第9話
カクマ・カタヒラが目を覚ますと、コンパートメントには誰もいなかった。時刻は既に十時半を過ぎている。朝食には遅いが、昼食には早い時間だ。完全に寝過ごしてしまっている。かすかな罪悪感が、カクマの心を包んだ。
……だが、それがなんだと言うのか?
眠くなれば眠り、起きたくなれば起きる。生物としては、よほど正常な生活だ。起床から就寝まで、何もかも管理されていた兵士時代の方がおかしい。
カクマは太々しくも座席に寝そべった。二度寝の態勢である。
腕を枕にして浅い眠りに落ちるまでは、わずかに数秒。入眠の早さは、戦場にいた頃の名残だった。一度前線に出てしまえば、ゆっくり寝るなんて思いもよらないことである。一分一秒余裕があれば、そこで睡眠時間を確保しなければならない。
閉じたまぶたの闇の中。カクマはいつも、塹壕にいる夢を見る。
『娘がいるんだ、一人な』
手のひらよりも小さな紙片。ニコラスがことあるごとに取り出す写真だ。
『こいつが肝をつぶすほど賢くてね。まだ十一だってのに、
話し続けるニコラスの表情は、どろどろに溶け始めている。男は小銃に寄りかかるようにして前にのめり、やがて塹壕の底に崩れ落ちた。抉れた背中の向こう側に、肺が見えてしまっている。どう見ても致命傷だった。
敵陣から撃ち込まれた砲弾。直撃すると感じたのは同時だったはずだ。だが、動いたのはニコラスの方が早かった。気づいた時には、カクマは投げ飛ばされており――一瞬後に、ニコラスは背中から爆風を浴びた。
「どうして」
カクマはニコラスに駆け寄った。着弾地点からはわずかに数メートル。
「どうして、こんなことを!」
不要なことだと理解していたはずだ。ニコラスの表情には、かすかな戸惑いの色が浮かんでいる。男の唇がわずかに動いた。
『無事か』
「当たり前でしょうが! 何やってるんですか、もうすぐで戦争も終わるって時に!」
塹壕全体が騒がしくなっている。直撃弾を受けた壕が他にもあったらしい。
「誰か担架を! 怪我人が出た!」
カクマは声を張り上げる。周囲にはいくらでも兵士がいるはずなのに、誰一人として駆けつける者はない。ニコラスが狙撃兵だからか。いや、それにしては――。
響き始めた銃声が、カクマの思考をどよもす。塹壕のそこここに設置された機関銃が火を吹き始めていた。……敵の突撃がくる。
『娘を』
ニコラスがカクマの腕を掴んだ。ものすごい力だった。
『アマリリを、首都に』
「わかりました。娘さんを、首都に」
『学園に。私の、金を……』
「任せてください」
カクマは小銃を手に取った。これ以上ニコラスに構っている余裕は、あまりなかった。陣地を守る必要がある。戦友を足元に打ち捨て、カクマは塹壕から敵を撃った。撃ち続けた。
驚くべきことに、戦闘が終わってもニコラス・カラーは生きていた。野戦病院に運ばれてから絶命までは半日以上かかり、その間意識は明瞭だった。
最後にニコラスを見舞った時のことを、今でも――。
「!」
ピシャリと冷水を浴びたような感覚。カクマは反射的に身を起こした。
目を閉じてから、十五分が経過している。アマリリはまだ戻ってきていなかった。わずかに十五分。大騒ぎするような時間ではない。だが、なんとなく胸騒ぎがした。
(考え過ぎか? いや……)
不自然な目覚め。カクマの経験上、それは猛烈な合戦の前触れだ。ゼファリッジでもドンナータールでも、こうした目覚めが続いた直後に凄まじい戦闘があった。大規模な攻勢を受け、いくつかの陣地を放棄し、逆襲をかけた自軍がわずかに戦線を押し込んだ。
カクマは廊下へ出た。個室の中に、人間の気配は少ない。食事……いや。食感にお茶の提供があったはずだ。この時間でも、客は食堂車に集まっているのか。最後に小銃を確かめ、男は後ろへ向けて歩みを進める。
(お茶会中なら問題ないが……)
まかり間違って三等客車にでも入っていれば、かなりまずいことになる。カクマは足早に廊下を進み、二等客車の最後尾までやってきた。三等客車へ繋がる通路は、堅牢な錠前で塞がれている。
「お客様」
鍵を確かめるカクマを、詰め所の車掌が咎めた。
「どうかなされましたか。三等への移乗をご希望で?」
「違う。妹の姿が見えなくてね。万に一つ、三等に入っていたらと思って。この扉は、ずっと施錠されてるんだよね」
「そうです。よほどのことがない限り、鍵はかけたままです。こちらから三等客車へは行けませんし、逆も然りですよ。妹様は二等客車の中でしょう。食堂車はご覧になりましたか?」
「いや。まだなんだ」
車掌は肩をすくめた。
「では、そちらをお先に訊ねてみては? ずいぶん賑わっているようですよ。高名な占い師の方がご乗車されていたようで。食堂車でどなたでも占っていただけるんです」
「占い? アンバーウッドの占い師か」
「ご存知でしたか。南部では有名な方のようで。正直、私も半信半疑でしたが……どうしても見つからないようでしたら、妹様の行方も占っていただいてはどうですか」
「ありがとう。考えておくよ」
無論、最初からそんなものに頼る気はない。カクマは踵を返した。ヒリヒリするような不安感が足元から這い上がってくる。
二等客車ならば危険は少ないと、完全に高を括っていた。ニコラスの娘からは、片時も目を離すべきではなかったのだ。三等との行き来ができなくとも、アマリリが二等客車に残っているとは限らない。
最悪の場合――本当に最悪の場合、アマリリが既に殺されている可能性もある。窓から捨てられてしまえば、少女と再会するのはほとんど不可能だろう。
カクマの背筋を冷や汗が流れた。
(いや、落ち着け)
かぶりを振って、最悪の妄想を打ち切る。カクマは踵を返し、食堂車へ向かいかけた。
その時である。
「……?」
妙な気配に、カクマは足を止めた。付近のコンパートメントで、何か大きな生き物が動いている。かすかな衣擦れと、のたうつような動き。人間大の芋虫がいれば、こうした存在感を放つだろう。
カクマは壁に耳を当てる。コンパートメントを特定するのは簡単だった。客車の最後尾、最も三等客車に近い区画だ。
「ひとつ、聞きたいんだが。ここに泊まってるのは、どんな客だった?」
「……そこのお客様に、何か御用でしょうか」
「重要なことなんだ。今すぐ教えてくれ」
カクマは肩のストラップを摘んで、小銃を見せびらかした。効果はてきめん。流石に顔には出さないものの、車掌は明らかにたじろいだ。
「先ほどお話しした、占い師のご兄妹ですが――あっ、駄目ですよ!」
車掌の返答を聞くなり、カクマは扉を開けていた。引き千切れた錠前が宙を舞う。
扉の向こうは、なんの変哲もない二等客室だった。座席兼用の寝台と、ガラスのはまった大きな車窓。座席上には、堅牢な作りの荷物棚がついている。その棚に、異様な荷物が押し込まれていた。
一見、革製の旅行鞄。何が入っているのか、もぞもぞと動き続けている。
「あんた、一体何を……」
続いて飛び込んできた車掌も、すぐに気がついたらしい。
「手伝ってくれ。たぶん、中に妹が入ってる」
カクマは車掌に顎をしゃくった。
◆
分厚い革の向こうから、くぐもった声が聞こえる。宙に浮くような感覚と、地面への着地。鞄が開いて、光が差し込んできた。
アマリリは目を眇める。人影が二つ、少女のことを見下ろしていた。逆光のせいで、顔はよくわからない。それでも片方はカクマだとわかった。
「ここにいたか。……もう少し待ってろ」
後頭部でぶつりとした感覚。カクマのナイフが猿轡を切断した。
「おえ……」
口中に詰め込まれていたハンカチを吐き出し、少女は荒い息を吐く。手足の拘束がほとんど同時に解かれ、アマリリは数時間ぶりに自由を取り戻した。
「怪我はないか。痛むところは」
「ありません」と答えようとしたが、喉から出たのは咳だけだった。アマリリは咳き込みながら首を振る。横から、金属のマグカップが差し出された。車掌である。
「水を飲んで」
アマリリはカップの中身をがぶ飲みする。ハンカチに吸われていた水分が戻ってきた。
「ここへ座れ。朝飯はちゃんと食べたか?」
「まだです」
「そうか。ちょっと待て、確か……」
カクマは平べったい缶を引っ張り出した。軍用チョコレートの容器である。
「とりあえずこれで我慢してくれ。昼飯は四人前食べさせてやる」
「豪気ですね、それは」
アマリリはチョコレートを齧った。鈍い甘みが口中に広がり、全身にエネルギーが供給されていく。鈍っていた思考が活性化して、少しずつ現状が飲み込めてきた。
危ういところだった。――本当に。
「何があったか、聞かせてくれるか?」
「……わかりました」
アマリリは一部始終を離した。明け方の外出。占い師兄妹との遭遇。危うく殺されかかったところを、ロレインに助けられたこと。
話を聞くカクマの表情は、見る見る内に険しくなっていった。
「それから、ずっとここにいたのか」
「そうです」
「大変な目にあったな。とにかく、無事で良かった」
カクマが車掌を振り向く。
「あんたも聞いたな。食堂車にいる占い師の二人組だ、今すぐしょっぴいてくれ」
「……
車掌は難色を示した。
「何か問題が? ここの車掌は、警察官も兼ねてるんだろう」
「警察権を認められているのは専務車掌だけです。いえ、私がその専務車掌なのですが……問題はそこではありません。占い師のお二方は一等乗客のお気に入りなんですよ」
「関係ないだろう。妹は誘拐されてるんだ」
「私は警官である前に車掌です。お客様相手に強く出ることは難しい、本当の意味ではね。……現行犯を押さえられていれば良かったのですが」
カクマが立ち上がった。その身長は、車掌よりもいくらか低い。だが迫力は車掌のそれを遥かに凌いでいた。
「じゃあ、何か。妹の身柄を優先したのがまずかったとでも言うのか」
「まさか、そんなことは。ただ、扉をこじ開けたのはお客様ですし」
「何を悠長な――いや、もういい」
熱が籠りかけた会話を、カクマは一方的に打ち切った。踵を返した男を、アマリリは咄嗟に呼び止める。
「ちょちょ、ちょっと待ってください。カクマさん、どこへ行くつもりなんですか?」
「食堂車だよ。人の汽車旅に味噌を付けた連中をぎゃふんと言わせてやる」
「ミソ? あっ、ちょっと!」
知らない単語を確かめかけた時には、カクマは個室を飛び出していた。車掌は無言で帽子を整えている。これ以上頼れそうには見えなかった。
やむを得ない。アマリリはカクマを追って、自分も個室を飛び出した。
男に追いつくのは、難しくなかった。所詮、どこまで行っても列車は一本道である。アマリリは食堂車の直前で、カクマの背中を捉えた。
「なんだ、来たのか」
カクマが意外そうに言った。
「他に行き場もありませんから。どうするのかも気になりましたし。困りますか?」
「いや。見物は構わないんだが……ひと段落するまでは、顔は見せずにおいてくれ」
「ひと段落?」
「僕がひと暴れして、占い師がしょんぼりしたらだ」
言うなり、カクマは食堂車へと踏み込んでいた。アマリリは咄嗟に、扉の影に身を沈める。
昼食前の食堂車では、ロレインの占いが人気を博していた。アフタヌーンティーの時と同じだ。紫のローブに身を包んだ占い師が、もったいつけて手元を覗き込んでいる。傍らには、仁王立ちする客引きの男。彼らを囲むようにして、二等客車の老若男女が輪を作っていた。
「失礼。……失礼」
カクマは占い客の輪を割るようにして突き進む。最後に占い中の老婦人を押し除け、男は占い師を見下ろした。周囲の客たちが不満の声を上げる。客引きの男が腕を伸ばした。
「順番ですよ。お客さん」
「申し訳ないが緊急なんだ。今すぐ占ってくれ」
そこで初めて、占い師は相手がカクマだと気づいたようだ。水晶玉に向けて伏せられていた視線が上がって、下がる。
「一緒に乗っていた妹の姿が見えなくてね。その水晶玉で探してもらえないかな」
「妹だと? ……あんた、さては」
男の方もカクマの正体に気づいたらしい。だが、カクマが何をどこまで知っているのかを問いただすわけにもいかない。ことが明るみに出て困るのは他でもない男たちである。
「急いでるんだ。まかり間違って、三等客車にでも入り込んでたら」
「それはコトよ!」
大袈裟に震え上がって見せたのは、カクマに押し除けられたはずの老婦人だった。
「年頃の女の子があんなところに……考えただけでもゾッとするわ! 私はいいから、この軍人さんを占って差し上げて!」
「ありがとう。助かります」
カクマが婦人に頭を下げる。苦虫を噛み潰したような表情になったのは、占い師の兄妹である。ロレインは気が進まない様子で、水晶玉に手をかざした。
「……では」
「もう大丈夫よ、軍人さん」
老婦人がカクマの肩に触れる。
「この方はアンバーウッドの母といってね。ものすごい占い師なんだから。ひょっとすると、妹さんをここまで呼び寄せてくださるかもしれないわ」
「呼び寄せる?」
「ええ、そうなの。私のネックレスもね、客室のケースにしまっておいたはずのものが、ほら。念じる力でケースの扉も列車の壁も通り抜けて、ここまで飛んできたんですよ」
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