第8話

 カクマはそう言ったが、「はいそうですか」と納得できるものではない。個室に戻ったアマリリは、落ち着かない時間を過ごすことになった。史書を開いては見たものの、内容はほとんど頭に入ってこない。活字の上を視線が滑り、文章が耳から抜けていく。

 論述のレベル。実技試験の審議。学費が手に入らなかった時のこと。今は考えても仕方のないことばかりが頭に浮かぶ。撒かれた不安の種はたちまち芽を出し、方々に茎を伸ばして葉をつけ始めた。……何もかも失敗して首都の路地裏で野垂れ死ぬ確率は、決して低くないような気がする。

「はあ……」

 アマリリは顔を擦る。見通しが甘かったことを認めなければならなかった。

 村を出て首都に行きさえすれば、なんとかなると思っていたのだが。どうやらそれは最初の最初、遥かに遠い学園入学までの道のりの第一歩に過ぎなかったらしい。

「ダメだ」

 少女は自分の頬を張って立ち上がった。このままここにいても不安が募るばかりだ。

 ――気分を変える必要がある!

 向かいの席では、カクマが寝息も立てずに眠っている。アマリリは静かに扉を開くと、廊下を見回して車内販売を探した。ワゴンを押す乗務員の姿は、どこにも見当たらない。

「……」

 少女はしばし考えて、個室の外へ出ることにした。どうあれ、車内販売は列車の中にいるはずだ。前後の車両を探せば、案外簡単に出会えるかもしれない。音を立てないように扉を閉めると、アマリリは二日ぶりに一人になった。

 蒸気暖房と体温で暖かい室内とは打って変わって、列車の廊下は冷えている。些細ではあるが確かな環境の変化。保護者不在の単独行動に、そくそくと浮き立つような気分が湧き上がってきた。

 選択肢は二つ。一つは列車の進行方向、食堂車へ向かって進む道。もう一つは、列車の進行方向に逆らって、後部へ向かって進む道である。

「よし」

 少女はほとんど迷わずに後者を選んだ。ここよりも後ろの客車には行ったことがない。それにアマリリは、列車の進行方向に逆らって歩くのが好きだった。真逆に進みながら目的地へ近づく奇妙な体験は、列車以外ではあり得ない。

 扉を開け、幌のついた連結部分を通り抜ける。後部に続いているのは、変わり映えのしない二等客車だった。同じ長さの廊下と、そこに面した個室の扉。アマリリは突き当たりの扉を開けて、次の車両へ移動する。

 二等客車。車内販売の姿は見当たらない。アマリリはさらに後ろへ向かって進む。二等客車。二等客車。最後の二等客車だけは、少しだけ作りが違っていた。車両の一番後ろに、車掌の詰め所が置かれている。車掌の姿は見当たらないが……さらに後ろへ続く扉には、鍵がかかっていた。

 アマリリは目を細めて、扉の窓を覗いた。

 窓の向こうには、これまでの客車とは全く違う風景が広がっていた。最低限の内装と、泥で汚れた床。奥が見通せないほどにみっしりと詰め込まれた労働者たち。三等客車だった。

 乗客の一人が、不意に顔を上げる。アマリリと乗客の視線が、窓を挟んでかち合う。

「!」

 次の瞬間には、アマリリは顔を引っ込めていた。たった今、乗客の視線から感じたもの。それは少女に対する憎悪だった。

 アマリリは胸を押さえて後ずさる。同様の感情を向けられたことはある。大っぴらに銃を所持できるのは、村では狩師だけだった。集まる羨望に混じる憎悪を感じた経験は、片手では数えきれなかった。

 たった今の憎悪は、それとは全く違っている。村で浴びた憎しみには――だからと言って気分が良くなるわけではないが――アマリリにも理解できる原因があった。だが三等客車の乗客とアマリリとは、ほんの一瞬目が合っただけである。

 突然のことに驚いた心臓は、まだどきどきしている。少女は廊下の壁に背を預けた。

 近くの個室で扉が開く。出てきた女が、こちらを見ている気配がした。無関係の客がうろうろしているのを、不審がられているのかもしれない。

「あら……?」

 女が近づいてくる。アマリリは顔を伏せ、なんでもない風を装った。

「アマリリちゃんじゃない? もしかして」

 不意に、女は少女の名前を呼んだ。アマリリは思わず顔を上げる。見覚えのある顔が、彼女に笑いかけていた。

「ロレインさん……?」

 アンバーウッドの占い師だった。


    ◆


「それで、てられちゃったわけ。かわいいわね〜! 私にもそんな時期あったかしら」

「笑い事じゃないですよ」

 ロレインに伴われ、アマリリは食堂車まで引き上げてきていた。テーブルの反対側で指を組んだ占い師に、少女は口を尖らせる。

「なんだったんですか、あの人。あんな目で見られる理由、私にはないですよ」

「あら、あるわよ。アマリリちゃん、二等客車に乗ってるじゃない」

「……。えっ、それだけですか?」

「そうよ? 二等客車に乗ってるお金持ち。追い詰められてる時には、それだけで十分に憎たらしいもんなの。覚えておくといいわ」

 アマリリはこめかみに手を当てた。

「お金を持ってるのは私じゃないですよ。二等にいるのも、ただの行きがかりで」

「そんなこと、他人にはわからないわ。それに、運だって十分妬みの対象よ。私も小さい頃は、貴族の子供が全員憎かったことがあったわ。いいとこの家に生まれたってだけで、大きなお屋敷に住んでるんだから」

 女の言った「そんな時期」とやらは、三等客車の乗客の心情に寄りそったものだったらしい。

「アマリリちゃんには、まだわからないだろうけど……首都に上がる前に自覚したおいた方がいいかもね。貴女は恵まれた側の人間だってこと」

「そうなんでしょうか」

「ええ。ま、その内わかると思うわ」

 ロレインはティーカップを摘んだ。この時間の食堂車では、アフタヌーンティーが提供されている。テーブルに設置された銀のスタンドには、みっしりと茶菓子が乗せられている。占い師はそこから、スコーンを手に取った。

「アマリリちゃんもお一つどうぞ。甘味は心の栄養よ」

「……どうも」

「クロテッド・クリームをうんとつけてね。そうそう」

 ロレインに促されるまま茶菓子を口にする。未体験の刺激が、舌から脳へと突き抜けた。まったりした脂質と、爆発的な糖質のマリアージュ。一口飲み込んだだけで、すさまじいエネルギーが腹の中に落ちていく。

「すごいですね、これは」

「でしょう? そしたら、また紅茶を飲むの。口の中が渋くなって、またお菓子が食べられるようになるわ。私が思うに、甘と渋の繰り返しがアフタヌーンティーの肝なのね」

「なるほど……」

 アマリリはまた、こめかみに触れた。いきなり甘いものを口にしたせいか、頭の中に疼くような感覚がきている。頭痛の前触れだ。天候が悪化する前にも、似たような感覚を味わったことがある。

「そういえば、ロレインさんも二等客車なんですよね」

「ええ。何か気になる?」

「にしては、今日まで顔を見なかったので。アンバーウッドから乗られてたんですよね」

「ああ……気づかなくても無理ないわ。初日はずっと、一等に顔を出してたから」

 アマリリは首を傾げる。

「一等客車ですか? あそこって、二等と行き来はできないんじゃ」

「ま、基本はね。でも、一等のお客からお呼びがかかれば話は別。私の占いを知ってくれてる方がいてね。直々に声をかけてくださったの」

 ロレインはわずかに小鼻をふくらませた。

「披露したのは、水晶占いだったけどね。でも……お、来た来た」

 アマリリの背後で扉が開いた。二等客車の方から、ワゴンを押して現れた男がいる。昨晩宿屋で暴れていた、占い師の兄だった。ワゴンの上に載ったテーブルには、あの忌々しい水晶玉が鎮座している。

「車掌さんが、私の占いを気に入ってくれてね。食堂車での営業許可をもらえたの。アマリリちゃんも占ってあげましょうか。邪魔されちゃった昨日の続き」

「いえ、私は……」

「そ。元々乗り気じゃなかったものね」

 立ち上がったロレインに、彼女の兄がローブを着させる。アンバーウッドの街角で見たのと同じ、紫色のローブだ。長い裾を引きずりながら、ロレインは遠ざかっていく。

 ワゴンの男が食堂車の隅にテーブルを設置する。フードを被って腰かけた占い師は、全くアマリリの嫌いな神秘主義者そのものだった。

「さ、始めましょうか」

「はい、先生」

 客引きの男が、しかめ面でうなずく。遠巻きに見ていた客たちが顔を見合わせ、一人また一人と立ち上がった。

「もしかして、アンバーウッドの母ですか?」

「その通り。著名な呪術師にして未来視の達人。ロレイン・ハリントンその人です」

 占い師は黙って、兄の紹介に預かっている。アマリリは席を立った。疼くような頭痛の前触れは、はっきりと痛みに変わり始めている。

 糖質に脳を殴りつけられたようだった。少女はこめかみを抑えながら廊下を戻り、4431号室の扉を開ける。個室の中ではまだ、出て行った時と同じ姿勢のカクマが眠っていた。

 席に戻ったアマリリも、それに倣って目を閉じる。真っ黒な眠気が襲いかかってきた。アマリリ・カラーは、気絶同然に眠りに落ちた。


「う……」

 少女が次に目を覚ました時には、すっかり日は落ちていた。窓の外は煤を溶いたような闇である。この時はカクマが目を覚ましていた。限界まで絞ったランプの灯りで、男は活字を追っている。開かれているのは、名も知らぬ作家の詩集だった。

「起きたか」

「……なんとか。いま、何時ですか?」

「飯の時間なら終わったよ。食堂車は閉まってる。一応、晩飯は確保したんだが」

 カクマが紙袋を示した。油と泥炭ピートの香りがする。

「うなぎの燻製サンドイッチだそうだ。食うか」

「いえ。ありがたいんですが、今はちょっと」

 内臓がもったりするような満腹感は、まだ続いていた。数時間は眠ったはずなのに、眠気が脳にへばりついている。頭痛も完全には消えていなかった。

「食い気より眠気か」

 カクマは微笑んだ。

「もう一眠りするといい。夜明けはまだ、当分先だ」

「では、お言葉に甘えます……」

 アマリリは毛布を被り直した。わーんと鳴っているような頭を抱えて、再び浅い眠りに落ちる。愚にも付かない夢を、いくつか見た気がした。

 二度目に少女が目覚めた時には、窓の外の空はもう白み始めていた。日没からの時間を数えるより、夜明けまでの時間を数えた方が早い時刻だ。向かいの座席では、カクマが詩集をアイマスク代わりに眠っている。よくよく長く寝る男らしい。

「はふ……」

 大きなあくびを一つして、寝ぼけ眼を窓に向ける。ガラスに映った虚像のアマリリは、ひどく顔をむくませていた。

「……」

 少女は決断的に立ち上がると、扉を開けて外へ出た。これから始まる一日は、首都へ乗り込む一日だ。あまり腑抜けたところを晒すわけにはいかない。

 客車後部に設えられた洗面台からは、いつでも温水を出すことができる。蒸気暖房と同じ仕組みだった。夜明け前のこととあって、利用者はアマリリ以外に一人もいない。少女は熱めのお湯で顔を洗うと、あらためて鏡の中を見た。

(これで、まあ)

 焼石に水レベルの話だが、多少はマシになった気がする。アマリリは顔を拭って、部屋に戻りかけた。押し殺した声が聞こえてきたのは、その時である。

「……さん。もうやめましょう」

「何を今更……」

 客車を繋ぐ連絡通路の向こうで、何やら男女が言い争っている。喧嘩だ。

 カクマの忠告に従えば逃げるべきところ、アマリリはじっと聞き耳を立てた。聞こえてくる声の主に心当たりがあったためである。

「もう十分稼いだじゃない。わざわざ危ない橋を渡らなくたって」

「わからねえな。今になって怖気付いたってのか?」

「もううんざりなのよ、こんなこと。嫌気が差したの」

 間違いない。囁き声で言い合っているのは、ロレインとその兄だ。昨晩に引き続き、この列車でも揉めているらしい。どうしてこんなところにいるのかは知らないが――占い師たちの個室は、二つ後ろの客車だったはずだ。

「私は占い師なのよ。イカサマなんか必要ないわ」

「よせ、後にしろ。起きてる客がいたらどうする。聞こえるぞ」

「聞かせてあげればいいのよ。こんなの、コソ泥と変わらな――」

「待て」

 通路の向こうで人間の動く気配がした。

「誰かいる。聞かれたぞ」

 ロレインの兄が通路を渡ってくる。アマリリは踵を返して駆け出した。

 だが、所詮は一本道である。この距離で逃げて逃げられるものではない。三歩と行かない内に、アマリリは首元を掴まれて吊り上げられていた。

「聞いたな」

 男が低い声で言う。その手のひらが、アマリリの首を締め上げていた。息はできるが、声は全く出せない。とんでもない手練だった。

「聞いたな?」

 アマリリは返事もできず、空中でもがいた。追いついてきたロレインが、兄の腕に触れる。

「兄さん、やめて。この子は友達なのよ」

「ダメだ。話を聞かれた」

「確認が先よ。それに、この子は誰にも話さないわ。下ろしてあげて」

「始末する方がいい。その方が安全だ」

 男が囁く。だが少なくとも、彼は理性を保っていた。昨晩のように妹の言葉を無視して、アマリリをくびり殺すつもりはないらしい。

「この子のお兄さんも同じ列車に乗ってるわ。殺せば恨みを買うわよ」

「怖かねえよ、そんなもん」

「私は絶対に嫌。……ねえ、明日の午後に列車ともおさらばなのよ。口止めは明日一日だけで十分だわ。わざわざ殺さなくても、始末の方法はいくらでもあるわよ」

「例えば?」

 ロレインは爬虫類のような目でアマリリを見上げる。

「子供一人よ。個室で監視すれば十分だわ」

「それだけか」

「少なくとも、ここでくっちゃべってるよりは遥かに安全だと思うけど。他のお客に見られたら、言い訳のしようがないわよ」

「む……」

 男の視線が揺れた。ロレインが畳みかける。

「わかったら、早く降ろして。……貴女も声を出しちゃダメよ。いいわね?」

 選択の余地はない。アマリリは宙吊りのまま、どうにか小さくうなずいた。猜疑心に満ちた男の視線を浴びながら、少女は再び解放される。

「じゃ、行きましょうか」

 へたりこんだアマリリを、占い師の女が覗き込んだ。

「悪いけど、ここからは私たちと過ごしてもらうわ。生きて首都を拝みたければ、大人しく従ってちょうだいね」

「……わかりました」

「ありがとう。話が早くて助かるわ」

 ロレインの表情には、色濃い影が差している。アマリリの知る彼女とは、まるで別人のようである。女はごく柔らかな手つきで、怯える少女の手を取った。

「心配しなくても大丈夫。同じ二等客車だもの。きっと快適に過ごせるわ」

 占い師の女は、実に可愛らしく笑った。

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