第18話
「やあ! カクマ。アマリリさんも。昨日ぶりだね」
特等席に入った二人を出迎えたのは、目を充血させた家庭教師だった。
「光藤。今日も来てたのか」
「ここに座るといいよ。いいタイミングできたね、もうすぐ今日のメインイベントだ。もうどちらに賭けるか決めたかい?」
「まだだ。……ずいぶんオッズに差があるな」
「うん。この試合、少し妙な噂があってね。八百長があるっていうんだ」
「ああ……」
「それに、チャンピオンは異界兵だって話もある。ベンティゴって言うんだけど……確かに名前を聞いたことがある気がするんだよ。そしたら、バックリーが勝てる道理はないよね。だからみんな、チャンピオンに賭けまくってるんだ」
アマリリはカクマと顔を見合わせる。二人が券売所へ立つと、ミツフジも自然と着いてきた。
「ミツフジさんもそうしたんですか?」
「もちろん! 間違えようのない勝負だよ。オッズは一倍そこそこだけど、融資を受けてタネ銭を増やしたからね。結構な戻りがあるはずなんだ」
「そうか。そうだな」
「君たち、学費を稼ぐつもりなんだよね? チャンピオンに賭けるといいよ。オッズはかなり低いけどね、ここは乗っかりどころだと思うな」
券売所の順番が回ってくる。アマリリは革袋を取り出した。父の慰労金。その半額がここにある。
「バックリーの勝利に全額で」
「ええっ!?」
ミツフジが割り込んできた。
「私の話、聞いてなかったのかい!? バックリーは挑戦者側だよ。負けるつもりの相手なんだよ!」
「光藤。下がって……下がるんだ。僕もバックリーの勝ちに賭ける」
「ああ、待って。待つんだ!」
「待たなくていい。さっさと確定させてくれ」
券売スタッフに縋りつくミツフジを引き剥がし、カクマが顎をしゃくった。投票券に確定の判子が押され、二人の金が回収される。
「あ、ああ〜……」
自分の金でもないのに、ミツフジは膝から崩れ落ちた。
「バカだよ、カクマ。明日から君らは一文なしだ!」
「そんなことはわからない。試合はまだ始まってもないんだから」
「わかってないのはそっちだよ! 大穴は当たらないから大穴なんだぞ。それをこんな……はあ……」
ミツフジはがっくりと肩を落とし、幽鬼のような足取りで席へ戻り始めた。
「元気なヤツだ」
「……本当にこれで良かったんでしょうか」
アマリリは両手を見つめる。大金を使ったせいか、早くも両手が震え出していた。
「それはまだわからない。ここからが本当の勝負だな」
「えっ……?」
「ヴィンセントも言ってたろう。よーいドンでまともに勝負をやれば、百パーセントなんてことはあり得ない。勝つ公算が高いのがバックリーというだけで」
アマリリは無言でカクマを見上げた。自分の顔から、血の気が引いていくのがわかる。それを見たカクマは上を向いて笑った。
「アッハッハ。大丈夫、大丈夫だよ。心配しなくてもあいつは勝つさ。万一失敗した時は、また次の手を考えればいいんだ」
「そんな適当な」
「適当なもんか。これが現状、唯一現実的なものの見方だよ。それより、投票権を無くさないように注意しろ。勝った時に払い戻しを受けられないのが一番悲しいからな」
「それは……わかりました」
券を両手で握りしめ、アマリリとカクマは特等席に向かう。二人が席に腰かけた頃、前座の試合が終わって、メインイベントの準備が始まる。名前のコールや盛り上がりもなく、バックリーがリングの下に姿を現した。
「さて。そろそろか」
バックリーの姿は客席後方からもよく見えた。暗がりに身を潜めたヴィンセントは静かに小銃を点検する。締めくくりに覗き込んだスコープの向こうには、ロープに囲まれたリングが白く照らされていた。
挑戦者の張り切りぶりはスコープ越しにも見て取れる。スコープの中心にバックリーを捉え、ヴィンセントは含み笑いを漏らした。
「悪いな、バックリー。お前の試合に水を差すことになる」
だがその声は歓声に紛れて、誰にも聞こえなかった。
アリーナの反対側にチャンピオンが姿を現したのである。二人のボクサーは各々にリングへ上がり、臨戦体制を整えつつあった。
学費を求める少女と異界の兵士。アリーナへ集まる博徒たちと北の国から来たマフィア。リングで向き合う拳闘士はもちろんのこと、闇に潜む謀略家たちの思惑すら孕んで、賭場の空気は急速に熱を増していった。
その熱が最高潮を迎える頃、開戦のゴングが響く。バックリーとベンティゴ、二人のボクサーは、拳を固めて激突した。
◆
「あっ」
特等席からリングを見下ろすアマリリは、投票券を握りしめた。開幕早々、チャンピオンのワンツーが炸裂したところだった。
彼女の隣でミツフジが腰を浮かせる。バックリーがまた、チャンピオンの拳を受けた。
「ああ!」
「ヨーシ!」
ミツフジが立ち上がった。チャンピオンが畳み掛ける。リングの上のバックリーは、ほとんど無抵抗に連打を受けているように見えた。
「ヨーシ! ヨシ、ヨシ、ヨーシ! いいぞっ、私のチャンピオン!」
「……がっ」
負けじと立ち上がり、アマリリは両手を振り上げる。
「頑張ってください、バックリーさん! チャンピオンになりたいんでしょ! 反撃! 反撃しなくちゃ勝てませんよ! ほら、カクマさんも応援してください!」
「ここ、電球が使われてるんだな」
「何を悠長なことを! いくら賭けたか忘れちゃったんですか!? ああっ、また……」
「行けーっ、チャンピオン! バックリーを殺せっ!」
「はあ!? 何やってるんですか、バックリーさん! ほら、今すぐチャンピオンをバグり倒してください、今すぐに!」
「無茶を言うな」
カクマが苦笑して席を立った。
「えっ? カクマさん、どこへ行くんですか。試合中ですよ!」
「ちょっと用事だ。すぐに戻るよ」
「でも……」
「ほら、バックリーが反撃したぞ」
「えっ!? あっ!」
振り向くと、ベンティゴがたたらを踏むところだった。鼻が妙な方向に曲がって、口元からは血を流している。バックリーのカウンターが直撃したらしかった。
「やりましたね、カクマさん! ……あれ?」
アマリリが目を離した隙に、カクマは姿を消していた。リングではバックリーの反撃が始まりつつある。
それに水を差すように、再びゴングが鳴った。最初のラウンドが終わったのである。
だが今の一撃で、アリーナの雰囲気は変わり始めていた。賭場の最も古い客にとってすら、チャンピオンが試合で血を流すのは初めてのことだった。況してや対戦相手は最弱と名高いバックリーである。
何か異様なことが起こっている。観客全員がそう感じていた。
「魔法は解けたみたいだな、チャンプ」
インターバルも終わり際。再びベンティゴに対したバックリーは、不敵にそう言い放った。あれほど大きかったチャンプの姿が、今は見る影もない。鼻を折られたベンティゴは初めて痛みを知った赤子のように表情を歪め、口を開いて喘いでいた。
バックリーは拳を固める。再び鳴らされたゴングが、第二ラウンドの開始を告げた。
その時。一発の冴えた響きが、天幕の暗い空を断つ。
「--!」
リングにかぶりついていたアマリリは、反射的に顔を上げた。ゴングと歓声に紛れて、銃を放った者がいる。恐らくは、兵士が持つような小銃。……何かトラブルが起こったのだろうか。
「ミツフジさん。聞こえましたか?」
「反撃、反撃! 反撃だ、チャンピオーン! あ、ああっ!」
「ミツフジさん!」
「えっ、なんだい!? 今、とっても忙しいんだけど!」
「ですから、さっきの音!」
「音? あっ、あーっ!」
今度はチャンピオンの方がバックリーの連打を受けていた。ミツフジは声を上げながら、もどかしげに両手を振り回している。アマリリはそれ以上の会話を諦めて、猟銃を手元に引き寄せた。
起きていること如何では、ここに留まっているのは危険かもしれない。アマリリは席を立つと、カクマ・カタヒラを探し始めた。
「あれ、どうした」
目当ての男はすぐに見つかった。アリーナの階段を上がった先、光の届かない客席の隅で、カクマは小銃を手に佇んでいる。
「ミツフジが何かやらかしたか?」
「いえ。そっちは今のところ平気ですけど。銃声がしたようなので」
「ああ……ゴングで上手く隠したと思ったんだが。耳がいいな」
「トラブルですか? 手が必要なら、私も」
「いや、大丈夫だ。ちょうど終わったところだよ。アリーナの反対側を見てごらん」
アマリリはベルトから双眼鏡を引っ張り出した。カクマの示した暗闇で、大柄な男がリングを見下ろしている。その手にはスコープ付きの小銃が握られていた。
「ヴィンセントさんですか?」
「そうだ。マフィアが打った最後の手だよ。対戦相手が死ねばチャンピオンの勝ちだけらね。試合中のバックリーを狙撃するつもりだったんだ」
「そんなの観客が黙ってませんよ」
「僕もそう思う。流石に手傷を負わせるだけで、殺すつもりは無かったのかもね。どの道その計画は頓挫だよ。撃針をぶち抜いてやったから、あの銃はもう撃てない。狙撃で僕を出し抜こうなんて百年早いよ」
鼻歌でも歌い出しそうな様子で、カクマはリングを見下ろす。第一ラウンドとは打って変わって、連打を浴びせているのはバックリーだった。リングの白い床には、点々と戸が飛び散っている。チャンピオンの顔から垂れたものに違いなかった。
「苦しいか、ベンティゴ」
白熱電球に照らされながら、バックリーが歯を見せる。ベンティゴは荒い息を吐きながら、応じる気力もないようだった。
「これがボクシングだ」
バックリーは腕を引き絞り、顔の横で拳を構えた。素人同然のテレフォンパンチ。だがベンティゴにはそれすら避けることができなかった。まっすぐ打ち出されたパンチがチャンプの無防備な顎を撃ち抜く。
「アッ……!」
ベンティゴの首がぐるりと回る。足を滑らせるようにして、チャンピオンはその場に崩れ落ちた。どたり。一瞬ブーイングすら途切れたアリーナに、ベンティゴの倒れる音だけが響く。バックリーはレフェリーを見た。
「……ワン……ツー!」
レフェリーがカウントを開始する。事前に買収されていたのだろう。困惑に歪んだその声は時間を稼ぐように間延びしたものだった。ノックアウトまでの猶予は十秒間。レフェリーはじりじりしながらベンティゴの復活を待っている。
「シックス……」
だが十秒間が十分だったところで、試合の結果は変わらない。それは誰の目にも明らかだった。倒れたベンティゴは完全に意識をなくしている。
「早く数えろ!」「立ち上がってくれ、私のチャンピオン!」「生意気だぞ、バックリー」……飛び交う罵声の中、レフェリーはカウントを続けた。
「エイト……ナイン……」
最後の「一秒」には、十秒以上の時間がかかった。だがそれ以上の時間を稼ぐことはできなかった。レフェリーは渋々ベンティゴのノックアウトを宣言する。
試合終了のゴングが鳴った。
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