第7話
全く同じ構造の二等客車を二つ通り過ぎた先に、食堂車はあった。細長い空間に、品の良い食卓のセットが整然と並んでいる。やや早い時間のためか、客の姿は見当たらない。少女が軍人崩れと共に案内されたのは、あまり目立たない隅の席だった。
アマリリは興味津々、手渡されたメニュー表を覗き込んだ。並んでいるのは見慣れない料理の名前ばかりである。
「ムール貝のガーリックバターソース、小エビのフリッター、鱈のフライ……これ全部、海で取れる食べ物ですよね。本当にここで食べられるんですか?」
「出発前に首都で仕入れたのを、ここまで冷凍してきたんだろう。ちゃんと食えるはずだ」
カクマはメニュー表を裏返した。
「逆に、肉は食えそうにないな。行き道で使い切ったらしい」
「奥から匂いはしてるみたいですけど……」
「よくわかるな。多分、一等向けのコース料理には入ってるんだろう。ここじゃなんでも、一等客車が優先だから」
いい匂いがしてくる厨房車の方を一瞥し、カクマはメニュー表を押しやった。
「とりあえず、何でも頼んでみなよ。本物の首都風料理ってヤツだ。例によって、僕のぶんも食べていいから」
「それは、ありがたいですけど」
ここまで、カクマがまともな食事を摂っているところを見たことがない。男が口にしていたのは、数杯の水と、先ほどの紅茶だけだ。
「本当に、カクマさんは大丈夫なんですか。私に気を遣っているのではなく?」
「あー……まあ、心配しなくてもいい。こっちはこっちで適当にやってるから。君は気にせず、僕の分まで腹いっぱい食べろ」
「それは」
土台無理な話だった。数日単位で絶食しても全く問題ない人間というのは、アマリリには想像がつかない。東洋の
カクマは何かを隠している。
「……いえ。わかりました」
だが、アマリリは好奇心を飲み込んだ。
「本当は何もわかりませんが、これ以上は詮索しません。私はこれから全部のメニューを注文しますが、全部一人で平らげます。それでいいんですね」
「ああ。たくさん食べろ」
カクマはどこか超然と微笑む。アマリリはもう遠慮しなかった。片手を挙げて合図を送り、エプロン姿の乗務員に注文を読み上げる。先述したムール貝のガーリックバターソースに始まり、小エビのフリッター、オイスターの香草パン粉焼き、小魚のオムレツ……。
最後にカクマが水を頼んで、昼食のオーダーは終わった。
しこたま食べて、部屋に戻った午後。アマリリは終日、手持ちの書籍を読んで過ごした。窓の外には雨が降り出していたが、列車の運行は快調そのもの。雨は車窓を洗っただけで、個室のアマリリは一滴も濡れることがなかった。
列車はいくつかの駅に停車したが、基本的には夜間も休まず走り続ける。夕食は車内販売で軽めに済ませ、アマリリは村にいた頃と同じ時間に眠りについた。
二日目の朝は、日の出と共に起床。ざっと身支度を整えて、朝食を摂るため再び食堂車へ向かう。その頃には、規則的な列車の揺れにも新鮮味を感じなくなっていた。
朝食はベイクドビーンズ、スクランブルエッグとスモークサーモン。乗務員が注文を取らなかったところを見ると、全ての客に共通のメニューなのだろう。アマリリは早速、豆料理を口に運んだ。
ベイクドビーンズは香辛料が聞いてピリリと辛い。アマリリは小さいため息を吐いた。
「おいしい……」
「それは何よりだ」
向かいの席では、カクマが新聞を眺めている。明け方に停車した駅で積み込まれたのだろう。その日付はアマリリが過ごす本日この日のものだ。周囲のテーブルでも、老若男女が同じ新聞を広げている。都会の人々が情報にかける情熱は、並々ならぬものらしい。
アマリリはスモークサーモンを口に入れた。もったりとした鮭の風味と、燻製の香りがふわりと広がる。続けて口にしたスクランブルエッグは、雲を詰めたようなやわらかさだった。どちらも、少女にとっては異次元の食物である。
しかし……アマリリは不意に手を止めた。カクマが新聞記事から顔を上げる。
「どうした。口に合わなかったかい?」
「あ、いえ。どれもとてもおいしいです。ただ、こんな生活してると鈍っちゃいそうで」
「そういう話か。心配しなくても、明日には列車生活もおしまいさ」
「それは、承知してるんですが」
村を出てから以降、アマリリの人生は飽食の時代を迎えていた。空きっ腹を抱えて眠り、空きっ腹で目を覚ましていた二日前までの生活とは、あまりに落差が大きすぎる。居心地の悪さを感じるのも、無理はなかった。
「……まあ、いいです。ご飯に罪はありませんから」
「全部一人で食べられそうかい」
「もちろん。後から欲しがっても、もうあげませんからね」
カクマは黙って、アマリリを促す。やはり、今回も食事を摂る気はないらしい。少女にしてみれば、目の前の食事を黙って見過ごすなど考えられないことである。アマリリはあっという間に、二人前の朝食を平らげていた。
「腹は満ちたか」
「おかげさまで八分目です」
「まだ入るのか。聞いてた通りの健啖家だな」
男は無感情に言って、新聞紙を折り畳んだ。テーブルに置かれた見出しには、「中央銀行利上げ」の見出し。取り上げられているのは、経済の話題だった。
「そういえば、少し気になってたんですが」
「なんだい」
「お金の方は、大丈夫なんですか。二等客車とはいえ、かなりの豪華さですよね」
カクマは少し驚いた様子で、自分のことを指差した。
「それは、僕の財布の話か?」
「そうです。ここまでの旅行費は、全部カクマさんが出してくれてますよね。馬車代も宿代も、切符の代金も……正直、ありがたいと思って甘えてたんですけど」
「気づいてたのか」
「はい。やっぱり、私もいくらか出した方がいいのかな、と思って」
「その必要はない」
カクマは即答した。
「兵士を退役した時の金が、まだかなり残っている。首都からあの村まで、もう二、三回往復しても、お釣りがもらえる金額だよ。君に心配してもらわなくても、僕は全く問題ない」
「ですが……ご飯も全部、私がいただいちゃってますし」
「それは本当にいらないだけだ」
「でも」
アマリリは強情を張った。カクマが黙ってかぶりを振る。
「なんと言われようと、金を受け取るつもりはないよ。君が持っているのは、親父さんの慰労金だ。ニコラス・カラーの金だよ。そこから自分の取り分を主張するなんてことは、僕にはできない。世界がひっくり返ってもね」
「そんな……そこまで言うんですか」
「ニコラスには、それだけの恩がある。君を汽車に乗せるくらい、なんでもないね」
「でも」
とうとう、カクマが吹き出した。
「言ったら聞かないところは、親父さんそっくりだな! わかった、わかったよ。どうしても返したいなら、自分で稼いだ金を返してくれ。何年かかってもいいから」
「むう……」
アマリリは抗議の唸り声を上げた。だが、カクマの言い分は完全に筋が通っている。父の金をいたずらに使うべきでないのは、その通りだった。
「というか、君が心配すべきなのは自分の財布なんだぜ。親父さんの慰労金は確かに大金だが、それだけで学園に行けるほどじゃないんだからな。今の内に、首都で稼ぐ方法を考えておかないとならない」
「……えっ?」
アマリリはその場で石化したように凝固して、カクマを見た。
「どういうことですか、それって」
聞き捨てならない言葉がいくつもあった。男のセリフは嵐のようで、まだよく飲み込めていなかったが――。
「もう一度言ってもらえませんか。父の慰労金では……」
「学園には行けない」
「学園には、行けない。それは、お金が足りないということですか」
「そうだ。……もしかして、知らなかったのか?」
アマリリは呆然と頷いた。父が遺した金は、カクマに受け取った半額だけでも狩師十年分の年収に匹敵する。それを以てしても賄えない費えがこの世にあるなど、少女は想像もしていなかった。
「そうか。それは大変だ」
カクマは自身のコーヒーカップを摘んで、戻した。
「……本当に大変だな。じゃあ、実際どのくらいの費用が必要かも知らないんだね?」
「はい。今すぐ教えてください」
食卓は、にわかに切羽詰まった雰囲気を漂わせ始めていた。
「まず、普通の話をするぞ。都会で学園を目指す子供の話だ。彼らは大抵、貴族の子弟だ。選抜試験を突破するために、まずは家庭教師を雇う。最低でも一年から二年。長ければ三年、みっちり勉強するわけだ。……これだけで、慰労金の半額は飛ぶ」
「私がもらった額ですか」
「次にかかるのは受験料だな。試験を受けるために、学園に金を払うわけだ。これにはいくつか種類があるが……君が受ける場合、慰労金の四分の一が必要になるだろう」
アマリリは顔をしかめた。カクマは続ける。
「学園に入れば、年間の学費がかかる。学園に直接払う金もあるが、教材の値段も馬鹿にならない。ストレートに卒業すれば、学園には四年間通うことになるわけだが……残りの金じゃ、一年も持たないだろうな」
「全く足りないじゃないですか」
「実際はもっと金がかかる。首都での滞在費を計算に入れてないからね。宿代、飯代、服代……その他もろもろ。まともにやれば、多分試験の前に金がなくなる」
「……全く足りないじゃないですか!」
カクマは手を広げた。
「そうなんだ」
「どうして――いえ、ちょっと待ってください。深呼吸します」
取り乱す寸前で、ギリギリ少女は踏みとどまった。息を深く吸って、吐き出す。最後に吸い込んだ息を臍の下に送り込んで、アマリリはカクマに向き直る。
「いや。続けてください。何か方策はないんですか?」
「そうだな。実は――」
カクマは口角を上げて歯を見せた。アマリリは低い声を出す。
「もったいぶらずに、今すぐ教えてください」
「失敬、わかった。策はある」
男が指を立てた。
「さっき話したのは、ゼロから始める貴族の話だよ。君の場合は、村での貯金がある。それを使えば、一年も勉強する必要はない」
「村での貯金。……どうでしょうか。正直、それは」
「いや。これを読む限りは、大したものなんじゃないかな」
カクマは数枚の羊皮紙を取り出した。細々した文字が並んでいるのは、学園で行われる論述試験の解答案である。一目でそうとわかったのは、それを書いたのがアマリリ本人であるからだ。
「私の……! 勝手に読んだんですか!?」
「そうだ。勝手に読ませてもらった。図書師の専門には詳しくないが、ちゃんと筋の通った文章だ。半年も家庭教師につけば、かなりのところまで行けるんじゃないか。親父さんが買い集めた書籍のおかげだろう」
「買い集めたのは母もです」
「……ご両親のおかげだろう。それから、君にはこれがある」
カクマは傍らの小銃を示した。男が肌身離さず持ち歩いているものだ。
「鉄砲ですか」
「その通り。ところで、選抜試験の仕組みは知ってるか?」
「流石に、それくらいは。選択した三科目で、合格点を超えればいいんですよね」
「じゃあ、これは知ってるかい? その内一科目は、実技で大体できるんだ」
アマリリは顔をしかめた。そんな話は、全く聞いたことがない。
「実技……?」
「そうだ。首都以外ではあまり知られてないが、学園の入試には実技が使える。内容はなんでもいいが、基本的には武術だな。剣術、弓術、格闘術。最近だとカンフーとか、カラテなんてのも聞いたな。もちろん、射撃でも問題ない」
「……私を担いでるってわけじゃ、ないですよね」
「本当だよ。クレー射撃で入学したヤツが、何年か前にも確かにいたんだ」
それが本当だとすれば、アマリリはかなり楽になる。論述と射撃に加えて、勉強するのはあと一科目でいいのだ。全てが図に当たれば、三ヶ月足らず先の選抜試験にすら、合格が可能かもしれない。
いや、合格しなければならないのだ。
アマリリが思い描いていた計画通りなら、最初の一年間は試験対策に専念するはずだった。村での生活を基準にする限り、父の遺産はそのくらいの余裕があったのである。
だが全ての前提は、カクマの言葉によって崩れ去った。首都での金銭感覚は、アマリリが村で培ってきたものとは大きく違っているらしい。
もはや村に戻ることはできない。学園に入って首都に残る他、少女にはなかった。
「わかりました。もう一科目は実技で行きます」
「結構。村で見た限り、こっちは確実に及第点が取れると思う。腕を落とさないようにだけ、気をつけてくれれば」
「任せてください。百発撃って、百発命中させて見せます」
「その意気だ。……さて」
カクマはコーヒーで口をしめした。
「家庭教師には、心当たりがある。彼に頼めば、さらに出費は減らせるはずだ。残りの一科目は、真面目に勉強するしかないな」
「でも、ここまでやれば……」
「いや。ここまでやっても金は足りない。具体的には、入学した直後辺りから首が回らなくなると思う。結局、追加の収入がないことにはジリ貧なんだ。どこかのタイミングでドカンと稼ぐか、借りるかしないといけない。具体的には」
カクマはそこで、言葉を切った。
「具体的には?」
「首都についてから考えることにしよう。いくつかアタリはつくが、どれも思い通りにいく保証はない。上手くいけば、一歩も動かずに大金が転がり込んでくる可能性もあるが」
「上手くいかなければ、どうなります」
「そうならないように祈ってくれ」
男がお茶を濁した。
「ちょっと待ってください。上手くいかなかったら、どうなるんですか?」
「多少、余計に頑張る必要が出てくるだけだ。心配しなくていいよ」
カクマは小銃を一瞥した。
「学費は必ずなんとかする。君は君のやるべきことに集中しろ。最後の一科目は、今から間に合わせないとならないんだから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます