第4話
アマリリの意見は受け容れられなかった。彼女自身、設定上の姉になることに大きな意味を見出していたわけではない。少し駄々をこねてみただけだ。
カクマは明らかに旅慣れている。主人への受け答えもしっかりしていた。彼が身につけた軍服と考え合わせれば、その身元を疑う者はほとんどいないだろう。先の戦争から引き上げてきたばかりの軍人崩れだ。
従って、肉付きの良い女主人は十分にカクマとその妹を信用した。”両親を失い”、”首都で新たな生活を始める”二人は、誰に咎められることもなく部屋に通された。宿の規模からは意外なほど広くて清潔な部屋である。
「あの女将さん、いい人だな」
「……人の善意に寄りかかって生きてると、その内地獄に堕ちますよ」
「元からさ」
カクマは荷物を下ろしてブーツを脱ぎ捨てると、寝台に寝そべった。
「夕飯と朝飯の時間は、覚えてるか」
「あ、はい。でも、大丈夫なんですか。食事までつけて」
「路銀は足りてる。それより君は、自分の財布に気をつけろ。そこに入ってるのは、親父さんの稼いだ金だ」
アマリリは黙ってうなずいた。カクマに言われるまでもなく、承知していたことだった。
「わかっていればいい。じゃあ、僕はこのまま休ませてもらうから。トラブルが起きたら、叩き起こしてくれ」
「えっ? まだ夕飯も食べてませんよ」
「僕はいらない。君が二人分食べろ」
「いや、ちょっと」
そう言いかけた時には、男はもう眠りについていた。とんでもない寝付きの良さである。
一人になったアマリリは、自身の寝台に荷物をまとめた。部屋の窓はアンバーウッドの街並みを見下ろしている。踏み固めて作られた土の通りには、夕暮れ時だというのに人馬が活発に行き交っていた。
アマリリはその中のひと組に目を留めた。紫色のローブを着た女と、薄汚れた外套を羽織った男の二人組である。
同じ宿に、天分明かしの水晶玉がある。
アマリリは窓の景色と、眠る男を交互に見比べた。袖をめくって時刻を確かめる。母が使っていた婦人ものの時計は、今も正確に時を刻んでいた。
「…………」
少女は尚も葛藤していたが、やがて好奇心に負けて部屋を出た。
夕食の時間だ。
◆
ロビー兼用の食堂は、宿泊客以外にも開放されているらしい。アマリリが降りていくと、そこは既に様々な年代の男女で賑わっていた。カウンターは満席。テーブルにも空きはほとんどない。だが、目当ての呪術師たちは見当たらなかった。
「おっ。来たね、お嬢ちゃん! こっちこっち、ここに座んな!」
まごついているアマリリを案内してくれたのは、宿屋の女主人だった。
「一人かい? 兄貴はどうしたね?」
「今日は先に休むそうです」
「あんだって? 参ったねえ、夕飯は二人分で用意しちまったんだよ。悪いけど、あんたが二人分食べてくれるかい?」
「はい。元々そのつもりでしたから」
女主人は大口を開けた。
「アッハッハ! 冗談、冗談だよ。兄貴には適当に包んでやっから。持って帰ってやんな」
「あ、いえ。冗談ではなくて……私が二人分食べます。兄もそうしろと」
「え?」
「えっ?」
アマリリと女主人は顔を見合わせた。
「本当に二人分食べるつもりなのかい? ウチは何でも、大盛りで出してるんだよ」
「はい」
アマリリは周囲のテーブルを見回した。問題ない。
「大丈夫だと思います。腹ペコなので、私」
「……まあ、あんたがそう言うなら出すけどね。無理だと思ったら、いつでも言うんだよ」
女主人がカウンターの向こうに消える。厨房から、かすかな驚きの声が聞こえた。
ほどなくして、アマリリのテーブルにいくつかの皿が運ばれてきた。皿にはそれぞれオート麦のポリッジ、ふかし芋、羊肉のパイが山盛りにされている。最後に出されたバケットには、見慣れない焼き菓子が押し込まれていた。
「これは?」
「プディングさ。首都じゃあ、こいつを付け合わせに飯を食うんだ。お嬢ちゃん、これから首都へ上がるんだろう? ここらでいっぺん、向こうの味に慣れときな!」
女主人が笑う。アマリリはプディングをちぎった。味や香りは白パンにやや近いが、食感はそれよりもずっともちもちしている。
とはいえ、明確に首都風と言えそうなのはそれだけだった。ポリッジやふかし芋は、村で日常的に食べられていたものと変わらない。羊肉のパイは祭りの日だけのごちそうだったが……口にしてみれば、村のそれと大した違いはなかった。
続いてポリッジ。羊肉のパイ。ふかし芋。ポリッジ。羊肉のパイ。ふかし芋。ポリッジ。羊肉のパイ。プディングをちぎる。アマリリはグラスの水を飲んで苦笑した。村と同じ味がここにも根付いていることが、ほんの少しだけ憎らしかった。
再びポリッジ――カウンターの会話が、ふと耳に入った。
「いいか? 俺が兵士をやってた時の話だ。ちょうどあの戦争が終わりかけてた頃、俺は最前線の塹壕にいた。ある晩、俺は歩哨に立って……」
「やめてよ兄さん。またその話?」
「いいだろうが。俺はこの話がしたいんだよ」
酔っ払った男女の会話。食堂に呪術師が降りてくる気配はない。
アマリリは食事を続けた。ふかし芋。ポリッジ。羊肉のパイ。ポリッジがなくなる。バケットからプディングを手に取り、パイからこぼれた肉を乗せた。
カウンターでは、酔っ払った男の話が続いている。
「ええと、どこまで話した? そう、俺は歩哨に立ったんだ。それから一時間も経った頃、闇の中から誰かが近づいてくる気配がした……おおロレインよ、どこへ行く?」
「どこでもいいでしょ。嫌いなのよ、その話」
「なんだと? 全く仕方のない妹だ。兄が話していると言うのに! それで、なんだ? そう、俺は歩哨に立って……」
アマリリは敢えて気にせず、黙々と食事を続ける。村の寄り合いでは、しばしば酒が振る舞われる。父と共に参加していた頃は、こうした諍いを目にすることもあった。酔っ払い同士の言い争いには、関わり合いにならないのが一番である。
だが――。アマリリは手を止めた。カウンターから少女のテーブルへ、足音が近づいてきている。顔を上げると、背の高い女がこちらを見下ろしていた。
「ここ、空いてるかしら。座っても?」
女が向かいの席を示す。そこは本来、カクマのために用意された席だ。今は当然、空いている。アマリリは口いっぱいのプディングを飲み込んだ。
「……ええ」
「ありがとう、よく食べるお嬢さん。この辺では初めて見る顔ね。お一人かしら?」
「いえ。兄が一緒です」
「あら、そうなの。私と同じね。残念ながら私の兄は、そこで酔っ払ってるけど」
女はカウンターを示した。彼女の兄は、まだ歩哨のくだりを繰り返している。
「困ったもんでしょう。酔っ払うといつもあの調子なんだから。妹だってだけで、あれの面倒を見なくちゃいけないのよ」
「それは……大変ですね」
「大変なんてもんじゃないわよ。妹を都合の良い召使くらいにしか思ってないんだから。貴女のお兄さんは、そんなことないかしら?」
「まあ……そうですね。今のところは、そう思います」
歯切れの悪い少女の答えに、女は苦笑した。
「警戒しなくても、告げ口したりしないわよ。貴女も大概、大変みたいね」
女が手元のグラスを煽る。そこにはまだ、相当量のスタウトが残っていた。彼女も兄をとやかく言えるほど素面というわけではないらしい。
「そう言えば、貴女たちも首都へ向かうんですってね」
女はグラスを空にして、濁った瞳をアマリリへ向けた。
「女将さんから聞いたわ。何しに行くの? そんなにいいとこじゃないわよ、あそこは」
「あ、その」
適当な理由をいくつか思い浮かべた。わざわざ本当の目的を伝える必要はない。商品の仕入れ、出稼ぎ、家族が首都にいる……。だが、アマリリはその全てを飲み込んだ。彼女の夢を阻むものは、もう何もない。
少女は背筋を伸ばして答えた。
「
「へええ、学園! 優秀なのね、お嬢さん」
「……そういうわけでもないんですけど。どうしても図書師になりたくて」
「いいじゃない。素敵よ、そういうの」
女の反応は、想像よりもずっと好意的なものだった。いつの間にか握りしめていた拳を解いて、アマリリは小さく息をつく。
女の瞳は、どこか遠いところをさまよっていた。
「私にもあったなー、貴女みたいな頃。どうしても占いで身を立てたくて、家を出たの」
「占い」
アマリリは改めて、女の顔を見た。
「お姉さん――」
「ロレインでいいわよ」
「……ロレインさん、呪術師なんですか。昼間も、テントが建ってたみたいですけど」
「なんだ、よく知ってるじゃない。あれは私。水晶玉占いは専門じゃないんだけどね」
女はそこで、また苦笑した。
「にしても、呪術師って。ずいぶん古風な言い方するのね。私なんかはただの占い師よ。……折角だから、何か占ってあげましょうか?」
「いえ、それより-ー」
「まあまあ。まずは大人しく占われときなさいってば。私が無料で占うことなんか、滅多にないのよ? 学園を目指す貴女への
アマリリが反論する前に、女はカードの束を取り出していた。
「見たことあるかしら。タロットカード。大陸製の占術道具よ。東洋の神秘主義者は、このカードを通じて神託を授かるらしいわ」
「神託ですか」
アマリリは顔をしかめた。人形劇の舞台裏を覗いてしまった時のような、興醒めした気分だった。目の前の女は、あの胡散臭い呪術師の一員なのだ。女に同行する兄とやらは、昼間テントのそばに控えていた客引きに違いない。「学園を目指している」と軽々しく口にしたことを、少女は早くも後悔し始めていた。
女がカードの束をテーブルに据える。
「これで、占ってあげる。貴女の首都行きが、上手く行くかどうか」
「いえ、私は」
アマリリは抵抗するように言った。
「こういうのは、信じないようにしてて」
「それでもいいのよ。悪い結果が出たら、忘れちゃえばいいんだから」
意外なことに、女はあっけからんとしていた。アマリリは唖然として尋ねる。
「……いいんですか?」
「いいのいいの、所詮は占いなんだから。良い結果が出たら喜んで、悪い結果が出たらそうならないように頑張る。後から思い出して外れてたら、小馬鹿にするくらいでいいのよ。信託なんて時代じゃないしね」
女は手早くカードを切った。
「ま、無理強いするもんでもないわ。貴女が嫌なら、やめておこうかしら?」
少なくともその態度は、アマリリの知る呪術師のそれとはかけ離れていた。
「……いえ。やってみます」
「あらそう? じゃあ、カードを引いて、ここへ並べて。そういえば貴女、お名前は?」
「アマリリです」
「良い名前ね」
少女は占い師の指示に従って、カードを配置していった。山札から引かれたカードが、テーブルに幾何学模様を描く。占い師の指が、それらを順に表へ向けた。カードに込められた不調を読み取り、女は小さくうなずいた。
「面白いわね。……アマリリちゃん、少し前に一度死んでるわよ」
「えっ?」
「ふふ、びっくりした? もう少し、ちゃんと説明するわね」
ロレインはカードの一枚を示した。
「ここに置かれたカードは、貴女の過去を示すの。配置されたのは死神の正位置。このカードが示すのは停止、別れ、強制終了……死に含まれる色々な概念ね。これをそのまま受け取ると、貴女は一度死んでるってことになるわけよ」
「悪いカードですね」
「そうでもないわ。一つの終わりは、新たな始まりでもある。貴女は何か、新たなスタートを切ったところかもしれない。自分で気づいているかはわからないけどね。心当たりはあるかしら?」
「…………」
占い師は回答を強制しなかった。
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