第5話

「次に行くわね。これが、貴女の現在を示すカード。配置されているのは、愚者の正位置ね」

「愚者ですか」

「そう、フラフラしている愚か者。このカードが示すのは、欲望への忠実さ。それから未知の世界へ飛び込もうとする勇気や無謀も表すの。実際の貴女がどうかは、私にはわからないけれど……どうかしら? 結構当たってるんじゃない?」

「そうかも知れません」

 半信半疑のアマリリがうなずいて見せると、ロレインは得意げに笑った。

「私もなかなか捨てたもんじゃないわね。でも、一番肝心なのは次よ。最後に配置されてるのが、未来を示してるわけだけど……」

「おうい、ロレイン」

 不意に、野太い声が割り込んできた。カウンターから、女の兄が立ち上がっている。

「そろそろ行くぞ。兄はしたたかに酔った。部屋に戻って眠らねばならん」

 女が舌打ちした。

「この肝心な時に。……一人で先に帰っててよ、兄さん!」

「なんだなんだ、酷いじゃないか。こんな酔っ払いを放っておいて! いや待て、コソコソ隠れて何やってるんだ?」

 千鳥足で近づいてきた男が、アマリリのテーブルを覗き込んだ。

「おいおい、タロットじゃあないか! 占いする時は必ず俺を通せと言っただろう! お前これ、いくら貰ってやってるんだ?」

「タダよ」

「それはいかん。ガキが相手でも値引きはダメだ! お前は放っておくとなんでもかんでも安売りしやがる! 誰がお前を食えるようにしてやったと思ってるんだ?」

「彼女とはお友達になったの。占うのにお金なんか取れないわ。私の交友関係にまで¬¬――」

 パン! 乾いた音が響いて、女椅子から転げ落ちた。男がロレインの頬を張ったのだ。

「黙れ。俺はお前の占いのことなら、なんでも口をだす。その権利がある! 田舎のバカガキを一人前の占い師に就けてやったのは俺なんだからな。相手が友達だろうが神様だろうが、金は取るんだよ」

 男がアマリリを見下ろした。

「おう、ガキ。妹がなんと言ったか知らねーが、払うもんを払ってもらおうか」

「ちょっと、よしなよ」

「うるせえ!」

 見かねて声をかけた女主人を、男が一喝する。今や、食堂中の視線が男に集まっていた。客たちは興味津々、騒動の行方を見物している。

「これは商売の話だ。俺の商売の話だ! 訳知り顔で口を挟んできてんじゃねえ!」

「なっ――」

 女主人が鼻を膨らませる。男の妹がアマリリのテーブルから水差しを掴んだ。

 バシャッ!

 酔漢の顔面に、一塊の冷水がぶち撒けられた。ロレインが兄の顔に向けて、水差しいっぱい分の水を浴びせかけたのである。

 男は一瞬、完全に思考停止したようだった。石化したようにその場に固まり、浅い息を繰り返す。綺麗に分けられた前髪からは、水の雫が滴っていた。

「飲み過ぎよ、兄さん。少し頭を冷やして」

 女が叩きつけた水差しの底が、ドンと低い音を立てた。それを合図にしたように、客たちの間から歓声が上がった。彼らの多くは、宵の口から食堂で屯していた者たちだ。全員が、十分な量の酒を飲んでいる。

「いいぞ、姉ちゃん!」「もっと言ってやれ!」「おい、あいつの面を見てみろよ!」

 ……食堂を品のない笑い声が満たす。固まっていた男が、不気味に肩を震わせた。

「どいつもこいつも」

 アマリリの首筋を、チリチリした警戒信号が走った。父と入った森の中、熊に尾けられた時に覚えたあの感覚だ。女の兄が、腕を背後に回す。

 ――危ない。

 それが言葉になる前に、アマリリは床を蹴っていた。倒れ込むようにロレインを突き飛ばすのと、男がナイフを振り抜くのが同時だった。鋭利な刃が少女の髪を掠めて、そのいく筋かが宙を舞う。被害と言えそうなのはそれだけだった。

 アマリリは間に合っていた。占い師の女も彼女自身も、大きな怪我はしていない。……少なくとも、今のところは。

 男がもう一度ナイフを振り上げた。その顔色は、赤を通り越してどす黒く染まっている。ナイフの切先と、それが指し示す結末。アマリリは強く目を閉じた。そして――。

「はい、そこまでだ」

 カクマの声が聞こえた。

「誰だお前……ッ! 離せよ!」

「ダメだよ。離したら、また暴れるだろう」

 アマリリは目を開いた。少女の同行者が、暴漢の腕を捕まえている。

「いいから離せ。やめ――ろッ!」

 ロレインの兄がカクマを振り払おうともがいた。だが、その努力も虚しい。カクマは暴漢の間接を極めると、その上半身を手近なテーブルへ引き倒した。

「クソッ! 今すぐ離せ、このボケ! 離しやがれってんだよ!」

「だからダメだって。女将さん、これ借りるよ」

 カクマはカウンターの向こうに手を伸ばし、小さな装置を取り上げた。金属でできた銀色の円筒。注射器だとわかった。そんなものが、何故ここに? アマリリが疑問を覚えるよりも早く、カクマは暴漢に注射器を押し当てていた。

 注射器の中身はわからない。だが、その効果はてきめんだった。暴れていた男の動きが、みるみる内に鈍くなる。それからほとんど経たずに、女の兄は静かになった。カウンターに突っ伏した男は、今やかすかないびきすら立て、完全な眠りに落ちていた。

「なんだよ、おしまいか?」「ちぇ、ツいてねえな。兄貴が勝つと思ったのによ」

 困惑したような客たちのざわめき。唐突に戻ってきた平穏に、誰も彼もが戸惑っていた。コインの受け渡しを始めた者たちは、あろうことか、喧嘩の結末を賭けの対象にしていたらしい。

「これでよし。もう大丈夫だ。……二人とも、怪我はしてないか?」

「平気です、このくらいは」

 カクマが差し伸べた手を掴み、アマリリは体を起こした。

「上着の袖が湿ったくらいで」

「良かった。そっちのお姉さんは?」

「こっちも大丈夫よ。ちょっと頭をぶつけただけ」

「……ごめんなさい。完全に私のせいですね」

 ロレインはヒラヒラと手を振った。

「いいのいいの。謝らなきゃならないのは私の方なんだから。貴女がいなかったら、私は今頃滅多刺しよ? 一度ああなると見境ないんだから。こいつ」

 カクマが眉をひそめる。

「こういうことが、良くあるのか」

「たまによ。前の戦争で、砲弾にやられたらしくてね。破片がまだ、頭に残ってるらしいのよ。それで時々おかしくなる。そういう証明書を持って帰ってきたわ」

「狂騒証明か。あなたが一人で面倒を?」

「いつも、暑い内は落ち着いてるのよ。冬場になると厳しくなるから、親元に帰って面倒を見てる。今年はちょっと、帰るのが遅れちゃって。……ごめんなさいね。この子のお兄さんでしょう? 妹さんに怖い思いをさせちゃったわ」

 カクマは肩をすくめた。

「誰も怪我せずに済んだんだ。ただ、お兄さんには禁酒させた方がいいな」

「言い聞かせとくわ。……ああ、女将さん!」

 女主人とウェイトレスが、喧嘩で散らかった店内を片付け始めていた。ロレインはその手に、金貨を数枚握らせる。

「これで皆さんに、今飲んでるのと同じものを出してあげて。あたしたちは、もう部屋に引き上げるから。今夜は本当にごめんなさい」

 女主人は占い師の肩を叩いた。

「気にしなさんな、このくらい! 酔っ払いを相手にするんだ、このくらいは日常茶飯事さ。あんたこそ、一人で大丈夫かい? 兄貴が起きたら大変だろう」

「心配しないで。起きたら全部忘れてるから。……よいしょ、っと」

 女が昏睡した兄を肩から担ぐ。アマリリはその反対側に回った。

「カクマさん、手伝いましょう」

「いいのいいの。こんなヤツ運ぶのに、ガン首揃える必要なんかないわ。引きずって行くくらいがちょうどいいんだから」

「いや、僕も手を貸すよ。せっかく眠らせたのに、また目を覚まされちゃ困る」

 カクマはそう言ったが、男が目覚める気配は当面なさそうだった。三人がかりで運ばれている間中、男は規則的ないびきをかき続けていた。


「さっき、あの人に注射器を使ってましたよね。何を打ったんですか」

 階下に戻るなり、アマリリは尋ねた。彼女の向かいには、今はカクマが座っている。

「気づいてたのか。聞いてどうするんだ」

「ただの好奇心です。あれって厨房に置いてあったものですよね。それでどうやって、大の大人を眠らせたんですか?」

「あ。あー……そういう話か」

 カクマはこめかみを叩いた。

「わかった。今の内に教えておこう」

 カクマは懐に手を入れると、銀色の注射器を取り出した。

「この中にはモルヒネが入っていた」

「モルヒネ?」

「超強力な鎮静睡眠剤だ。最初は軍隊の痛み止めだったんだが……最近じゃ、そこらじゅうで寝酒代わりに使われてる。ここの女将さんもその口だったらしいな。アヘンチンキよりもよく効くってんで」

 アマリリは眉を寄せた。

「大丈夫なんですか、それ」

「もちろんダメだ。アヘンもそうだが、中毒になるからな。毎日毎晩使ってる内に、薬無しじゃやっていけなくなる。分量を間違えると眠ったままあの世行きだしね」

「それをあの人に打ったんですか」

「ちょっとだけな。心配しなくても死にはしないよ。でも、君は絶対に手を出すな」

「出しませんよ、絶対に」

 アマリリは小さく息を吐いた。

「荷物の管理に、新聞紙のインク。それから今度はモルヒネですか。気をつけなきゃならないことが多すぎますね」

「あとは、喧嘩もな。いつでも僕が収められるとは限らない」

「好きで巻き込まれたわけじゃないですよ」

「それはわかる。それでも気をつけてくれと言うんだ。首都にはもっと性質たちの悪い手合いがいる。トラブルに巻き込まれそうになったら、尻尾を巻いて逃げてくれ」

 首都にはもっと性質の悪い手合いがいる。薄々わかっていたことではあるが、あまり直視したくない事実だった。

「肝に銘じておきます」

「頼むぞ。死んだら終わりなんだから」

「ですから、肝に銘じておきます」

「……わかった。説教は以上。とりあえず、何事もなくて良かったよ」

 カクマは大きな欠伸をして、椅子の上で手足を伸ばした。

「あれだけ眠って、まだ眠いんですか」

「飯がいらない分、睡眠が必要な体なんだ。君の方はちゃんと飯を食えたか?」

「はい」

 アマリリは素直にうなずいた。

「でも、本当に良かったんですか? カクマさんの分まで食べちゃって」

「僕は水だけでいいんだ。訓練してるから」

「訓練……ラクダみたいな生態ですね」

 不意に出てきた欠伸を、アマリリは下を向いてやり過ごした。緊張が解けたせいか、一日分の疲労と食後の眠気がまとめて押し寄せてきている。部屋に戻ることを考え始めた時、ブーツの先に何かがぶつかった。

「……?」

「どうした」

「いえ。少し」

 アマリリはテーブルの下に手を伸ばした。転がっていたのは、刃渡1フィート少々のナイフだ。客引きの男によるものだろう、刃の峰には不恰好な鋸歯が刻まれている。

「これ、カクマさんのですか?」

「いいや。さっきの男が振り回してたヤツだろう。僕なら、そんな風に――待った。ちょっとそいつを見せてくれ」

 ナイフの何かが、カクマの興味を惹きつけたらしい。アマリリからナイフを受け取るなり、彼はそれをためつすがめつし始めた。

「さっきの女。あいつの頭に金属片が埋まってるとか言ってたな」

「ええ。そう言ってたと思います。何か、気になりますか」

「ちょっとね。いや、大したことじゃないんだが……」

 カクマは顎に手を当てた。アマリリが眠気に負けて、部屋に戻るまで……いや、恐らくは部屋に戻った後も、カクマは同じ姿勢で考え込んでいたのだろう。次の朝、アマリリが食堂に降りて行くと、男は同じ位置で眠り込んでいた。

 街。山師。新聞紙。プディング。麻薬。鉄道。これからまみえる未知の首都。アマリリは最初の一日で、村では遭遇し得なかった事物をいくつも見聞きした。だが、少女にとって最も奇妙なのは、カクマ・カタヒラに違いなかった。

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