第16話

「いい? ヴィンセント。明日の試合までに、バックリーを連れて来なさい」

 アヘンを吸った彼のボスは、濁った目を向けてそう言った。

「なんとしてもよ。アタシが直々に話して、あいつをうなずかせてみせる。必ずよ」

「もちろんです、ボス」

「アンタよ。アンタが行くのよ! 行って、バックリーの首根っこを引っ捕まえなさい! いいわね!?」

「もちろんです、ボス。配下全員でかかります」

「頼んだわよ」

 ボスはパイプを吸い込んだ。ヴィンセントはニッコリ笑った。

「失敗はあり得ません」


    ◆


「エール、エール。で、またエールですか」

 アマリリはカクマの手元を覗き込んだ。鈍色のカップの中に、先ほどと同じ飲み物が注がれている。アマリリたちは、まだ先ほどのパブにいた。

「こんなもんの何がおいしいんですか? 普通にお水の方がよっぽどいいですよ」

「……君、酔っ払ってるのか?」

「酔っ払ってるわけないでしょ。本当にわからないだけですよ」

 唇をめくり上げるようにしてバックリーが笑う。少なくともアマリリにはそのように見えた。

「ハハ、嬢ちゃんには早かったか? マスター、その子にはミルクでも出してやんな」

「それ、喧嘩を売ってるんですか?」

「よせよ」

 猟銃を下ろしかけたアマリリをカクマが制止する。

「わからないなら、もうアルコールはやめような。マスター、こっちには水をくれ」

「首都は水が悪いんでしょ? 嫌ですよ、そんなの」

「それは昔の話だ。今は平気だよ。ほら、これを飲んで」

 勧められるまま、アマリリはカップの水を飲む。よく冷えた水は、店に入ってから口にしたものの中で一番おいしかった。

「……さっきの話なんですが。異界兵は食事をすると弱くなるって」

 濁った思考で、アマリリは言葉を探した。

「だから、カクマさんは何も食べないんですか」

「そうだよ」

「お腹は空かないんですか」

「空かない。銃弾が効かないのと同じ理屈だよ」

「ミツフジさんやチョウさんも異界兵だったんですよね。あの人たちは普通にアイスを食べてましたけど」

「あいつらは……」

 カクマは言い淀んだ。

「なんです?」

「いいんだよ、あの二人は。もう兵隊を降りたんだから。僕は彼らとは違う」

「カクマさんは、これからも兵士をやるつもりなんですか」

「……マスター! もう一杯水を持ってきてくれ!」

 空のカップに再び水が注がれた。冷水を流し込むと、火照った脳が冷えていくような感じがする。アマリリは無言で水を飲み続けた。

「兄さん、嬢ちゃん。ありがとうな」

 カウンターに降りた短い沈黙。それを破ったのは、バックリーの声だった。

「今頃になって冷や汗が出てきやがった。あんた方が来なけりゃ、俺は今頃アパート裏の水路に浮いてたろう。お陰で、またベンティゴと戦える」

「なんだって?」

 目を丸くしたのは、カウンターの中のマスターだった。

「バック、お前またチャンプとやるつもりなのか?」

「やるさ。前から言ってたろうが」

「やめとけよ、万年最下位ミスターブービー。ズタボロであちこちガタが来てるんだろう? 年寄りの冷や水は見てらんないぜ」

「うっせ。黙って見てろよ、薄らハゲ」

「ハゲはお互い様だろう。……わかったよ、好きにしろ」

「ああ、好きにするとも。俺にはボクシングしかねえんだ。これだけなんだ! 今度こそベンティゴに勝つぞ。ヤツをぶちのめして、俺が勝つ!」

 バックリーの言葉が熱を帯びる中、水を飲み干したアマリリが身を乗り出した。

「--一つ、聞いてもいいですか」

「なんだい、嬢ちゃん」

 バックリーも身を乗り出す。二人の間に衝立を作るようにして、カクマがカウンターに肘を突いた。

「そこまでボクシングに拘るのはどうしてなんです。何か理由があるんですか」

「理由。理由だあ? 考えたこともねえなあ、そんなことは」

 バックリーが腕を組む。

「強いて言うなら、他にできることもねえ。今更貧民街のスリに戻っても仕方ねえし、マフィアの手先ってのもピンと来ねえしな。ボクシングだけは、そういうのがねえんだよ。ピンと来るんだ。情熱ってヤツが湧いてくるんだよ」

 男は卑屈じみた笑顔を浮かべた。

「ヘヘ、言っても嬢ちゃんにはわからねえかな。若えしな」

「いえ……なんとなくわかる気がします。ボクシングには詳しくありませんけど」

「そうかい? 嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。マスター、この子にエールを一パイント。俺に奢らせてくれ!」

「はいはい、はいよ」

 マスターはバックリーに生返事を返して、カクマとアイコンタクトをとった。バックリーの注文に反して、アマリリに提供されたのは冷たい牛乳だった。

 少女のカップが空になった頃、彼らは揃って席を立った。パブの外に出た頃には、日はかなり西へ傾いていた。


「あんた方、俺を守るとか言ってたな。このまま着いてくる気かい?」

「僕はな」

「私も行きます」

 カクマはアマリリを振り返った。

「君は帰れ。これから行くのは首都で一番劣悪な地域だぞ。馬車を停めてやるから、一人でホテルに戻るんだ」

「私の学費のことです。最後まで関わらせてください」

「それで君を危険に晒したんじゃ、本末転倒なんだよ。いいから帰れ」

「この時間から一人で帰すのは、危険に晒す内には入らないんですか」

 ぐっ、とカクマの喉が音を立てた。

「……バックリー。あんた、今日はどこへ泊まるつもりなんだ?」

「家に帰るよ、当たり前だろう」

「今夜は危険だ。適当に別のところへ泊まるわけには?」

「無理だな、金がねえ。ぶら下がり宿にも泊まれねえよ。兄さんが出してくれるなら別だがよ。試合は明日の夜だ。今日は家で休みてえ」

「ち、道理の通ったこと言いやがって……」

 カクマは顔をしかめて束の間考え込んでいたが、やがて渋々うなずいた。

「わかったよ、一緒に行こう」

「話は決まったかい? じゃ、着いて来な。はぐれたら責任は持てねえぜ」

 バックリーの案内で、二人は路地裏へ踏み込む。後続のカクマに促され、アマリリは銃を肩から降ろし、安全装置すら外して進んだ。

 路地は蜘蛛の巣のように入り組んでいる。全くの無秩序。だがそこを利用する者たちの間には、何らかの不文律があるようだった。ある者には道を譲り、ある者には道を譲られながら、バックリーはアマリリたちを案内していく。

 やがて路地が途絶えて、いきなり開けた場所へ出た。

「驚いたな」

 カクマが声を上げる。

「E管区の路地から、イーストエンドまで続いてるのか!」

「知らなくて当然さ。俺たちだけの秘密のルートだ」

 得意げな笑みを浮かべ、バックリーが道を示す。

「さあ、ここまで来ればもう少し。兄さん、嬢ちゃん、ちゃんと着いて来なよ。ここの連中に捕まったら、骨までしゃぶられちまうからな」

 バックリーは冗談めかして言ったが、アマリリにはそうは思えなかった。

 胡散臭い街だ。築何十年かわからない建物はどれもうっすらと煤け、路上では複数の焚き火が灯されている。並んだガス灯は、まともに点いているものを数えた方が早いくらいだが、そのせいで街は十分に明るい。炎に照らされた人々は皆どこか後ろめたげで、影を引き摺るようにして歩いていた。

「アマリリ。ここでは銃をしまっても大丈夫だよ」

「私には、そうは見えませんけど」

「銃を持ってることがわかれば十分だ。手を出してくるヤツはほとんどいない」

「ほとんど……」

 アマリリは口元を引き結んだ。怯えと敵意の混じった視線がそこら中から飛んできている。カクマが何と言っても、銃を下ろす気にはなれなかった。バックリーの自宅に招き入れられた時も、アマリリはずっとそうしていた。


「ここで生活してるんですか?」

「なんだ、嬢ちゃんはお気に召さないか」

 バックリーの部屋は、簡素なものだった。家具らしきものは、小さな寝台の他には何もない。他には天井の梁から砂袋と、ボクシング用のグローブがぶら下げられているだけだ。他に調度と言えそうなのは、壁から突き出したガス灯が一つ。それが照明と暖房を兼ねているらしかった。

「これでも、この辺じゃ上等なんだぜ。何しろ個室だ。鍵をかけりゃあ、誰にも入ってこられる心配はねえ。俺が住んだ中じゃ、最高の物件さ」

 バックリーが毛布を広げる。それだけで信じられないほどの埃が舞い上がる。アマリリとカクマは、同時にくしゃみを出した。

「くしょん!」

「ハックション!」

「おっと、すまねえ。でも、窓は開けないでくれよ。熱が全部逃げちまう」

「もう寝るのか、バックリー」

 鼻を気にしながらカクマが訊ねる。

「明日は試合なんでな。兄さんと嬢ちゃんが守ってくれるんだろ? 俺は安心して眠らせてもらう。明日の昼になっても起きなかったら、あんた方が起こしてくれ」

「任せとけ。その代わり、明日は必ず勝てよ」

「それこそ任せろ。無敗伝説の終わりを見せてやるぜ」

 バックリーがガス灯の灯りを絞る。ただでさえ暗い部屋は、ほとんど夜の闇に溶けた。数分足らずで、寝台からは特大のいびきが聞こえ始める。

「アマリリ、君も眠れ。不寝番は一人で十分だ」

「いえ。起きてます」

「刺客が来るなら明け方だ。それまでに起きてくれればいい」

「……いえ。私も起きてます」

 それ以上の忠告は聞こえなかった。カクマは早々に諦めたらしい。アマリリは銃を抱えたまま、壁に寄りかかって座った。暗い天井を眺めていると、たちまち眠気が押し寄せてくる。だが、ここで眠ってはカクマの思う壺である。

 アマリリは腿をつねった。続いて二の腕をつねった。それからまぶたを引っ張って、とにかく眠るまいとした。そうして眠気に抗って、抗って……。

 抗ったのは、確かである。


「はっ」

 アマリリが目覚めたのは、夜明け近くになってからのことだった。かすかな煤の匂い。妙に暖かいと思ったら、カクマの外套が毛布の代わりにかけられていたらしい。

「起きたか」

 外套の主は、最後に見たのと同じ姿勢で窓枠に腰かけていた。

「ちょうど良かった。バックリーを起こして、部屋の隅へ下がってくれ。……お客さんだ」

 カキン。小銃のボルトが、カクマの手元で音を立てる。「客」が意味するところはすぐに理解できた。刺客である。

 カクマが銃を構える。その時飛び込んでくる石つぶてを、アマリリは窓の外に見た。

「伏せろッ!」

 兵士が叫んだ。アマリリが倒れ込むのとガラスが割れるのが同時だった。床に転げた石つぶてが、白い火花を上げている……。

 瞬間、カクマがつぶてを拾って投げ返した。早朝のイーストエンドに花火が上がる。目をこすりながら、バックリーが身を起こした。

「なんだ……?」

「客だ。思ったよりなりふり構わず来やがった」

 言いながらカクマは発砲した。銃撃のたび、窓の外からは一つ以上の悲鳴が聞こえてくる。拳銃と思しき応射を受けながら、カクマは淀みなく弾丸を再装填した。

「まずいな。連中、怪我人を意に介してない。何人かは抜けてくるぞ」

 カクマは室内を一瞥する。

「わかりました。その時は私が--」

「いや。バックリー、頼めるか。あんたの手を煩わせたくはないが」

「仕方ねえな。任せろ」

 梁からグローブを取り上げて、バックリーが装着する。カクマは淡々と撃ち続けた。もう悲鳴は聞こえない。

「悪い、一人抜けた。棍棒と拳銃を持ったヤツだ」

「よしきた」

 バックリーが扉の脇に身をひそめる。階段から足音が近づき、やがて一人の男が姿を見せた。男はカクマの背中に拳銃を向け……。

「シュッ!」

 バックリーに殴り飛ばされた。斜めに突き刺さった拳に頭を煽られ、男はたったの一撃で昏倒する。短い息を繰り返しながら、バックリーが軽いステップを踏んだ。

「こちとら現役でやってんだ。一対一で負けるかよ」

「やるね」

 窓際のカクマが微笑む。「引き上げろ!」と叫ぶ声が聞こえた。バタバタと走り出すまばらな足音。装填のために、カクマが銃口を引き下げる。

 その時アマリリは、再び見た。火花を上げる石つぶてが、早朝の空を飛んできている。手榴弾がもう一発、完璧なコントロールで投げ込まれたのだ。

「ち……」

 カクマの舌打ちが聞こえる。アマリリは咄嗟に猟銃を構えた。それに気づいた狙撃手が、窓枠からさっと身を引く。

 アマリリ・カラーは引き金を引いた。

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