッケンは注意深く見ると、塊の奥にきらりと光る二つの目があるので、知っていれば用心して迎え撃つことができる。


「逃げましょう」

「そうしたいのは山々でござんすが、向こうさんが許しちゃあくれねえみてえで」


 ざああっと高い飛沫を上げながらノッケンが沼から姿を現した。高さも大きさもかなりのものだ。体高だけでも五メートルは超えているだろう。まともにぶつかり合う愚はさけたいのが人情である。だが、ノッケンがこちらに的を絞っている限り、斃さぬ限り沼地を踏破することは難しいだろう。ローグは頭陀袋から小瓶を取り出すと左手に持って構えた。小瓶には透明の液体が満たされており、中で豆粒程度の赤い石がキラキラと不思議な光を放っていた。


「シスター、あっしが小瓶を投げつけたらその場に伏せてくだせえ」

「え、え、え?」


 言うが早いかローグは手にした小瓶をノッケンに向かって放った。硬質な音と共に、ガラス瓶が割れてノッケンの頭頂部に中身が降りかかる。


 同時に、爆ぜた。小瓶の中には精製された高濃度の油と、空気に触れると火花を発する魔法石の屑が混ぜてあった。即席の火炎瓶のようなものだ。ローグは業火に包まれながら沼から上がり、両眼を憎しみの炎でたぎらせ真っすぐ向かってくるノッケンと向かい合った。


 ローグは両足に力を籠めると、間髪入れず前方に跳んだ。撓んだ発条が一気に力を解放するような爆発力だった。


 ローグはノッケンに諸手突きを放った。剣の切っ先がみごとにノッケンの急所である右目を貫くと、沼地に絶叫が流れた。昨晩の聖水の加護がいまだ残っている剣の威力は絶大だった。ローグは固い手ごたえを感じながらさらに長剣を突き込んだ。なにか、固く、冷たいものが割れた感触が手に残った。


 ローグが柄まで刺さった長剣を引き抜きながら後方に跳ぶ。同時にノッケンは断末魔を上げながらずぶずぶと沼地の底に沈んでいった。


 ノッケンを斃したことを確認すると、ローグは視線を下げた。指示通りフランセットは伏せていた。


 しかし、彼女はうつ伏せになって両手を万歳したまま動かない。かがみ込んで様子を見ると、足もとに赤ン坊の頭くらいの枯れた樹木の塊が落ちていた。


 どうやらフランセットはノッケンが爆散した際に飛んできた木の塊が頭にぶつかったらしく目を回していた。


「失礼いたしやすぜ」


 ローグは慎重にフランセットを肩をつかんでひっくり返した。ザッと見ても気を失っているだけで大きな怪我は負っていない様子だった。ノッケンの攻撃を受けた際に、フランセットの臍のあたりが大きく裂けていた。ローグはわずかにフランセットの真っ白な腹を見ると、わずかに眉を顰めて固まった。


 しかし、すぐローグはいつもの無表情に戻ると、頭陀袋から気付薬代わりの強い酒を取り出した。


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