第12話

 昼前の首都には、薄い霧がかかっていた。湿った空気の中には、すえたような臭いが含まれている。石炭の焦げる匂いと、草食動物に特有の体臭。そこら中で炊かれる蒸気缶と、馬車に使われる馬がもとだろう。

 その霧と空気を突き抜けるようにして、一台のハンサムキャブ(一頭立ての二輪馬車)が走っていた。乗客はアマリリとカクマの二人だけ。アマリリは座席に身を沈め、首都の街並みを見回している。

 アスファルトで舗装された広い道。規則正しく並んだガス灯の列。煉瓦とモルタルで作られた堅牢で合理的な建築の群れ。

 馬車の前方にはオムニバス(二頭立ての乗合馬車)の影。後方には恨めしげに速度をおとすの姿がある。歩道には信じられないほどの人出……。アマリリは全ての中心で、首都の風景に溶け込んでいた。

 アマリリは体が痺れるようだった。行商人や旅人、書籍の言葉から伝え聞き、先ほどはホテルの窓から見下ろしていたあの街並みの中に、今の彼女はいるのだ。

 それにしても--。

「今日は、何かあるんでしょうか」

「何かというと?」

「やたらとお洒落してる人がいるじゃないですか。だからお祭りでもあるのかな、と思って」

「お洒落?」

 ハンサムキャブが大きく揺れた。カクマが通りを一瞥する。

「今日は普通の平日だよ。首都ではこれが普通なんだ」

「なら、あれが普段着なんですか? それは変ですよ」

 アマリリは一人の女性を示した。

「見てください、あの人のスカート。後ろの部分が膨らんでますよね。あれは仮装の類じゃないんですか?」

「あれが今の流行りなんだよ。バッスルと言って……膨らみの分、腰が細く見えるだろう。それがいいらしいんだな」

「何がいいんですか?」

「それはわからない。僕も詳しくないから」

「あれではまともに走れませんね。足元も細すぎるし」

「運動する時は、別の服に着替えるんじゃないかな」

 詳しくない同士で話し合っていると、馬車が不意に日陰へ入った。空を見上げると、飛行船が通過していくところだった。

「首都の空は騒がしいですね。オーニソプターも多いし」

「空にはまだ、なんの規制もないからな。軍隊と貴族が遊び場に使ってるんだよ。その内法律ができて、もう少し静かになるさ」

「そうなんですか?」

「新聞に事故の話が載ってたろ? オーニソプターと飛行船がぶつかったって……被害者が団体を作って動き出してるらしい。早ければ二、三ヶ月でこの景色も見納めかもな」

「はあ〜……」

 感心半分呆然半分、アマリリは空を見上げてため息を吐いた。

「首都の時間はすごい早さですね。昨日のことがもう新聞に載るし、風景も変わるかもしれないし。二、三ヶ月後といったら、私は試験直前ですよ」

「確かに。そう言われると、本当にすぐの話だな」

「事前に、もう少し聞いておきたいんですが……家庭教師の方は、どんな人なんですか?」

「一言で言うと、困ったヤツだ」

「……大丈夫なんですか、その人は」

「家庭教師の腕は確かなはずだ。ただ、ちょっと」

 そこで言葉を切り、カクマは顎に手を当てる。男が考える時の仕草だと、アマリリにもわかってきていた。

「ちょっと……?」

「いや、やっぱり大丈夫だ。ヤツも流石に、生徒にたかるほどじゃないだろう。家庭教師としての腕は、本当に確かなはずなんだ」

「たかるというと、お金ですか」

「そうだ。奴さんには博打癖があってね。万年金欠でヒーヒー言っている」

 ここまで聞いた中に、安心できる要素はない。アマリリは眉をひそめた。

「本当に大丈夫なんですか。そんな人に頼んで……返って足元を見られるんじゃ」

「いや。料金の心配はほとんどない。ヤツは無料で引き受けるよ」

「どうしてそう言い切れるんです。相手は万年金欠なんでしょう?」

「大丈夫だよ。なんと言っても、僕は--」

 カクマが言いかけた時、ハンサムキャブが停まった。

 ぶしゅう。馬車の下部から圧搾空気が吐き出される。車室がゆっくりと降下して、階段なしでも乗り降りできるようになった。

 目的地に到着したのだ。

「行こう」

 カクマに連れられて馬車を降りる。目の前にあるのは、三階建てのモルタル建築だった。

「お友達はここに? ずいぶん大きな家に住んでらっしゃるんですね」

「ただの共同住宅だよ。一人で使ってるわけじゃない」

 建物の中はあまり清潔とは言えない。アマリリはカクマに続いて、ほこりっぽい階段を上がった。三階建て以上の建物に入るのは、生まれて初めてのことである。

 その内に共同住宅の意味もわかってきた。いくつかある部屋の中には、それぞれに家庭の気配がある。大きな建物をいくつかに分けて、文字通り共同で使っているのだろう。

 最上階まで上がると、カクマは角の部屋をノックした。

 ……誰も出てこない。

「おかしいな」

 カクマはもう一度ノックする。やはり、誰も出てくる気配はない。

「部屋はここで合ってるんですか?」

「そのはずだ。……おーい、光藤ミツフジ!」

 カクマが声を張りあげる。

光藤晴樹ミツフジ・ハルキ! 僕だ、覚馬カクマだ。いないのか?」

 三度のノック。今度は、部屋の中で誰かが動く気配があった。それから、何かをひっくり返したような目まぐるしい音。さらにややあって、ようやく扉が開いた。

「やあ」

 顔を出したのは、色の白い男だった。指紋のついた眼鏡をかけて、細い髪をいい加減になでつけている。何かに怯えたような視線が、アマリリの保護者に向けられていた。

「きみか、覚馬。何しに来たんだい」

「まずは部屋に入れろ。説明するから」

 答えを待たずに、カクマは上がり込んでいた。ブーツの底が床をどかどか鳴らす。

 ミツフジの部屋は、驚くほどに狭かった。その部屋の中に、ダイニングと書斎と寝室の要素が強引に詰め込まれている。廊下と同じにほこりっぽい空気には、むっとするような他人の臭いが染み付いていた。

「返せる金ならないよ……悪いけど」

「お前に金があるとは思ってない。窓、開けるぞ」

「やめてよ。外の臭いが入ってくる」

「今よりはマシだ」

 言うなり、カクマは一つしかない窓を開けてしまった。ミツフジががっくりと項垂れる。

「ああ……もう、何しに来たんだよ。私をいじめに来たのか? この子のことは、いつになったら説明してくれるんだ」

「この程度のことでピーピー言うな、面倒臭い。客が来たんだ、茶の一杯でも出せよ。アマリリ、君はそこの椅子に座ってくれ」

「それは私の……」

「うるさい。この部屋でマシな居場所を探そうとしたら、そこしかないんだよ。文句があるなら次回までにちゃんと掃除しとくんだな。ハックション!」

 カクマのくしゃみが、さらにほこりを巻き上げる。アマリリは猟銃を握りしめた。

「あの……私は立ったままでも大丈夫ですから」

「ほら。覚馬、聞こえたかい? 本人がこう言ってるんだよ、わざわざ私の椅子を使わなくったって」

「わかったわかった。ニコラスの娘を立たせておきたいなら、そうすればいい。アマリリ、こいつが家庭教師の光藤だ。挨拶してやってくれ」

「あ、はい」

 少女は勢いよく頭を下げた。

「アマリリ・カラーです。初めまして」

「カラー。……ニコラスの娘さんだって?」

「はい。ミツフジさんも、父をご存知なんですか」

「うん、よく知ってるよ。言われてみれば、確かに彼の面影があるなあ。……まあ、こっちに来て座りたまえよ」

 言われるままにアマリリは座った。椅子の座面はごわごわしている。

「ニコラスから聞いてるよ。学園に行きたいんだって?」

「そうです」

「私に面倒を見ろと言うんだな」

「そうだ。見ろ」

 窓枠に寄りかかりながら、カクマが口を言った。

「期限は次の試験日。それまでに合格できるところまで持っていってくれ」

「次だって?」

 ミツフジがぎょっとする。

「それは無理だよ。もう三ヶ月もないじゃないか!」

「知ってるよ」

「……覚馬、きみは知らないだろうけどね、学園に入るのは本当に大変なんだよ。目指すだなら誰でもできるけど、試験に受かるのは簡単じゃないんだ」

「それも知っている」

「入学志望の生徒はいくらでもいるんだよ。でも、家庭教師をつけてしっかり勉強しても、大抵の子はものにならない。どんなに時間とお金をかけても、ほとんどが徒労に終わるんだ。私はもう嫌になってきちゃったよ」

「それは他の子の話ですよね」

 アマリリは耐えかねて、口を挟んだ。

「私が『大抵の子』と同じかは、まだわからないでしょ。ごちゃごちゃ言う前に、確かめてみてくれませんか」

「確かめる?」

「試してください。私に素質があるのかどうか」

「……まあ、それくらいはしてもいいけどね。使う課目は決まってるのかい?」

「とりあえずは論述。あとは実技です」

「ふん。実技ね」

 ミツフジが鼻を鳴らす。カクマは小銃の先で男を突いた。

「いいからやれ。論述の模試を準備するんだ」

「わかった、わかったよ! やるからにはきちんとやろう。今から準備するから、しばらく外で待っててよ」

 追い出されるようにして、アマリリとカクマは廊下へ出た。部屋の中からは書類の山をひっくり返すがさがさした音が聞こえてきている。

「どうだい、家庭教師の感想は」

 カクマが訊ねてくる。アマリリは正直に答えた。

「早くも嫌いになってきました」

「だろうな。あいつも悪いヤツじゃないんだが……試験の結果でわからせてやれ」


 十数分後。アマリリは自身の論述に最後のピリオドを打った。解答用紙を上から下まで見直してから、おもむろにペンを置く。

「できました」

「……もうできたの? 本当に?」

 甲高い声でミツフジが確かめてくる。アマリリはもう一度うなずいた。

「できました」

「ふーん。じゃあ、見せてもらおうかな」

「お願いします」

 それからミツフジが論述に目を通す間、アマリリは黙って座っていた。窓際で船を漕いでいたカクマが目を開ける。

「あ、終わったのか。どうだった?」

「今、私がみているところだよ。静かにしてくれないかな」

「ああ、失礼」

 ミツフジの眉間に、浅い皺が寄った。さらに数分が経過する。また、カクマが訊ねた。

「今、どんな感じ?」

「読んでる途中だよ、うるさいな。……今のところ、悪くはなさそうだけど」

 何かを疑うように、ミツフジはアマリリを見下ろした。

「アマリリくんと言ったね。ここまでは独学でやってきたの?」

「そうです」

「本当に? 専門家に教わったことはないの?」

「ありません。強いて言えば、父と母に見てもらってたくらいで」

「ふーん、そうか……」

 膝丈のテーブルに腰を下ろし、ミツフジは解答を見下ろした。

「どうだ?」

「論述だけなら、今から試験を受けても行けそうかな。これだけ書ければ、誰にも文句は言えないよ。実技の方は……」

「射撃を使う予定です」

「うん、そうだろうね。カクマ、この子の腕はどんなもんだった?」

「ピカイチだ。心配ない」

「君が言うなら、そっちもオーケーか。とすると、問題は残りの一教科だね。できれば数理学、幾何学、解剖学あたりから選びたいところだけど、三ヶ月しかないからなあ。……まあ、少し考えてみよう」

「と、いうことは」

 ミツフジはうなずいた。

「十分見込みはありそうだ。君の試験勉強は、私が面倒を見ることにするよ」

「ありがとうございます。よろしくお願いします!」

「うん、よろしく。そうと決まれば、早速授業料の交渉に移ろうか。一応、私は月毎でお金をもらうようにしていて--」

「そこが問題なんだが」

 大きな声で割り込んだのは、カクマだった。

「僕たちには現状、支払える金がない」

「金がない?」

 ミツフジが口許を歪ませる。

「待ってよ。だって--ニコラスの慰労金があるんじゃないの? まさか、首都に来るまでに使い切っちゃったのかい?」

「使うわけないだろ。慰労金は、学園の入学金に充てる予定だ」

「そのレベルで金がないのに首都にきちゃったのか? いいかい、本当に金がかかるのは、入学した後なんだよ!」

「重々承知している。だからお前に相談したいんだ。何か上手い策はないかな」

「策だって? そんなに都合の良い話があれば、私は今頃、もっとマシなところに住んでるはずだよ!」

「光藤、これはお前の話じゃないんだ」

 窓際のカクマが指を組んだ。

「兵隊上がりの家庭教師がギャンブル代を稼ぐ方法じゃなくて、彼女が学費を賄う方法があればいい。学園の生徒も、全員が大金持ちってわけじゃないだろう。金がないヤツはどうしてるんだ?」

「そんなヤツはいないよ。基本的に、学園に入れるのは金持ちだけだ」

「学園の生徒には、衆民上がりもいると聞いたが」

「衆民にも金持ちはいるよ。大成功した資産家とか、軍人とか……貴族が見込みのある子を養子にとって、学園に行かせる話も聞くけど、そういうのは本当に子供の頃から始めるものだし」

「奨学金が、この世界にもあるんじゃないのか」

「あるけど、それにも貴族のコネがいるよ。それか、有力な政治家とか。どっちにしても、昨日今日田舎から出てきた子がもらえるようなものじゃないって」

 カクマが顎に手を当てる。

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