第五章 大天幕の興行

第14話

 屋敷町の外れ、イーストエンドのほど近く。首都の風景にはそぐわない、異様な構造物がある。真っ黒に塗られたサーカスの大天幕。ハンサムキャブが停まったのは、その入り口の前だった。

 アマリリは天幕を見上げる。闇色の防水布は、よく見るとかなりくたびれて、汚れている。天幕はもう、ずっと前からここにあるに違いない。

 道中聞いたところによれば、チョウがカクマに紹介したのは賭場警備の仕事だと言う。天幕の中からは確かに、他とは違うギラギラした気配が漂ってきていた。

「ここですね」

「そうだ。……本当についてくるつもりなのか?」

「ええ。私の学費のことですから」

「あ、失敬。君に言ったんじゃないんだ。僕が声をかけたのはこいつだよ」

 カクマは馬車へ顎をしゃくった。ハンサムキャブには、まだ乗客が残っている。ミツフジ・ハルキだ。

「やめといた方がいいんじゃないか。また文無しになるぞ」

「ははは。人聞きが悪いね、覚馬」

 馬車に酔ったらしい。ミツフジは青い顔で笑った。

「ちゃんと私も学習してるんだよ? もう昔みたいに無茶な賭け方はしない」

「……それならいいんだがな。昔も同じことを聞いた気がする」

 門番に声をかけたカクマが、チョウの名を告げる。アマリリたちは、あっという間に特等席に通された。

 天幕の中は鉄火場だった。ぐるりと設えられたアリーナ席を、無数の観客が埋めている。外の寒さが嘘のような熱気が渦巻き、汗ばんですらくるようだ。アリーナが見下ろすリングでは、上裸の男が二人、脇目も振らずに殴り合っている。

「賭けボクシングか」

「……あれは何ですか?」

 天井から吊り下げられた掲示板では、目まぐるしく数字が変動している。駅で見かけたような、蒸気圧式の変動掲示板だ。

「オッズ表--払戻倍率の一覧表だろう。例えば今、ジェンキンスの勝ちに賭ければ、三倍になって戻ってくるわけだ」

「三倍ですか!?」

「ジェンキンスが勝てばね。あいつが負ければ丸損だよ。見たところ、今日はチャンピオンとのマッチアップらしいな」

 リングの奥では、次の試合に挑むらしいボクサーが待機している。

「あ、ああ」

 不意にミツフジがぶるぶる震えた。

「ああ、あ!」

「くそっ、いつもの発作か! ちっとも治ってないじゃないか! 君、ちょっと離れて待っててくれ!」

 カクマがミツフジを羽交い締めにする。

「止めないでくれ、覚馬! 頼むよ、私は賭けたいんだ!」

「おい、暴れるなよ。もう昔みたいな賭け方はしないんだろ……あっ、待て!」

 呆れるほどの勢いで、ミツフジがカクマを振り払う。

「お、追いますか!?」

「そうしないと仕方ない。行くぞ!」

 言いながら、カクマは走り出している。聞こえてきたのは、ドップラー効果で歪んだ声だった。

 人混みを押し除けながら、アマリリもミツフジを追った。家庭教師は、体操選手顔負けの速さで逃げていく。だがミツフジには券売所というゴールがある。かけっこで負けた二人の鬼は、券売所でミツフジを捕まえた。

「離せーっ! 私はジェンキンスに賭けるんだーっ!」

「落ち着いてください、ミツフジさん!」

「くそっ、こいつ……」

 カクマの表情が険しさを増す。その時、誰かが彼の肩を掴んだ。

「代われ、下手くそ」

 巨大な手のひらがミツフジを取り押さえる。尚もじたばたしていたミツフジだったが、自分を押さえている男を認めると、途端に平静を取り戻した。

「ああ、ヴィンセント。君か」

「おう、久しいな。ギャンブル中毒は相変わらずか? 悪いことは言わねえ、ジェンキンスを買うのはやめときな。大損こくだけだぜ」

「わかった」

「それから、ここでは紳士的にな。貴族の皆様方もいらしてる、上品な場なんだ。特等席を叩き出されたくなければ、お行儀良く振る舞ってくれ。貴族のガキを任されてる時みたいにな。できるだろ?」

「できる。できるよ!」

「ようし。次はお前の首を捻じ切るからな」

 ミツフジがガクガクうなずく。男は投げ出すようにしてミツフジを解放した。ミツフジはそのまま後退り、風のように立ち去る。

「……悪いな、ヴィンセント。助かったよ」

「カクマ」

 固太りの巨漢が白い歯を見せる。

「お前は手ぬるいんだ。だからいつまでも舐められる。あいつみたいなクズは学習しねえんだよ。イカれた時には、その都度わからせてやらなきゃいけねえ」

「肝に銘じるよ。……君は、ここで働いてるのか?」

「おう、そうとも。用心棒ってヤツだな。こんなところでお前と会うとは、思っても見なかったが……そっちのお嬢ちゃんは、新しいガールフレンドかい」

「いや。前に話さなかったかな、彼女はニコラスの娘さんだよ」

「へえ!」

 男が目を丸くした。

「それじゃ、この子が学園へ行きたがってるっていう。首都に連れてきてやったのか」

「ま、色々あってな」

「また聞かせろよ。……ヴィンセント・トラボルタだ。会えて嬉しいぜ、お嬢ちゃん」

「アマリリ・カラーです」

 アマリリは握手に応じた。

「親父さんにはずいぶん世話になった。俺もカクマもな。……彼がここにいないのが残念だよ。あんまり良い遊び場じゃねえが、楽しんで行ってくれ」

「ありがとうございます」

 ヴィンセントはニッコリ笑って、カクマに向き直った。

「それで? お前の方は何を企んでる?」

「企んでない。ただ、ちょっと金が入り用でね。張さんに相談したら、ここを紹介された。仕事の口があるってさ」

「すると、用心棒志望か? 悪いことは言わねえ、やめた方がいいぜ。ここの元締めは北方マフィアの連中だ。一度始めたらなかなか足抜けできねえ。金が要るなら、トトカルチョに参加しろよ。チャンプに賭け続けるんだ」

「よっぽど強いらしいな。オッズを見てると」

「ああ。退屈なくらいにな。初戦から十五連続負けなし。こいつに賭け続けりゃ、生活費くらいはすぐに稼げる」

 言いながら、ヴィンセントは煙草を咥えた。

「タネ銭がないなら貸し出しがあるぜ。どうだ?」

「営業か? 勘弁しろよ」

 カクマが白い歯をこぼす。

「それに、一倍そこそこの賭けに勝ったって仕方ないんだ。必要なのは、ちょっとやそっとの金じゃないんだから」

「いくら要る」

「三十万ポンド以上」

「そいつは¬--」

 一瞬絶句したヴィンセントは、やがて訳知り顔で唇の端を歪めた。

「なるほど、そうか。考えてみれば当然だな。一兵卒の慰労金で学費が賄えるはずもねえ。しかしお前、ちょっと酷なんじゃねえのか? 金のアテもねえのに、連れてくるだけ連れて来られて、お嬢ちゃんも困ってるだろう。なあ?」

「いえ」

 アマリリの答えは決まっていた。

「学園に行きたいと言ったのは私ですから。困っているのは確かですが」

「ハハ、そうか。だがよ、聞いたか? 三十万ポンドってのは大金だぜ。庶民がまともにやって稼げる額じゃねえな」

「それは……」

 アマリリは言葉に詰まる。対照的に、カクマは白い歯を見せた。

「心当たりがあるらしいな。まともじゃないやり方に」

「まあな。聞かせてやろうか? 相手がお前だから教えるんだぜ」

 ヴィンセントが手招きする。アマリリとカクマは耳を寄せた。

「明日の試合に、八百長の計画があるんだが……」

 ヴィンセントの説明によればこうであった。

 明日の最終試合、チャンピオンとバックリーの一戦では、八百長が予定されている。ブッチは既に買収されており、五ラウンド目で倒れることになっている。そこに全額ベットすれば、確実に勝てるはずだ。

 単純な勝敗予想のオッズは一倍そこそこ。だが決着ラウンドまで予想すれば、五倍前後までオッズは上がる。一ヶ月から二ヶ月に一度、この賭場ではそうした「確実な試合」が発生するのだという。

「わかりませんね。どうしてそんなことをするんですか?」

「シッ。声が高いぞ、お嬢ちゃん。……バックリーってのは、うちで一番弱いボクサーだ。チャンプとやるのは初めてじゃねえが、ちょいと実力差がありすぎてな。オッズがとんでもないことになっちまってる」

「らしいね。ブッチ勝利時の払い戻し率は千倍を軽く越えてる」

「よく知ってるな、その通りだ。まかり間違ってブッチが勝てば、払い戻しはとてつもない額になる。だが胴元は絶対にそんな大金を支払いたくない」

「だから八百長を? ……やっぱり、わかりません。実力が違うからオッズに差が出たんでしょ。わざわざ工作しなくても、チャンピオンが勝つんじゃないですか?」

 左右非対称に表情を歪めて、ヴィンセントは笑った。

「そいつは違うな、お嬢ちゃん。よーいドンでまともに勝負を始める以上、どっちが必ず勝つなんてことはありえねえ。肝の小さい胴元は、そこを百パーにしてえのよ。オッズがでかくなりすぎた時には、こうして調整を入れるんだ」

「それが無敗神話の正体ですか。……なるほど」

 アマリリはうなずく。カクマが鼻を鳴らした。

「くだらんな。所詮はマフィアの興業か」

「ま、気持ちはわかるぜ。だが、悪い話じゃねえだろう? タネ銭次第だが、当座の資金は十二分に稼げる。この程度のオッズなら、誰に睨まれることもねえ。胴元もニコニコ現金払いで、お前ら二人もハッピーじゃねえか」

 ヴィンセントがカクマの肩をさする。

「賢く行こうぜ、カクマ。八方丸く収めて、みんなで幸せになろうや」


    ◆


「どう思いましたか。さっきの話」

「なんとも判断できない。八百長があると言ってるのは、ヴィンセントだけだし」

「でも、他の人たちに確認して回るわけにもいきませんよ」

「フッ」

 八百長について聞き回っているところを想像したらしい。カクマが小さく吹き出した。

「ちょっと面白いな、それ」

「真剣な話をしてるんですよ」

「そうだな、申し訳ない。ま、聞き込み以外にも方法はあるよ。決めるのはもう少し調べてからでも--」

 ぐるぐる。アマリリの鳴らした腹の虫が、カクマの言葉を遮った。

「いや、昼飯を食べてからでも遅くない。試合までには、まだ時間があるしね」

「……すいません」

「いいよ。忘れてたのは僕だし」

 カクマは席に戻らず、そのまま天幕の反対側へ出た。アマリリが最初に入ったのは裏口だったらしい。天幕の面した通りには、賑やかな屋台が並んでいた。賭場で使える安物の双眼鏡や雑多な土産物。一番多いのは食べ物の屋台である。

 煮出しのコーヒー・紅茶、巻貝の塩茹で、牛肉と野菜の茹で団子ダンプリング。賭場の客向けの軽食がさまざまに商われている。

 焼きジャガイモと鱈のフライを買い求め、アマリリは道端のベンチに腰かけた。乗合馬車の停留所に設置されたものだ。ジャガイモが冷めるのをカップを二つ持ったカクマが戻ってくる。

「コーヒーですか。……あの」

「言いたいことはわかる。私が頼んだのは紅茶だって言うんだろ」

「覚えてたのに、コーヒーにしたんですか?」

「ポッドの中におが屑が浮いてたもんで。あれは相当水増ししてるな。コーヒーの方はまだマシだ。悪いがこっちで我慢してくれ」

 恐る恐る啜ったコーヒーは、列車で飲んだものとはかなり違っていた。妙なとろみがあるし、かすかに焦げ付くような甘みがある。

「これ、本当にマシなんですか?」

「食べられないものは入ってない。粉っぽいのは煮出してるせいだよ」

「味は?」

「あ、気づいたか。コーヒー豆にチコリが混ぜてあるらしい。微妙に甘いのはそのせいじゃないかな。毒じゃないから安心していいよ。でも、一人で屋台に入る時は気をつけろ」

「毒が入ってることがあるんですか?」

 アマリリは冗談めかして訊ねたが、カクマは真剣にうなずいた。

「紅茶の色を出すのに染料を混ぜたりとか、フライの衣に石灰を入れたりとか。屋台の飯じゃないが、人骨粉入りのパンを売ってたヤツもいたらしい」

「えっ」

 焼きジャガイモとフライを見つめ、アマリリはもう一度カクマを見た。

「ええ……?」

 カクマはからからと笑った。

「ここのは大丈夫だよ。マフィアが目を光らせてるみたいだから」

「でも、おが屑紅茶はあったじゃないですか」

「おが屑くらいなら影響は少ないと思ったんだろう。その内、もっと良い屋台が出れば淘汰されると思うよ」

「そうかもしれませんが……」

 言い淀んだアマリリは、また芋とフライを交互に見つめ--結局は空腹に負けた。ほくほくの芋と脂っこい鱈を交互にかじり、最後はまとめてコーヒーで押し流す。

 アマリリが食事を終える頃、カクマもコーヒーを飲み干した。

「コーヒーカップは僕にくれ。屋台に返してくるよ」

「いえ、私も行きます。おが屑紅茶を思いついた人の顔を拝んでいかないと」

「……ま、いいけど。食ってかかったりするなよ」

 カップを手に屋台通りを進む。路地の一つを通り過ぎかけた時、アマリリは何かが壊れる音を聞きつけた。見ると、暗がりの中で何かに群がる者たちがいる。手に手に棍棒を握った彼らは、足元の何かを夢中で殴りつけていた。

 ……私刑だ。襤褸屑のように倒れているのは、初老の男である。

 アマリリは行き過ぎようとする。関わり合いになるのは、得策ではなかった。

 だが、その時。

「……助けてくれ」

 かすかな命乞いが、少女の耳に届く。

「カクマさん」

 気づくと、アマリリはカクマを呼び止めていた。

「どうした?」

「あの、あれ」

「ああ、あれか」

 路地裏を覗いたカクマが眼を細める。

「『あれか』じゃないですよ! 助けに行きましょう。このまま放っておいたら、あの人殺されちゃいますよ」

 カップを地面に置く。アマリリは猟銃を肩から下ろした。言われた通り携帯している銃には、今もフル装填されている。

「カクマさんも手伝ってください。それとも、やる気がありませんか」

「それは……いや、そうだな。君が正しい」

 アマリリが置いたカップの隣に、もう一つカップが並んだ。

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