2 探索の章

01「平穏の思い出」

「気分はどうですか」


 ぺたりと額に冷たい手が当てられた。

 ローグは目をつむったまま、一瞬、腰の長剣を引き抜こうと指を動かしたが、害意を感じず力を込めるのをやめた。


 ふわりと、身体が持ち上がる。

 激しい痛みとそれを上回る眩暈で意識は朦朧として抵抗する気力も起きない。

 突き刺さる陽光の力が弱まった。


 ローグが重たげな目蓋を持ち上げると、そこにはフランセットの姿があった。フランセットの回りには、彼女が呼び集めた村落の男衆がローグを囲うように立っている。


 ――助けを呼んでくれたのか。


 その程度しか、いまのローグには思い浮かばなかった。


「沢で冷たい水を汲んできてください。それとできるだけ清潔な布をお願いします」


 ハッキリとした指示である。生まれてから人に命令するのに慣れた家柄であることが理解できた。ローグはわずかにフランセットへ視線を向けた。 


「待っていてくださいね。すぐ、楽にしてあげますからね」


 子供に諭すようにフランセットはいうと、ローグの腹のあたりに手を置いて目を強くつむった。


 懸命に唸りながらなにかを探しているようだ。

 まもなく少女の小さな手がぴたりと止まるとローグの腹部が燃えるように熱くなった。

 じんわりとお湯で濡れているような心地がする。

 揺れる意識のなかで、フランセットを見ていると、まもなく魔法の詠唱をはじめた。


 小さな手のひらが青く光ると宙に浮かんだ大きな水滴がローグの痛みを訴えていた腹の部分に落ちた。


 ほとんど間を置かず痛みがするすると消え去ってゆく。

 同時に激しい倦怠感と眠気を覚え意識が保てなくなってゆく。

 崖からストンと落ちるようにローグは眠りに入った。





 目を覚ました時は、見知らぬベッドの上にいた。ローグが軽く身じろぎをすると、椅子に座って針仕事をしていたフランセットがパッと顔を明るくした。


「気がつかれましたか」


 身体を起こそうとしたが、四肢から力が抜けたようになり、首を上げるのがやっとであった。さすがに、いささかバツが悪かった。ローグは意図的にフランセットを無視して旅立ったのだ。それが、彼女に一命を救われるとは、なんという申し開きもできない。


「ご迷惑をおかけしやした」

「いえ、よいのですよ。困った人間を救うのはロムレス神の教えに則っておりますので」


 フランセットは目をつむると片手を宙にかざして、むにゃむにゃとなにごとかの聖句を唱えている。


「お加減はいかがでしょうか。ローグさま、無理をなさってはいけませんよ。この宿は幸いにも敬虔なロムレス教徒の方が好意で取ってくださったので、充分に身体を休めてくださいね」


 他人に世話をかけたくない。だが、いまのローグは水に当たって情けなくも足腰が立たない。普段ならば木陰で二、三日休めば自然と身体も癒えるのだがここまで世話になってしまえばこの場でそれも言い出しにくかった。


「まだ、どこか痛いのですか」

「いえ、重ね重ねご迷惑をおかけいたしやした。嘘みてえに痛みは消えちまったんで」


 話しているうちに気力が戻ったのかローグはベッドの上で身を起こすと、フランセットに向かって深々と頭を下げた。それからベッドから降りようとすると、慌てたフランセットに止められた。


「ああ、ベッドから降りてはいけませんよ! まだ、治ってはいないのですから」

「そうもめえりやせん。これ以上堅気のお嬢さんに迷惑をかけるなど、できるっこっちゃあないんで」


「そのようなことはお気になさらず。すべては神の思し召しです」


 本来、普通の人間であるならば見も知らない自分が通りすがりの者に助けてもらったことで感謝の念が起きるのは当然なのであるが、ローグにとっては、ただ借りが増えたと気が重くなるばかりだった。


「お嬢さん。あっしは見ての通りの半端者でロクな礼はできやせんが、こいつはせめてもの路銀の足しにでもしてやってください」

「え、ちょっと」


 ローグは無理やりベッドから枕もとに手を伸ばすと頭陀袋をひっつかんだ。指先を動かして、中身を探り、ズシリと銅貨が詰まった袋を取り出すと椅子に座っているフランセットに向かって差し出した。


「こんなものは受け取れませんよ。だいたい、わたしがお金目当てで助けたと本気で思われるのなら、それこそ悲しいです」


 そう言われればローグはもはやなにも言うことはできない。ジッと黙っていると、フランセットはやわらかに微笑んでそばに立つと、ローグの差し出した手を両手で包み込むように握った。


「ローグさまは、見も知らないわたしをならず者たちから助けてくださったじゃありませんか。あの時、まわりにはたくさんの人がいました。けど、もめごとを恐れずに手を差し伸べてくれたのはあなただけだったのです。これはあの時のお礼ですよ。お気になさらず、養生なさってくださいね」


 フランセットはそれだけ言うと、「自分がいては休みにくいでしょうから……」と言って部屋を出て行った。


 まったくもって妙な話だ。薄汚れた根無し草の旅烏である自分の素性など考えなくてもわかる危険なものだ。


 まともな人間ならば、ローグのような男が路上で伏していても近づきもしない。手を差し伸べたとしても災厄として纏わりついてくることが予想できるからだ。


 フランセットは神官騎士の見習いであると名乗っていたが、ローグはこの世で聖職者がもっとも信用できない性質の悪い生き物であることを経験で知っていた。フランセットは見るからに、立ち居振る舞いから身に付けている物まで高級品である。


 きっと裕福なお嬢さまの気まぐれであろう。そう自分で決めつけておきながら、気分が重くなっていることに気づきローグは軽く自嘲の笑みを浮かべた。


 その夜、ローグは枕もとに金子の入った袋を置くと、窓から飛び降りて逃げるように宿を去った。


 誰とも深くかかわらない。それがローグが自分自身を守るもっとも有効な保身であると誰よりも信じていたからであった。






「帰ってきたのね、ローグ」


 十年の歳月を経て王都に帰還したローグを出迎えてくれたのは、目を見張るような美女に成長した幼馴染のシャナイアだった。艶のある重たげな黒髪と対照的に雪のように白い素肌が薄い水色のドレスに映えて美しかった。ローグは飛びついてきたシャナイアを抱き止めると、焚き込めた香の甘い香りに激しく動揺した。


 ふたりが初めて出会った庭園には以前にも増して、春の草花が咲き誇り、ここだけは時間が止まったかのように平穏が満ちていた。


「ああ、こんなに傷が増えて。ずいぶんとご苦労なさったのですね」


 シャナイアがローグの傷だらけになった手の甲を目元に涙を浮かべていとおしそうにさするたびに、深い悔恨と申し訳なさが募った。自領が魔王軍の手に落ちてから、少年の身ながら王都を出発し、転戦を繰り返したが自軍に利はあらず、結果的に自分についてきた家臣の多くを失ってしまった。そして、わずかな伝手である幼馴染で王国の第一王女の情けにすがるために、こうして会っている。シャナイアはローグの頼みを聞くと、こくこくと何度もうなずき頬を紅潮させた。


「どうして、それをすぐにおっしゃってくださらなかったのですか。シャナイアはこれでも王家の人間です。ローグさまのお力になれるのなあらば、どのようなことがあっても父上と国軍を動かしてみせます」


「すまない」

「そのようなことをおっしゃらないで。わたしは、たとえローグさまがおひとりになろうとも、身分を棄ててもあなたさまと共にゆきます」


 シャナイアはそう言うと、誰もない王宮の庭園で、背伸びをするとローグに顔を寄せて情熱的な口づけを行った。


 確かに、この瞬間は、心が通い合ったのだと無骨なローグですらそう思ってしまうほどふたりの心は近かった。


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