第七章 大天幕の抗争

第24話

「ここ、ですか」

 思い詰めた様子のシャーロットが馬車を停めたのは、黒い天幕の前だった。

「ええ、目的の賭場よ。男の人に拳闘をさせて、その勝敗に皆様でお金をお賭けになるの。眉をひそめられる方もいらっしゃるのだけれど、お父様はここが大層お気に入りでね。つい夢中になって遊ばれてしまうようなの」

「それは……そうですか」

「以前はお母様と連れ戻しに来たのですけれど。今は、余計なご心労をおかけしたくないの。あなたにはご迷惑と思ったのだけれど、他に頼れる方も思いつかなくて。ごめんなさいね、アマリリ」

「いえ。私なら大丈夫です」

 賭場には慣れていますから、とは続けなかった。

 シャーロットがリヴの名を告げると、門番が道を開ける。アマリリは猟銃を背負い直し、再び天幕へと足を踏み入れた。最後尾にプリシラが続く。

 暗い天幕の中は、以前と変わらず賑わっている。リングの上では、見覚えのあるスキンヘッドの男がコーナーに追い詰められていた。

「あ……」

 バックリーである。チャンプを倒した後も試合を続けているらしい。リング上のオッズは以前ほどではないが、彼に期待するものに変わっている。

 だが、試合内容は芳しいものではないらしい。

 シャーロットが怪訝な様子で振り返った。

「アマリリ? どうなされたの?」

「あ、いえ。なんでもありません。お父さんの座席はどの辺りでしょう」

「特等席にいらっしゃると存ずるわ。参りましょう」

 決然とした足取りで進んで行くシャーロットに、アマリリは小走りで続いた。

 シャーロットの言った通りだった。特等席の真ん中に、肩を落とした男が一人で座っている。どうやらそれが彼女の父親……ギルバート・リヴであるらしい。

「お父様。おとうさま!」

 どんよりした目が少女を見上げる。チャンピオンに賭けて負けた時のミツフジと全く同じだった。

「シャーロット。どうしてここに?」

「お父様を迎えに来たのよ。お母様がご心配なされているわ」

「心配? ほんの数時間で、何を大袈裟な」

「いいえ。ご自分ではおわかりにならないのね。お父様はもう、ふた晩お戻りになっていないのよ。さあ、ご自分の足でお立ちになって。一緒にお屋敷へ帰りましょう」

 ギルバートはぽかんとした表情で娘を見上げた。

「ふた晩。本当に……?」

「ええ。わたくしは嘘を吐きません。帰りましょう、お父様」

「……いいや、まだだ。次の試合で負け分を取り戻してからにする。今、いくらか借入を頼んだところなんだ……」

「駄目よ、お父様。帰りましょう」

 シャーロットが父親の手を引く。アマリリは反対側からギルバートの腕を掴んだ。

「……帰りましょう」

「だ、誰だお前は! 私はお前など知らないぞ、気安く触れるんじゃない! シャーロットも離しなさい。私にはまだ、すべきことが残っているんだ!」

「どうされましたか、お客様」

 口を挟んできたのは、用心棒らしい男だった。ぴったりした黒服で丸々とした巨躯を包んでいる。ギルバートがわめいた。

「助けてくれ! 娘たちが私を連れ去ろうと言うんだ!」

「それはいけませんね」

 近づいてくる黒服を、シャーロットは睨みつけた。

「戯言です。お聞き流しくださいませ」

「そうはいきませんな。私共はお客様が第一。見たところ、お嬢様はお客様ではないようです。自主的にご退場いただけないようであれば、私の方でご退場させる他ございません」

 黒服が手を伸ばす。アマリリは猟銃の銃口を上げた。

「やめてください」

 一瞬遅れて、アマリリはボルトを操作する。初段が装填され、猟銃はいつでも発射できる状態になった。それが理解できたのだろう。用心棒の表情が微かに変わる。

「手を出さないで。下がってください」

「それはこっちの台詞だ」

 かちり。横から聞こえた微かな音に、アマリリはどっと冷や汗をかいた。斜め後ろに黒服がもう一人、拳銃をこちらへ向けている。

「妙な気を起こすんじゃねえぞ。その猟銃を下げろ」

「いやです。あなたこそ銃を捨ててください」

「アマリリ」

 シャーロットが小さく彼女の名を呼んだ。ギルバートはじっと息を殺している。

「大丈夫です。……さあ、早く銃を捨ててください。この人の頭を吹き飛ばしますよ」

 こけ脅しのつもりはない。アマリリは引き金に指を置いた。

 その瞬間だった。

 パン、と頬に衝撃が走った。地面に頭をぶつけた時のように思考が揺らぐ。反射的に動いた指が引き金を引いた。

 --ズドン!

 耳元で銃声が爆発し、あらぬ方向に散弾がばら撒かれる。アマリリは座席に叩きつけられるようにして取り押さえられた。

「手間をかけさせやがる」

 耳鳴りの向こうに用心棒の声。シャーロットがまた、彼女の名を呼ぶのが聞こえた。

「アマリリ!」

「おい、そっちの娘も捕まえろ」

 再び用心棒の声。アマリリはもがきながら、ボルトに手を伸ばそうとした。その腕が革靴に踏みつけられて、そして--。

 ブゥン。雀蜂が羽ばたくような不快な音が、アマリリの耳元を掠めた。「ぐっ」と用心棒がうめいた直後、アマリリは拘束から解放される。

 倒れた用心棒の肩口からは、血が流れ出していた。

「狙撃!? どこから--」

 ブゥン。見まわしかけた黒服の元に、再び雀蜂が飛来した。その手元から拳銃が弾き飛ばされ、黒服は手のひらを押さえてうずくまる。

「ア、アマリリ」

「大丈夫です、シャーロット。目を閉じて、動かないでください。……お父さん、あなたもですよ!」

 動揺を噛み殺し、リヴ親娘の前でカクマを真似る。自身も座席の下に隠れ、アマリリは今度こそ猟銃のボルトを操作した。

 次弾装填。これはおそらくカクマの狙撃だが、万が一ということがある。

「おいおいおいおいおいおい……なんだってんだ、畜生め」

 ようやくざわめき出した客席の中を、聞き覚えのある声が近づいてきた。ヴィンセントだとわかった。用心棒すら霞む男の巨躯は、離れた位置からもはっきり見えた。

 知り合いの姿に安心しかけた時、肩がぽんと叩かれる。身をすくませたアマリリの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。

「大丈夫か。怪我は」

「あ--」

 カクマ・カタヒラがそこにいた。アマリリは張り詰めていた息を吐く。

 --助かった。

「大丈夫です。怪我もありません」

「こんな所で何してる。射撃場に行ったんじゃないのか」

「それは……すいません。後で説明します」

 アマリリは束の間、カクマの腕を掴んだ。掴んだまま、少しだけ泣いた。

 でも、ほんの少しだけ。


 ……だから、ハンサムキャブに乗って帰る時は、涙はすっかり乾いてしまっていた。灯り始めた街の明かりが視界の中で滲んで、前から後ろへ泳いでいく。

「ギャンブル中毒の父親か。彼女も苦労するな」

 アマリリが一部始終を語ると、カクマは深いため息を吐いた。

「ともかく、誰も怪我しなくて良かったよ。あの場に僕がいたのは僥倖だったな」

「そう思います」

 あのままカクマが来なかった時のことを思うと、今からでも肝が冷えるようだった。賭場にはヴィンセントもいる。どうあれアマリリは無事だったかもしれない。だが、ヴィンセントがリヴ家の二人にどう接するかは確信が持てなかった。

 危ない所だった。……本当に。

「シャーロットのお父さんは、どうなるんでしょうか」

「ひとまずは大丈夫だよ。結局借金もしなかったし、賭場が手出しすることはないだろう。ただ、今後は保証できないな。光藤みたいに身を持ち崩すことはあり得るよ」

「やっぱり、そうですよね」

 アマリリは自分の膝に視線を落とした。

 賭場で稼いだ彼女の学費の内訳は、ギルバートやミツフジから巻き上げた金で構成されている。それを思うと、ひどく情けない気分だった。

 隣のカクマが、背もたれに体重を預ける。

「心配か」

「シャーロットのことは、少し。試験も近いですし」

「そうか……そうだったな。試験日。正確な日程はいつだっけ?」

「忘れちゃったんですか? 来週の月曜日です。前から話してたじゃないですか」

 カクマはそっとこめかみに触れた。

「来週の頭か。本当に直前だな」

「そうですね。本当に……」

 他人事のように呟いて、アマリリは目を閉じる。それから数分足らずで、アマリリは自宅へ到着した。

 ウエストエンドに借りたアパートメント。カクマとアマリリの「兄妹」が住むことになっているが、兄が帰ってくることは非常に稀だ。射撃場で顔を合わせる以外の時間、カクマが何をしてるのか、アマリリはほとんど知らない。

 扉を開くと、大家の女が二人を出迎えた。

「あら、アマリリちゃん。お帰りなさい。今日はお兄さんも一緒なのね」

「はい。一緒に帰ってきました」

「ちょうど良かったわ、お兄さんに小包が届いてたから。部屋の前に届けておいたわよ」

「小包? 心当たりがないな」

 眉をひそめたカクマは階上を覗く。

「届けに来たのは、どんなヤツでしたか」

「ええ? 普通の人よお。コートを着て、ハットを被って……郵便屋さんじゃないみたいだったけど。受け取っちゃあ、いけなかったかしら?」

「いや、そこまでは言わないが……アマリリ。君はここで待っていてくれ」

「そんなに危ないんですか」

「わからないが、危険に心当たりがある。多分、ただの小包だと思うんだが」

 言葉に反して、階段を上るカクマの表情は警戒心に満ちたものだった。

 案の定というべきか、ほどなくして戻ってきたカクマは青い顔で小包を抱えていた。ひとまず危険な荷物ではなかったらしいが、とても「ただの小包」という風情ではない。

「アマリリ。荷物をまとめてくれ。最小限でいい」

「えっ? 何が届いてたんですか!?」

「後で説明する。大家さん、表に出て、馬車を捕まえてもらえますか」

 聞きたいことはいくらでもあったが、カクマの様子はただごとではない。アマリリはぐっと堪えて階段を駆け上がった。最小限の荷物……試験対策セットと数日分の着替えを背嚢に押し込み、アマリリは階下へ駆け降りる。

 帰宅してからわずかに数分後。アマリリは再び馬車に揺られていた。カクマが御者に伝えたのは張の屋敷であるらしい。

「あの……」

 険しい表情のカクマに、アマリリは訊ねた。

「さっきの小包には、何が入っていたんですか」

「これだ」

 カクマが差し出したのは、ボール紙で作られた小箱である。中には金色の銃弾が、尻を並べて詰められていた。

「小銃の弾と、手紙ですか」

 書かれていたのは、アマリリの試験日と激励のメッセージ。

「『当日はこれを使って頑張ってくれよな』。なんですか、これは?」

「ヴィンセントだ。あの野郎」

「普通の応援メッセージに見えますけど」

「違う。違うんだ」

 いらいらと体を揺らし、カクマは爪を噛んだ。彼がここまで動揺する姿を見るのは、アマリリには初めてのことである。

「……話が見えません。さっきの賭場で、何かあったんですか」

「そうだ。ヴィンセントに勧誘を受けた」

 カクマは長いため息を吐いた。

「あのクソ野郎、北方マフィアと一戦交える気でいるらしくてな。その時、僕にも手を貸せと言ってきたんだ」

「貸すんですか?」

「いや、突っぱねてやった。賭場にいたのは大部分が北方系の連中だ。ヴィンセントは『独立』という言葉を使っていたが、抗争の実態は北方マフィアの内部闘争になる。そんなもんにうっかり首を突っ込んでみろ。一生人殺しから足抜けできなくなる」

「そしたら、これが送られてきたわけですか」

「そうだ」

 カクマは銃弾を摘んだ。

「見てみろ。ピッカピカの徹甲焼夷弾だ。異界兵を殺すために考案された銃弾だよ。小包の代わりに人間が待ち構えてれば、こいつが僕らにぶち込まれてたわけだ」

 銃弾を受け取り、アマリリはしげしげと見つめた。

「死にたくなければ手を貸せと言うわけですか?」

「普通に考えればね」

「それで、カクマさんは手を貸すわけですか」

「……どうだろうな」

 カクマは腕を組んだ。

「Xデーまではまだ余裕がある。張さんの屋敷で、少し考えてみることにするよ」

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