第26話

 部屋の外に人の気配はない。にも関わらず、廊下はガス燈で真昼のように照らされていた。熱と光で息を詰まらせそうになりながら、アマリリは洗面台へ向かった。

 使用人は眠っているのだろう。屋敷は静まり返って、動く者の気配はない。

「……がいい、覚馬君」

 だからこそ、微かな話し声が耳についた。温水で脂を落とし、部屋へと戻る帰り道。応接間の扉の向こうから、チョウの声が聞こえてきている。

 アマリリは足を止めて、なんとはなしに聞き耳を立てた。

「次も無事ですむ保証はありません。あなたも知っているでしょう。異界兵は心身両面から侵食を受ける。いくら食事を断ち、活動を控えたところでこの世界に馴染むことを止めることはできないのですよ。この瞬間、一分一秒ごとにあなたは弱くなっている。次の瞬間も無敵であるかどうかは誰にもわかりません」

「条件はヴィンセントも同じだよ」

「いいえ、よく考えてください。あなたとヴィンセント君は違います。彼には仲間がいますが、あなたは単騎だ。人間同士がまともにやり合えば、勝つのは数の多い方ですよ」

「正面からやればでしょ。僕はそんなやり方はしない」

「わたしが心配しているのはそこです。あなたは狙撃を恃みにするつもりでしょうが、それは接近された際のリスクを高めることと同義です。万が一追い込まれれば、まともな死に方はできませんよ」

 扉の向こうからカクマのため息が聞こえる。

「後ろ向きだな、張さんは。ここは僕を応援してくれる場面じゃないのかい? 『頑張れ覚馬、お前ならできる。アマリリのことは心配するな、お前は心置きなくヴィンセントをぶちのめしてこい』ってさ」

 アマリリはぐっと息を呑んだ。やはりカクマはヴィンセントと戦うつもりなのだ。

「そこまで無責任なことは、わたしには言えません。もちろんあなたに事故があれば、彼女の後見人はわたしが引き継ぎましょう。ですが、それを死地に赴く理由にされては不愉快極まりない。彼女にはまだあなたが必要です」

「参ったな」

 ばりばりと聞こえてきたのは、カクマが頭をかいたのだろう。

「思いとどまってどうするんだよ。素直にヴィンセントの手駒になれって言うのか。だらだら鉄砲玉に使われるだけだろ」

「その方が遥かに安全です。仮にあなたが不死だとしても……アマリリさんは違います。ヴィンセント君は敵には容赦しない。あなたが従わないと知れば、危険に晒されるのは彼女なのですよ」

「彼女? 張さんの間違いじゃないの」

「……むろん、そこにはわたしや光藤君も含まれています。覚馬君にとって、わたしたちはそこまで重要ではありませんか?」

「だからだよ」

 粘りつくようなチョウの主張を、カクマはばさりと切り捨てた。

「脅迫が効くとわかればヴィンセントは今後もみんなを盾にする。ここではっきりわからせておいた方がいいんだ。最悪の場合でも、僕が死ねば話は収まる」

「それが問題なのです。あなたの計算には自己犠牲が含まれている。今更ニコラスさんの真似事ですか。彼はそんなことをさせるために、あなたを庇ったわけではありませんよ」

「張さん、それは……」

 控えめな声が割り込む。応接間にはミツフジも同席していたらしい。それにはほとんど気を留めずにチョウは続けた。

「覚馬君。あなたが彼の死に責任を感じていることはわかっています。彼の娘だけはと思う気持ちも理解できる。ですが、無闇に命を投げ出すだけが方法ではありません。わたしたちには、まだ策が残されています」

「ヴィンセントとマフィアの調停案のこと? 散々走り回って、今日まで碌な進展がないじゃないか。抗争は起こるよ。あとは、どちらにつくかが問題だ」

 カクマは低い声で笑った。

「贅沢な話じゃないか。今回は自由参加なんだ。おまけに、どちらにつくかは自分で決めていいと言うんだから」

 誰かが席を立つ気配がする。

「覚馬君。どこへ行こうと言うのです」

「これ以上話してても平行線でしょ。部屋に帰って寝る」

「覚馬……」

「光藤、お前も早く寝ろよな。明日はお前にとっても大事な一日だろう」

 ブーツの靴音が近づいてくる。応接間のドアノブが回った。

 これ以上は限界だった。アマリリは踵を返すと、裸足で走って逃げ出した。わずかに開いた扉から、カクマを呼び止める声が聞こえる。

「覚馬君ッ!」……その後の話し合いがどうなったのか、アマリリにはわからない。気づいた時には、彼女は自室のベッドに潜り込んでいた。

 父の死に際のこと。カクマとヴィンセントのこと。明日の試験のこと。ようやく寝ついてからは、愚にもつかない夢をいくつか見た。

 だが、ともあれ次にアマリリが目覚めた時には、夜はすっかり明けていた。

 試験当日の朝である。


    ◆


「おはようございます、アマリリさん」

 朝食の場には、どこかやつれたチョウが一人。カクマとミツフジの姿はない。

「おはようございます」

 アマリリは何も訊かず、黙って食事を平らげた。

「おかわりは必要ですか?」

「……お願いします」

 言うなり、使用人が追加の皿を持ってくる。アマリリはきっちり腹八分目まで飲み食いすると、口元を拭いて立ち上がった。

「満足されましたか」

「はい。ごちそうさまでした」

「結構。勝負の朝にしっかり食事できると言うのは素晴らしいことです。わたしはどうも、こういう日には食が細くなる。いささか羨ましくもありますね」

「ええと……ありがとうございます……?」

「ふふ、失礼。余談が過ぎましたね。支度がすんだら誰でもいい、使用人に声をかけてください。すぐに馬車を準備させます」

「わかりました」

 アマリリは食卓を立った。足早に部屋へ戻ると、手早く身支度を整える。それからコートを羽織り、鞄に詰めた荷物とケースの中の猟銃を点検した。

 万事問題なし。最後に帽子を被って部屋を出ると、チョウの使用人を呼び止める。

 あれほど悩まされた昨晩の緊張はどこへやら、心は凪いだように落ち着いていた。それともこれは一種の諦め、開き直りの境地だろうか。

「いってらっしゃい、アマリリさん」

 馬車を見送りに来たのはチョウだけだった。

「いってきます。あの……」

「残念ながら光藤君は寝坊のようです。覚馬君は外出しました。ですが二人とも、気持ちはわたしと同じはずです。あなたが実力を発揮できるよう祈っていますよ」

「……そうですね。私もそう思います」

 アマリリはケースの肩紐を握った。

「二人にはよろしく伝えておいてください。頑張ってきます」

「ええ。頑張っていらっしゃい」

 チョウが御者へうなずきかける。ハンサムキャブはアマリリを乗せ、試験会場へと出発した。首都議会議員の屋敷は背後へ遠ざかっていく。

 ……十分に走った。そう判断できたところで、アマリリは御者に声をかけた。

「あ、すいません。一度、ウエストエンドの方に回してもらえませんか」

「えっ? 学園まで行くんじゃねえんですか?」

「友人と一緒に行く約束なんです。ウエストエンドの方へ回してください」


 馬車を降りたアマリリは、ウエストエンドの外れまで歩いた。屋台で賑わっていた通りは、今日も少なからず賑わっている。

 だが、全くいつもと同じとは言えない。並んでいるのは引き上げが簡単か、見捨てても大して懐が痛まないであろう小規模なものばかりだ。店主も客もそぞろな様子で、金と商品のやり取りはどこかままごとじみている。

 アマリリはざっと周囲を見まわした。この街で獣を獲ることを考えれば、狩師の潜める場所はそう多くない。状況を把握できる高台で、許可がなくても入れる場所……アマリリはいくつかアタリをつけて、順番に確認を始める。

 一つ。二つ……三つ目のアパートの屋上へ上がった時、アマリリはこめかみに熱を感じる。ざわっと背筋が総毛立ち、少女は自身の死を幻視した。

「な--」

 だが、それも束の間のこと。死の気配は引きつった声と共に遠ざかる。

「何してるんだ、こんなところで」

 カクマが呆然と銃口を下す。

「試験はどうした。まさか、張さんの屋敷に何か……」

「いえ、屋敷は無事です。私は私の意思でここへ来ました」

「な--」

 カクマは酸欠の川魚のように口を開いた。

「なんで……?」

「ヴィンセントさんと戦うんでしょう。私もやります」

「あっ、えっ? なんで知ってるんだ--いや違う! 君、試験はどうしたんだ!」

「まだ二時間は余裕があります」

 アマリリは平然を装って答えた。

「それまでカタをつければ問題ありません」

「……大アリだよ! 二時間後なのは試験の開始時刻じゃないか。それまでに受付して席に座ってなきゃいけない時間だぞ。今すぐ帰れ!」

「帰りません」

「いいから帰れ! こんな抗争に関わってる時間は、君にはないんだ!」

「それはカクマさんも同じでしょう! 帰りません!」

 首根っこを掴まれながら、アマリリはもがいた。もがきながら手を伸ばし、カクマの目に指を突っ込む。

「ええい、やめろ!」

 カクマの力が緩んだ。半ば投げ出されながら、アマリリは拘束を振り払う。

「すいません、痛かったですか?」

「痛かない。痛くはないが……異界兵でも感覚はあるんだ。気持ち悪いよ」

「ごめんなさい。でも、カクマさんが離してくれないから」

 数歩離れた位置からアマリリは頭を下げる。カクマは一旦諦めた様子で、屋上の縁に腰を落とした。

「ハァー……とにかく、屋敷には何事もなかったんだな」

「はい。ミツフジ先生が寝坊してたくらいで」

「ここへ来たのは君の独断か。選抜試験はどうする。今年はもう諦めるのか?」

「もともと余裕を持って出たんです。一仕事してからでも十分間に合います」

 カクマはまたため息を吐いた。

「何を考えてるんだ、君は。どうしても試験会場に行く気はないのか? 司書になりたいんじゃなかったのか。どうしてわざわざここへ来た?」

「ですから、試験会場にはこの後行きます。司書を目指す気持ちも変わっていません。ここへ来たのは、そうですね……」

 アマリリは猟銃のボルトを押し込んだ。薬室に初弾が装填される。

「私がそうしたかったんです。『銃口は多い方がいい』。カクマさんが言ったんですよ」

「あの時とは状況が違う。違うんだよ……」

 カクマは頭を抱えた。アマリリは青年と視線を合わせる。

「カクマさん。首都へ行きたいと言った私を、あなたは首都へ連れてきてくれました。お金がなければ都合して、家庭教師までつけてくれた。もう一度だけ、わがままを聞いてもらうわけには行きませんか?」

「……」

 短い沈黙。「クソガキ」と呟いてカクマは顔を上げた。

「状況が違うと言っただろう。今回は戦闘が前提なんだ。かなりの確率で人を殺すことになる。できれば、君には関わって欲しくないんだ」

「今更ですか? バックリーさんの時は手榴弾を投げ込まれてるんですよ」

「向こうから来るのとこっちから仕掛けるのは全く別だ」

 カクマは舌打ちを挟んで、続けた。

「……と、言っても聞くまいな。わかったよ、僕の負けだ」

 足元の荷物から小箱を取り出し、カクマはアマリリへ投げ渡す。中に並んでいるのは、見覚えのある金色の銃弾だった。

「徹甲焼夷弾。ヴィンセントからのプレゼントだ。君はそいつを持って、向かい側の屋上へ潜め。で、僕が合図を出すまでは一発も撃つな」

「一発も? でも……」

「送り返されたくないなら言うことを聞け。いいか、作戦はこうだ……」

 手短な説明を終えたカクマは、最後に腕時計を見た。

「あと十分足らずで、ヴィンセントたちが出てくるはずだ。今すぐ移動してくれ。いいか、僕の指示があるまでは」

「絶対に撃ちません」

「引き金にも指をかけるな」

「引き金にも指をかけません」

「よし。頼んだぞ、一発勝負だ。行ってくれ!」

 アマリリに背を向けたカクマが狙撃位置につく。アマリリは猟銃と弾だけを抱えて、向かい側のアパートへ急いだ。彼女が位置へついた頃、道の向こうに蒸気自動車の一団が姿を見せる。

 つまりはそれが、アマリリたちの敵だった。

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