第三章 二等客室

第6話

 鋼鉄の機関が蒸気を吹き出す。ねばつく油の匂いと空気が滲むような熱気。煤混じりの風がアマリリの頬を撫でた。

 目の前のバラスト軌道には蒸気機関車が鎮座している。小さな家ほどもあるそれは、アマリリがこれまで目にしたどの構造とも違っていた。なんせ、この装置は生きている。

 アマリリは目を眇めた。機関車の背後には、角張った客車がいくつも引き連れられている。白い煙と人混みに阻まれ、最後尾までは見通すことができなかった。彼女を首都へ運ぶ列車。ともすればそれは、地平線の先へすら続いているのかもしれない。

「アマリリ。……アマリリ。聞いてるか?」

「えっ?」

 顔を上げると、カクマがこちらを見下ろしている。

「ごめんなさい。なんでしたか?」

「呼ばれた。行こう」

「あ、はい」

 アマリリは背嚢を背負い直した。軍服の背中について、人混みの中を縫うように進む。

 起床から数時間。少女はアンバーウッドの駅にいた。

「切符を拝見。……ようこそ、ユニオン・セントラル鉄道へ。ではお次、切符を拝見」

 客車の扉には、乗降用の階段が設置されている。その脇では、綺麗な髭を生やした車掌が切符に鋏を入れていた。

「切符を拝見。……二枚?」

「妹の分だ」

「左様でしたか、これは失敬! ようこそ、ユニオン・セントラル鉄道へ。お次!」

 車掌が乗車を促す。アマリリはカクマに続き、客車に足を踏み入れた。

 客車の中は、小さな長屋のようだった。車両の片側を貫く狭い廊下と、それに面した個室コンパートメントの扉。マホガニー材の赤褐色に統一された車内は、さながら貴族の屋敷のようだった。

「ここだな。4431号室」

 カクマが扉の数字を示した。

「この番号を忘れないように。首都に着くまでは、ここが僕らの宿だ」

「忘れませんよ。子供じゃあるまいし」

 アマリリは背嚢を降ろした。室内は存外に広い。寝台兼用の座席は、横になると多少窮屈だが、それでも十分快適に過ごせそうだった。

「やれやれ。無事に乗り継げたな」

 カクマが座席の上に身を投げ出した。

「ユニオン線の予約はいい加減だって聞いてたからね。ちょっと心配してたんだが……これでひとまず安心だ。あとは黙って乗ってれば、明後日の午後には首都へ着く」

「明後日……」

 予定通りなら、三日後の夜には首都で過ごしている計算だ。夢にまで見た街が、もう手の届くところまで来ている。

「あっという間ですね、本当に」

「ま、首都も所詮はただの街だ。行くだけなら簡単さ。肝心なのは、そこで何をするかだよ」

「確かにそうだと思いますけど」

 アマリリは背筋を伸ばして着席すると、そわそわしながら出発を待った。窓の外のホームには、先頭の機関車から白い蒸気が流れてきている。

「そう言えるのは、カクマさんが首都を知ってるからですよ」

「……ま、そうだな」

 男の返事には、やや間があった。言いたいことがあったのを、ぐっと堪えたのだろう。

 だがカクマになんと言われようと、アマリリにとって首都は特別の街だった。十年先まで生き方の決められた村での日々。「いつか首都に行けるかもしれない」という事実は、少女にとって唯一の希望だった。

 その首都が、今や目と鼻の先にある。アマリリはまた、窓の外を見た。車掌が客車の扉を閉め、プラットホームのざわめきが一際大きくなる。かすかな唸りを上げ、機関車が再び蒸気を吐き出した。

 だが、列車が動き出す気配はない。

「あの」

 アマリリはカクマを見た。男は帳面を開き、何やら記録を取っているようだった。

「いつになったら出発するんでしょうか」

「え? ああ……どうだろう。まだしばらくかかるんじゃないかな。今さっき、三等の乗車が始まったみたいだから」

 カクマが列車の後方を示した。窓から顔を出して見れば、後続の客車がホームの人混みを吸い込んでいる。

「あの人たち、全部お客さんだったんですか!?」

「そうだよ。一体なんだと思ってたんだ?」

「蒸気機関車の見物かとばかり」

「ああ、なるほど」

 カクマは苦笑した。

「ここには、そういう連中はいないよ。大半は出稼ぎじゃないのかな」

「首都までですか?」

「いや。来る時に、グリムバレーで人足を募集してるのを見た。半分以上は炭鉱夫志望だと思うよ。坑道に潜って石炭を掘るんだ」

 三等客車への乗車は、二等のそれとは全く異なっている。解放された扉には乗降用の階段こそ設置されているものの、切符を確かめる車掌の姿はない。家族と別れて客車へ乗り込む人々の足取りは一様に重く、見ているだけで気が滅入るようだった。

「あまりじろじろ見るもんじゃない」

 カクマが窓枠に手をかける。アマリリは首を引っ込めた。

 数分が経過したにもかかわらず、ホームにはまだまだ乗車を待つ人混みが残っている。

「少し気になったんですけど」

「なに?」

「これ、本当に全員が乗り込めるんでしょうか」

「乗れるさ」

 カクマは即答した。

「三等客車は、こことは作りが違うんだ。長椅子が並んでるだけで、個室は一つもない。立ち乗りを含めれば、いくらでも客を押し込める」

「押し込む」

 あまり素敵な表現ではない。

「そうだ。文字通りの鮨詰めさ」

「スシ?」

「ぎゅうぎゅう詰めってことだ。その代わりに、切符代は馬鹿みたいに安いんだが……正直、それ以外にほとんど長所はないな。ほとんど立ちっぱなしになるし、乗客同士のトラブルも多い。一駅二駅ならともかく、三日も乗っていられる環境じゃない」

「なるほど……」

 アマリリはまた、窓の外を眺めた。それから十分足らずの間で、ホームを埋め尽くしていた人混みは綺麗に解消してしまった。同じだけの人数が、三等客車に収容されたということになる。驚くべきことだった。

 先頭の機関車がため息のように蒸気を吐いた。天井に釣られたランプが、ゆらりと揺れる。ぐっ、と全身にかかるかすかな重力。窓の外で、ゆっくりと景色が流れ始める。アマリリの胸は、否応なく高鳴った。

 その全体を軋ませるようにして、列車は出発した。一直線に、首都へ向かって。


    ◆


 蒸気機関車の乗り心地は、荷車や馬車とは全く違っていた。床から伝わる規則的なリズムと、信じられないほどの速度。窓の外に見える景色が、同じ速さで後ろへ流れて行く。街道。休耕中の畑。牛馬の放たれた牧草地。全てを置き去りにして、列車は一路、首都を目指す。

 その速度が、アマリリには心地よかった。

 アンバーウッドの駅は、既にはるか後方だ。少女の村は言うまでもない。どんな早馬を使ったところで、今から彼女に追いつける村人は、誰一人としていなかった。

 アマリリは自由を噛み締め――その時、突如として車窓がブラックアウトした。

「あ、えっ?」

 困惑する少女の向かいで、カクマが手を伸ばす。開いていた窓をピシャリと閉めて、男は再び手元の書籍に視線を落とした。

「煙が入るよ。トンネルに入ったんだ」

「……列車専用の隧道? そんなものまであるんですか?」

「そんなに意外かい」

「意外というか……馬車用のものを掘るにも、とんでもない時間がかかるんですよ。鉄道が通ったのは、ここ十年の話ですよね。その短期間で、これだけの道を通すなんて」

 アマリリは天井を見上げた。これほどの速度で走っているにも関わらず、列車が外へ出る気配はない。トンネルは相当の長さだった。

 カクマがランプの光量を上げる。

「今は発破が使えるからな。君が思ってるほど時間はかからないよ。短いトンネルなら、一年経たずに開通できる。工事は同時並行で進められるから……ユニオン線が首都まで繋がるのに、五年はかかってないんじゃないかな」

「そんなに早く? 首都の技術はすごいですね」

「技術か。ふふ、そんなに綺麗な話じゃないよ。もうすぐトンネルを抜ける。窓の外を見ててごらん」

 直後。カクマの言葉通り、列車はトンネルを抜けた。

「あれは……」

 窓の外にはどこから現れたのか、並走する汽車の姿があった。側面には、派手な字体で社名が印字されている。

「ヴェロシティ・エクスプレス?」

「そう。アンバーウッドの隣町から出発する特急列車だよ。ユニオン線とは開通前から犬猿の仲で、今も互いの客を取り合ってる。突貫工事のトンネル作業が進んだのは、ヴェロシティの存在がデカいんだ」

「客を取り合う、というと……」

 アマリリは首を傾げた。

「どうするんですか。互いの駅から無理やり引っ張ってくるわけにもいきませんよね」

「いや。そういうこともするらしい」

「えっ?」

「でも、基本は宣伝合戦かな。うちの鉄道はあっちよりも速い。安く乗れる。安全だ。そう吹聴して、客に自分の鉄道を選ばせるわけだ」

 後方を走るヴェロシティ線の機関車では、運転士が必死になって石炭をくべている。アマリリたちの列車は、ゆっくりと追い抜かれつつあった。

「今のところ、速さではヴェロシティが勝ってるらしい。機関車のパワーが少しだけ高いんだ。向こうの列車が、半日早く首都へ着く」

「その点では、ユニオン・セントラル鉄道は負けてるわけですね」

「ユニオンも躍起になってるらしいがな。スピード勝負の結果は、当分このままだろう。……似たような勝負が、線路を作る時にもあったんだ」

 列車がまた、トンネルに入った。

「ユニオンとヴェロシティ、どちらが先に線路を完成させるか。最終的に勝ったのはユニオンだったわけだが……勝負の最中は、どっちの会社もずいぶん無茶をしたらしい。工期を縮めるために人夫を休ませなかったり、規定の安全確認を飛ばしたりとかな」

「大丈夫なんですか、それ」

「もちろんダメだよ。いい加減な手順を、疲れた人夫がなぞるんだ。工事の最中は、かなり事故が多かったらしい。特に酷かったのはトンネルで、発破の時に生き埋めになったヤツがどこでも一人か二人はいるんだってさ」

 列車はまだトンネルの中にいる。アマリリの頭上で、ランプの光がチラついた。

「そのせいか、ユニオン線もヴェロシティ線も、開通当初は事故が多くてね。使い捨てられた人夫の呪いだって噂が立った。例えば、こうして個室で話していると……」

 カクマが声をひそめる。その時だった。

 コンコン。突然、アマリリたちの個室をノックしてきた者がある。少女は反射的に振り向いた。誰かが外にいる。

「どう――」「待ってください」

 答えかけたカクマを、咄嗟にアマリリは制止した。

「どした」

「外に立っているのは死んだ人夫の亡霊かも知れません」

「えっ? あー、あはは! 大丈夫だよ。人夫の呪いってのはそんなんじゃない」

 カクマは逆にアマリリを制止して、個室の扉を開けた。

「あ――」

「……どうされました?」

 怪訝な表情でこちらを見ているのは、乗務員の女性だった。食材で満載されたワゴンを推している。

「いや、なんでも。お姉さん、車内販売の人ですよね」

「そうですよ、ええ。アイスクリームに冷たいワイン。コーヒー、紅茶もございます」

「じゃあ、紅茶を一杯と、マフィンの包みを一つ。……君は?」

「あ、私ですか……」

 アマリリはまだドキドキしながら、自身も紅茶を頼んだ。手渡された紅茶のカップは温かく、恐怖にかじかんだ指先にはありがたかった。

「おいしい」

「マフィンも食べていいよ」

 アマリリはマフィンをつまんだ。口の中で紅茶が焼き菓子に染みる。

「おいしい……」

「これがユニオンのいいところでね。車内販売が充実してるんだ。速度で負けてる代わりに、その辺で差をつけてるんだろう。食堂車の飯も、ヴェロシティより美味い気がする」

「食堂車」

 アマリリは鸚鵡返しに言った。半端に菓子を口にしたせいで、いきなり腹が空いてきた気がする。少女の顔色を見たカクマが、ほんの少しだけ口角を上げた。

「少し早いけど、行ってみようか」

「いいんですか?」

「空いてる方が、何かと気楽でいいだろう」

 男が小銃を肩にかける。アマリリとカクマは、揃って個室を後にした。

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