第22話

 同時刻。片平覚馬とヴィンセント・トラボルタは首都銀行を後にした。

「あ〜! 借金完済ってのは気分がいいな。身も心もスッキリした気がするぜ。ま、ついでに口座もスッキリしたんだけどよ」

「良かったじゃないか。どうせ汚い金だろう」

「金に綺麗も汚いもあるかよ。大体、その金が流れ込んだのはお前の口座だぜ? もっと嬉しそうにしろよ。お嬢ちゃんと揃って億万長者じゃねえか」

「おかげさまでね」

 覚馬は非対称な笑顔を浮かべた。

 二ヶ月前、バックリーの勝利に賭けた彼とアマリリは莫大な払戻金の権利を得た。二人はその日の内に賭場にあるだけの金を受け取ったが、それだけでは本来支払われるべき金額の半分にも満たなかった。

 アマリリを三年間学園へ通わせて、なおお釣りが来る大金である。支払いを待ってくれというヴィンセントの申し出を、覚馬たちは受け入れざるを得なかった。

「しかし無茶をやったな。こっちの方は分割払いでも構わなかったんだが……」

「なに、気にすることはねえ。賭場が生きてりゃ、いくらでも取り返せる金さ」

「羽振りの良いことだな」

 銀行前の通りには、ヴィンセントの蒸気自動車が路駐されている。その横腹には、石か何かで引っ掻いたような傷がついていた。先ほどまではなかったものだ。

「やられたな、こいつは」

 ヴィンセントは舌打ちして周囲を見回す。

「羨ましくて仕方ねえヤツにイタズラされたらしい。ケチな根性だな」

「物盗りはないか」

「ねえよ。くだらねえ嫌がらせだ。ここらじゃまだ、御者組合が幅を利かせてやがる。蒸気自動車が気に食わなかったんだろうよ」

 ざっと車両を点検し、ヴィンセントはうなずいた。

「問題ねえ、正味な。連中ときたら機械の壊し方も知らねえと見える。乗れよカクマ。お前の下宿まで送ってやっから」

「本当にただの嫌がらせなのかよ」

 呆れ顔の覚馬が飛び乗るのを待ち、ヴィンセントは車を発進させた。幌を無精したせいで、車の中は既にしっとりと湿っている。

 シュッポッポッポッポ……蒸気機関のかすかな作動音を響かせながら、自動車は小雨の中を加速していく。

「それで? これからどうするんだ、お前」

「家に帰るよ。その後は、射撃場にあの子を迎えに行く」

「違う、そういうことじゃねえよ。今後の方針のことだ」

「方針か」

「ニコラスの娘は、諸々目処がついたわけだろう。首都に連れてきた、金は稼いだ、家庭教師も押し付けた。お前の任務は完了だ、違うか? そろそろ今後のことを考え始めてもいい頃だろうと思うぜ」

「どうかな。あの子はまだ学園に入ってないよ」

「試験の結果を気にしてるのか。そいつはお前に左右できることじゃねえ」

「だから気にしてるんだ。落ちた時には浪人費用を用立てないといけない」

「そいつは……」

 ステアリングを握るヴィンセントは、厭わしげに目を細めた。

「ちょいと甘やかしすぎじゃねえのか、お前」

「普通だよ」

 覚馬は間髪入れずに答える。ヴィンセントがゆったりとブレーキを踏んだ。

 民家から運び出されてきたらしい煙突掃除の子供が、道路を横切るところだった。戸板に乗せられた少年の体からは、熾火のような黒い煙が上がっている。その状態は、火炎放射を直撃した兵士と大差なかった。

「こっちの世界が厳しすぎるんだ。僕が手を離したら、あの子はあっという間に沈んでしまうよ。あの子が村を出るよう仕向けたのは僕なんだから、僕がなんとかしてやらないと。少なくとも、あの子が首都で自活できるようになるまでは」

「そりゃあ……」

 言い淀みながら、ヴィンセントは車を発進させた。蒸気自動車乗りを鴨にするつもりだったのだろう。ミラーに映った背後では、複数の街娼が舌打ちしながら引き返していく。

 覚馬はため息を吐いた。中心街だというのに、立て続けに暗いものを見た。

 黒焦げの死体に、昼夜問わず徘徊する夜鷹。この街では性別年齢人種問わず、ありと阿良ゆう人間を買い求めることができる。

 議会、学園、銀行、賭場。なるほど、確かにここは帝国の、いやさこの世界の中心なのだろう。だが、決して素敵なものばかりで作られた街ではない。

「お前のいうことはわかるぜ。だがよ、ちょいとばかし不健康じゃねえか? その間、お前の人生はどうなるんだ。どうあれ、俺たちは前に進まなきゃならないんだぜ」

「何が言いたい」

「……ニコラスのことを気にしすぎなんじゃねえのか。ヤツさんが死んだのはお前のせいじゃねえ。あいつは戦争に殺されたのさ」

「なんだそれ」

 雨に打たれながら覚馬は苦笑した。

「そう簡単には割り切れないよ。それに、僕がアマリリの面倒を見るのはニコラスに責任を感じてるからじゃない」

「じゃ、なんだってんだ」

「死に際のニコラスに頼まれたんだよ。娘のことを頼むってな」

「気にしてるじゃねえか。何が違うんだよ」

「わからないかな、ヴィンセント。五年前は、君もまだ学生だったはずだろ? そこを呼び出されて、いきなり戦争に参加させられた」

「おう、セカンダリースクールの十年目な。忘れもしねえよ」

 ドア枠に肘をついて、覚馬は冷たい風を浴びる。

「僕もそうだよ。高二に上がったと思ったらいきなり戦場でさ。異界兵というだけで普通よりずっと酷い目にあったよな。爆弾を巻きつけて相手の塹壕に走らされたり、肉盾みたいに使われたりさ」

「俺たちは違ったろうが」

「そう、僕らは違った。狙撃と火炎放射に適性があったからだ。他の連中より、ずいぶん多く殺したよな。どちらにしても、問題はここにある。僕らが社会から突きつけられた最初の要求は、とにかく敵を殺すことだったんだ」

「なるほど! 言われてみりゃあ確かにそうだ」

「だろ? 張さんや光藤はいいんだ。あの人たちは最初から大人だったんだから。元の仕事に戻ればいいんだから。僕らはどうする? 今更あの子みたいに机に向かって、まともな商売を持とうと思うかい? 人殺し以外のまともな商売だぞ」

 ヴィンセントは無言でブレーキを踏んだ。スピードを出しすぎていたのか、先行の馬車が目と鼻の先に近づいてきている。

「ニコラスの頼みは、初めてもらった人殺し以外の任務だ。このままあの子の保護者を続けてれば、その内何かする気になるかもしれない。そういう希望があるんだよ」

「ふうん。難しく考えるんだな。俺はそんなこと一度も思ったことはねえ」

「向いてるな。羨ましいよ」

 そう言って、カクマは顔を上げた。

 いつの間にか、車の両脇をオムニバスが並走している。ミラーを覗くと背後にも一台、ハンサムキャブがぴったりと張り付いていた。蒸気自動車は完全に四方を囲まれた形である。

「幅寄せ? ドアを引っ掻いて行った連中かな」

「知らねえよ。どっちにしても馬好き連中の集まりだ」

 オムニバスの扉が開いた。ハットを被った男が顔を見せる。

「ヴィンセント・トラボルタだな。よくもノコノコ出てきやがって」

「いかにも! 御者組合の残党だな。お仲間の敵討ちってわけか?」

 言葉の代わりに、いくつかの銃声が答えた。ヴィンセントが小刻みにステアリングを切る。座席の上に何発かの銃弾が爆ぜた。

「おい……おい!」

 覚馬はロールバーを掴む。

「何をやらかしたんだ、ヴィンセント・トラボルタ!」

「何もしてねえよ」

「何もしてないヤツがいきなり銃撃を食うもんか! 何をしたのか言え!」

「どっちにしても、先に手を出したのは向こうなんだよ。俺はちょいと仕返ししてやっただけだ。……うちがケツを持ってる自動車工場が放火されてな。連中の馬を山盛りで殺してやったんだよ」

 覚馬は呆れた。

「それでよく『何もしてない』なんて言えたもんだな」

「これでも気を使ったつもりだったんだぜ。こっちには相当死人が出た。それを畜生の命で勘弁してやろうって言うんだから」

「もういい。しばらく会ってなかったせいで、お前の感覚を忘れてたんだ」

 とにかくここを切り抜けなければならない。覚馬は小銃を取り上げた。ヴィンセントはゆらゆらとステアリングを切り、銃弾から車の急所を避けている。

「悠長な真似してるなよ。こっちからぶつけて馬車を飛ばしてやれ」

「バカ言え、そんな無茶ができるかよ。お前の知ってる車とは強度が違うんだ、馬車なんかとぶつけたらバラバラになっちまう!」

「このまま囲まれてるよりマシだろ」

「いいから黙ってろ。ハンドルを握ってるのは俺だ!」

 馬車に挟まれた狭い空間で、ヴィンセントは車を左右に振り回した。ぶつけられれば無事ですまないのは馬車も同じである。オムニバスは蛇行する蒸気自動車を避けて道を開けた。

 こちらへ飛び移りかけていた乗客の何人かが落車し、後続の馬車に踏みつけられる。左右の御者がたじろぎ、包囲が乱れた。

「バカめ」

 せせら笑いを浮かべたヴィンセントがステアリング横のボタンを殴りつけた。ボンネット上のターボチャージャーが作動し、タービンが甲高い音を立てる。直後、蒸気自動車は瞬間的に加速し……。

「……?」

 瞬く間に失速した。乱れた包囲を破るどころか、車はずるずると後退していく。気を取り直した左右のオムニバスから、散発的な射撃が再開された。

「おいおいおいおい! 冗談じゃねえぞ、こんな時に!」

「故障か?」

「いや、もっと悪い。燃料が切れた」

「ガス欠か……」

 覚馬は助手席から右手のオムニバスへ撃ち返した。御者の数名がすぐさま沈黙し、一部は落車して背後へ消える。だが、馬車が撤退する気配はなかった。左手側のオムニバスから飛びついてきた男を殴りつけ、背後の馬車へと突き落とす。

「ギャッ」

 短い悲鳴と骨の砕ける音が響いた。仲間を轢いたにも関わらず、背後の馬車が減速する気配はない。このまま車を轢き潰すつもりなのだろう。その時には馬車も馬も、御者自身すら無事ではすまないはずなのだが……それを押してもこちらに一泡吹かせたいらしい。

「恨まれすぎだぞ、ヴィンセント。いっそこのまま轢かれておくか?」

「バカ言え。ここで殺されたんじゃ、なんのために生き残ったのかわからねえよ」

 いきなりステアリングを回し、ヴィンセントは車を急旋回させた。怯んでつんのめった馬車と交差するように横滑りし、車は馬車の包囲を脱出した。

 だが、それだけだった。

 ギャキャキャキャキャキャキャ……パン! アスファルトと擦れたタイヤがパンクし、制御を失くした車は路肩のガス燈に激突する。ボンネットがぎゅっとひしゃげ、運転席を飛び出したヴィンセントの頭がフロントガラスを突き破る。

「ああ……クソッ。カクマ、無事か?」

「無事だよ、当たり前だろう」

 道の前後は停まったオムニバスで塞がれている。両側合わせて数は六台。近くに増援が待機していたらしい。次々降りてくる武装した男たちを眺めながら、覚馬は壊れた車を飛び降りた。ボンネットの影に身を潜めて、手持ちの弾数を確認する。

「まずいな。弾より敵の数が多い」

「俺も拳銃を持ってるぜ」

 隣に座ったヴィンセントが六連発を見せびらかす。

「予備の弾は」

「そこが問題だ。生憎そっちの持ち合わせはねえ。他に武器は座席の下に小銃が一丁、お前にぶっ壊されたヤツが入ってるきりだな」

「なんでそんなの持ってるんだよ。捨てるか直すかしとけって」

「うるせえな。この後持って行くつもりだったんだよ!」

 ヴィンセントが吠える。要するに、弾は手持ちだけが頼りということだ。

 覚馬はうんざりしながら蒸気自動車のミラーをもぎ取った。鏡に映した車の向こうからは、敵の一団がじりじりと近づいてきていた。状況は反対側も同じらしい。馬車の影から顔を出したヴィンセントが鼻を鳴らした。

「つまらねえな。流石に撃つほどバカじゃねえか」

「反対側の味方に当たるからね。どの道、拳銃の距離じゃない。いい判断だ。……ほい」

 覚馬がヴィンセントに手渡したのは、鋸歯のついたナイフだった。

「なんだこりゃ?」

「銃剣。壊れた小銃でも、それをつければ役にたつ」

「そうじゃねえ。なんでこんなもん持ってんだ」

「こっちにくる途中、ニセ兵士がいてさ。ムカついたから押収したんだ」

「これこそ捨てとけよ。不吉だぜ」

 文句を垂れながら、ヴィンセントは壊れた小銃を引き出した。その先端に、ギザギザの銃剣を取り付ける。

「あーあ。こんなもん持ってちゃ、まともな捕虜にはしてもらえねえな」

「元からだろ」

 着剣した小銃を真上に構え、覚馬は鼻を鳴らした。

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