第27話

 ヴィンセント・トラボルタが感じていたのは、漠然とした違和感である。

 体調不良の馬。空気の抜けた車のタイヤ。走行中に咳き込む蒸気自動車……。一つ一つは取り立てていうほどのものではない。馬とて生き物、下痢くらいはする。この世界のゴムタイヤはまだまだ質が悪い。蒸気自動車の繊細さは、ヴィンセントもよくわかっている。

 だが……。

「よりによってこんな日に。ついてないですね、ボス」

「ついてねえだけなら構わねえがよ」

 タイヤの交換を待ちながら、ヴィンセントは紙巻き煙草に火をつけた。運転席では手持ち無沙汰の部下が寛いでいる。

「とっくに前哨戦が始まってるのかもしれねえ」

「スカヤの仕込みだってんですか? まさかあ……馬も車も、天幕で使ってたもんですよ。ここまでできるなら、その手間で俺らを殺したほうが早いですって」

「そいつは違うな、マーロン。気づいたら手遅れってのが一番怖えんだ」

 ヴィンセントは肺一杯に煙を吸った。

「その割には落ち着いてますね、ボスは」

「俺はいいんだよ。俺はな。心配してるのはお前らのことだ」

 ヴィンセント自身は殺されても死なない異界兵である。だが彼の部下は全て生身の人間だった。北方マフィアから離反した命知らずの若者たち。度胸と勢いだけは一丁前だが、新兵同然の連中だ。

 経験上、初陣の兵隊が最も死にやすい。前線では三度の戦闘を生き残って、ようやく新兵と呼ばれなくなる。経験者と未経験者の差はそれほど大きいのだ。

 シベリャスカヤに送り込まれるのは抗争慣れした玄人だろう。ヴィンセント以外の苦戦は必至と言えた。

「ま、いいさ」

 ヴィンセントは紙巻きの灰を落とす。タイヤの交換が終わったところだった。

「出発だ。北方マフィアを殺しにいくぞ!」

 彼の飛ばした檄に部下たちの声が応える。蒸気自動車の列は走り出した。

 緊張と興奮でギラギラする車列を、ヴィンセントは心地よく見回した。いい若者たちだ。今日の抗争を生き残った者は、そこそこ頼れる兵隊になるだろう。無論、生き残れない者も相当数出るだろうが……。

 ヴィンセントは再び紙巻を吸い込み、火炎放射器じみた息を吐く。次の瞬間、彼は微かな唸りを聞いた。全身の毛穴が開くような不吉な唸りだ。

 ブゥン--ぼん!

 先頭の蒸気自動車が小さく爆発し、制御を失って横へ滑った。ボイラーが爆発したのか、燃料に引火したのかはわからない。

 確実なのはただ一つ。……狙撃されている!

「どこでもいい、隠れろ!」

 再び唸りが空を切る。ヴィンセントはマーロンを掴んで車を飛び降りた。頭上を掠める熱を感じながら身を屈め、建物の影へ飛び込む。無人になった蒸気自動車はゆるゆると走り、数十メートル走ったところで停止した。

 だが、後続の部下はそれほど上手く動けなかった。急ブレーキで車を停めてしまった者が狙撃に食われ、まごついてステアリングを切った者が接触事故を起こす。ヴィンセントの真似をして飛び降りた者が着地に失敗し、めちゃくちゃに道路を転がった。

 壊れた車の間から銃声が上がる。生き残った者が応射を始めたらしい。

「射撃やめろ! ……やめろ!」

 ヴィンセントは車の破片を投げつけた。

「この距離で拳銃が当たるわけねえだろう。ライフルを持ってるヤツは?」

「全員死んだっぽいです」

「クソッ、仕方ねえな」

 手を伸ばして路上の小銃を引き寄せる。その機関部は銃弾に撃ち抜かれて破損していた。拾われることを恐れた狙撃手が破壊したものだろう。

 こんなことができる人間は一人しかいない。

「は。とんでもねえな、あいつ」

 カクマ・カタヒラだ。

「ま、鉄砲玉なんかでビビるタマじゃねえよな。お前はよ」

「何ニヤニヤしてるんですか、ボス! このままじゃ俺たち全滅ですぜ」

「ああ、はは。そうだな。そいつは俺も本意じゃねえ」

 ヴィンセントは拳銃を引き抜いた。北方マフィアが相手なら十分な武器だ。だがカクマと戦うとなれば……。

「よし、マーロン。元気な連中をここへ集めろ。路地を回り込んで狙撃手を黙らせる。負傷者の手当ては後回し。こっちが最優先だと言え」

「はい、ボス!」

「俺は反対のブロックから回り込む。狙撃手の足元で合流。全員で屋上へ上がって踏み潰す。いいか? 無闇に拳銃を撃たせるなよ。道中何人か怪我することになるだろうが、そいつらは無視して先へ行け。お前らの足を止めるための囮だからな」

「わかりました、ボス!」

「頼んだぜ。この作戦じゃお前らが頼りだ」

 ヴィンセントはマーロンの肩を叩いた。

「わかったら行け。あとで会おう」

「はい、ボス!」

 マーロンは元気よく答えた。


「冷血漢だな、ヴィンセント」

 屋上の覚馬は一人ごちる。

 壊れた車列に押し込められた敵は負傷者を見捨てることに決めたらしい。生き残ったマフィアたちが下手くそな隊列を組んで、こちらへ進んでくるのが見えた。ヴィンセントの姿はない。

「……本当に冷血漢だな」

 若者たちの進軍ルートはこちらが恥ずかしくなるほど無防備である。おそらく彼らは覚馬の目を引くためだけの囮。今頃ヴィンセントは完璧な死角だけを選び、こちらへ進んできているはずだ。

 覚馬は無心で引き金を引く。生身の人間とは言え、数が揃えば十分な脅威だ。張が口にした通り、彼がいつまで無敵でいられるかはわからないのである。

 見習いマフィアたちは次々に倒れた。狙撃を浴びたことなどないのだろう。負傷者に戸惑いながら、若者たちは健気な勇気だけを持って進んで来る。誰が怪我をしても、誰が助けを求めていても、彼らは足を止めることをしない。

 そんな若者を、覚馬は次々に撃ち殺した。

「さあ、どうするヴィンセント」

 進軍してくる者の姿は最早ない。覚馬は小銃に装填する。

「頼みの味方は全滅したぞ。だらだらしないで殺しに来い」

 ヴィンセントの考え方は知っている。最後は自分で、覚馬の首を取りたいはずだ。

「……?」

 覚馬は目をしばたいた。向かいの屋上から、光が反射してきている。見ると、アマリリが鏡で合図を送ってきていた。少女が示しているのは真下である。

 ばたん。聞こえてきたのはトランクを閉じる音だった。視線を落とした先には、見慣れた大男が手を振っている。

「よう、カクマ」

「ヴィンセント。そこにいたのか」

「おう。今からそっちへ行くぜ」

 親しげな口を利きながら、ヴィンセントはアパートの扉へ消える。その背中には火炎放射器の燃料タンクが背負われていた。蒸気自動車に積んでいたものを回収したのだろう。

 覚馬は眉をひそめた。作戦を前倒せば、仕留められていただろうか? ……いや。すでに過ぎたことだ。当初の予定通りことを進める他ない。

「--さて。ここからが正念場だな」

 本気の相手と対すれば、異界兵とて脆いものだ。覚馬はそれをよく知っている。耐え切れないほどの大火力か、化けの皮が剥がれるまで攻撃を当て続けるか。時間と弾薬に十分な余裕があれば、召喚直後の異界兵すら殺すことは難しくない。

 むろん、前線でそれが許されることは稀だ。敵が帝国兵一人に割けるリソースは限られている。だからこそ敵軍は異界兵を安価に殺すための新兵器や新戦術を積極的に投入し、覚馬たちはしばしばそれに苦しめられてきた。

 敵兵の持つ火炎放射器。覚馬はそれを、際立った恐怖と共に記憶している。

 火炎放射器の炎。その実態は、燃え盛る液体燃料である。一度服に染み込めば、簡単に火を消すことは難しい。致死の熱量に化けの皮を剥がされた仲間を、覚馬は何人も目にしてきた。

 いずれにせよ、あんな死に方はごめんだ。

 屋上のドアノブが回るのがわかる。覚馬は引き金を引いた。

「痛えな、カクマ」

 大男が腹をさする。銃弾はかすり傷すら負わせていない。

 当然だ。相手は異界兵なのだから。

「ほんの挨拶代わりだよ、ヴィンセント。ここへは一人で来たのかい?」

「おう、ちょいと計算が狂ってな。本当ならもう少し大勢の予定だったんだがよ、どうやらみんな死んじまったらしい。シヴェリスカヤが口ほどにもねえ」

「まあそう言うなよ。彼らの専門は戦うことじゃないんだから」

「一理あるな。最もな話だ。……じゃ、俺たちは俺たちの専門を全うするとするか?」

 ヴィンセントが火炎放射のノズルを掲げる。覚馬は小銃の槍を構えた。

「いい案だ」

 言うなり覚馬はヴィンセントへ踏み込んだ。小銃で跳ね除けたノズルの筒先から、炎の蛇がほとばしった。振り上げた銃床で敵の頬を殴りつけ、たたらを踏んだところへ銃剣の一撃を見舞う。ヴィンセントの胸は銃剣の鋒を跳ね返した。

 覚馬はハンマーじみた拳の反撃を受ける。手ぶれの録画さながらに揺れる視界の中、ヴィンセントの水月へ銃床を突き込む。打ち下ろされたハンマーを飛び退って躱し、覚馬は間合いを取り直そうと試みる。

 それに合わせるようにして、火炎放射のノズルが突き出された。

 ごう! 液体燃料が噴き出す。木製の銃床に炎が移り、覚馬は得物を取り落とした。

「しまっ……」

 言いかけた時には、ヴィンセントの突進を許していた。ぐるりと視界が転倒し、覚馬の背中は床と激突する。内臓が揺さぶられる感覚。肺から息が絞り出され、覚馬は酸欠に喘いだ。

「無謀だったなあ、カクマ」

 彼を見下ろすヴィンセントの瞳は爬虫類に似ている。

「ライフルで俺をやろうって発想が、センスねえよな。こうなることが想像できなかったわけじゃねえだろう。ええ? なんとか言ってみろ」

「……変わって、ないな。ヴィンセント」

 覚馬は肺に残った空気を搾り出した。

「お前は捕虜を痛ぶるのが好きだったもんな」

「お、よく覚えてるじゃねえか! そうなんだよ。前線にいた頃から、一度異界兵を燃やしてみたかったんだよな。あの頃は全員味方だったからよ。こういう経験ができると、やっぱり生き残った甲斐があるってもんだよな」

「僕を殺すのか、ヴィンセント」

「残念だとは思ってるんだぜ。でも、流石に本気で殺しに来られちゃな。……ま、お前だって布団の上で死ねるとは思ってなかっただろ? 嫌われ者の狙撃兵だもんな」

「は」

 掠れた声で覚馬は笑った。

「お前だって、嫌われ者の火炎放射兵だろ」

 覚馬が片手を掲げ、中指を立てた。

「……?」

 ヴィンセントは先ほどと同じ、漠然とした違和感を覚えた。その指は彼というよりは、むしろ向かいのアパートへ向けられているようで--。

 ちかり。顔を上げた瞬間、ヴィンセントは銃火が瞬くのを確かにみた。その場にいた全員の鼓膜を銃声がどよもし、大男の背負う燃料タンクが横殴りに揺れる。

 直後。


 ヴォバーン! ヴィンセントの背中で大爆発が起こったのを、アマリリは確かにみた。既に火の海の屋上を、さらなる熱と光が焼く。

「うおおおおお」

 野太い絶叫が響いた。ぬるりと立ち上がったカクマが、ヴィンセントに激烈な蹴りを見舞う。バランスを崩した大男は屋上から落下し、ゴム鞠のように路上を跳ねた。

 それで終わりではなかった。火達磨でアスファルトに叩きつけられたにも関わらず、ヴィンセントはまだ生きていた。大男はその場でのたうち回って消火を試み、それでも無理とわかると服を脱ぎ捨てて走り出した。

「ボス! ……ボス!」

 道の向こうから現れた蒸気自動車がヴィンセントを迎えた。

「何があったんですか、ボス! しっかりしてください!」

「マーロン……すまん」

 ヴィンセントが崩れ落ちる。その背中には軽い火傷が広がっていた。

 アマリリは猟銃のボルトを動かす。先ほどの狼狽を見るに、ヴィンセントは炎が熱かったのだろう。異界兵の防御が消えかけているのだ。

 ヴィンセントは危険な男だ。生かせば後々禍根を残す。しかし、今ならば--。

 アマリリは引き金に指をかけた。指先に感じるレバーの抵抗は、アマリリの握る心臓の感触だ。握り潰してしまえば、ヴィンセントと関わることは二度とない。

 狩師の娘は息を詰めた。

「--」

 それから、息を吐いた。ヴィンセントを乗せた蒸気自動車が逃げ去って行く。アマリリは再びボルトを操作すると、猟銃から残りの弾を吐き出させた。

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