第二章 ストンヘイヴンの追分
第3話
森を挟んで村の脇を通された街道は、村の外れ近くで二股に分かれている。街道をいく人々には「ストンヘイヴンの追分」、村人には単に「追分」と呼ばれている地点だった。分かれた右の道は首都、左の道は海へ続いていると聞く。
そこは本来、どこかへ行く途中の通過点に過ぎない。旅人、行商、あるいは戦列を組んだ兵士たち。行き来する者たちは皆、追分を過ぎ去り目的地へ急ぐ。彼らの中に、ここを目指してくる者は誰もいない。
だが今日は違う。アマリリは正しくこの追分を目指してやってきた。駅でも街でもないここから、彼女を乗せる馬車が出るはずなのだ。
「ハァ、ハァッ……」
森に入って十数分。追跡者の気配はない。どの道、森に入った彼女に追いつける村人などいないはずだったが——それでもアマリリは足を止めることなく駆け、ようやく目的地へ辿り着いた。
「来たな」
見慣れた街道の分かれ道。果たしてそこには、一台の乗合馬車が停まっていた。傍らには、詰襟の軍服を着込んだ男が一人、馬に背を預けて体を揺らしている。
アマリリを首都へ誘い、彼女を弾劾する理由をソフィアに与えた余所者だった。
「肚は決まったかい」
「……おかげさまで。首都へ行くしかなくなりました」
「結構。断る気じゃないのなら、早いとこ馬車に乗ってくれ。追っ手が来ると面倒だ」
男に促されて、アマリリはステップに足をかける。五、六人が乗れる広さの客室には誰もいない。代わりに見覚えのある大きな背嚢が一つ、我が物顔で座席を占拠している。アマリリが家に置いて来た荷物だった。
「あの、これ」
「ああ。それ一つで良かったかい? 他にも、かなり荷物が残ってたみたいだが」
「家に入ったんですか」
「馬車が早めに着いたんで、声をかけに行ったんだよ。ケチな……いや、実に親切な御者が、停車時間に応じて追加料金を寄越せと言い出したもんで」
男はアマリリの向かいで、座席に身を沈めた。
ぴしゃりと鞭を入れる音が響き、馬車が走り出す。
「ドアを叩いたが返事はない。覗いて見たが誰もいない。妙だと思って村の方を見ると、どうも揉めてるみたいじゃないか」
「それで撃ち込んできたんですか。あの丘の上から?」
アマリリの住んでいた丘からは、確かに公会堂が見下ろせる。丘から村までの間にはなだらかな草原が広がり、目立った障害物はほとんどない。が、そこには距離という大きな壁がある。甘めに見積もっても千ヤード以上。鳥撃ち銃ではもちろん、小銃であったとしても狙撃可能な距離とは思えない。
「うん」
男はこともなげに言った。
「最初の一発でスキルフィアを割った。妙な動きをするヤツがいたんで、もう一発撃った。この時点で、君は街道に向かってるみたいだったからね。こっちには来ないと思って、荷物を抱えて丘を降りたんだ。なかなか上手くいったと思うよ。何しろ誰も殺してないし」
「それは……確かに、そうですね」
ソフィアの流した血の赤を思い、アマリリは目を逸らした。窓の外には、のっぺりした田園地帯が続いている。空には灰色の雲が低く垂れ込めていた。
馬車は規則正しい速度で街道を進む。整備不足の凹凸が車輪を通り、座席からアマリリの尻に伝わってきていた。
「このまま、首都まで馬車ですか」
「いや」
ありがたいことに、男はかぶりを振った。
「それだと時間がかかりすぎるよ。途中で汽車に乗り換える」
「汽車」
「アンバーウッドの駅から、首都行きの直通便が出てる。こいつに乗れれば、三日で首都まで行ける。上手く切符が取れればだけど」
「切符が取れなければ?」
男は肩をすくめた。
「取れるまでその場に足止めだ。少なくとも、これ以上は尻を痛めつけずに済む」
◆
点在する農・牧場と、質素な木造建築。アンバーウッドの周辺には、アマリリの村とそう大差ない第一次産業の用地が広がっている。駅馬車はその風景に目もくれず、一直線に街道を進む。窓の外には、密集した建物の群れが見えてきていた。
アンバーウッド。列車が停まる街。そしてアマリリが初めて見る街だった。
馬車が停まる。アマリリたちと入れ替わりに数人の客を乗せると、御者は再び馬に鞭を入れた。かすかな蹄の音が遠ざかっていく。
成人の儀を飛び出して、わずかに半日強。アマリリは知らない街にいた。
「ちぇ。御者の野郎、ぼったくりやがって。忘れ物はないか?」
「ありません」
「結構。ここから先は荷物に気をつけろ。鉄道が通ってからこっち、この辺もかなり物騒になって来てる。勝手がわかるまでは、あまり僕から離れないでくれ」
「わかりました」
アマリリは背嚢の肩紐を握りしめた。男はかすかに苦笑する。
「そんなに緊張しなくても、普通に目を離さなければ大丈夫だよ。君も僕も銃を持ってるしな。強盗の類はそうそう寄ってこれないはずだ」
男は小銃のストラップを整えた。
「行こう。ここで突っ立ってても仕方ない。まずは切符の手配、それから宿だ」
「切符と宿。あの、ここで一泊は確定なんですか」
「首都行きの列車は一日一本。午前の内には出発する。僕らが乗れるのは、一番早くて明日の便だよ。切符がどうあれ、宿は取らなきゃしようがない」
「……なるほど」
軍服の男に先導されながら、アマリリは通りを進んだ。信じられないほど間を詰め、みっしりと建てられた建築物。そのどれもが、公会堂以上の規模だ。行き交う人々の数は、ざっと見ただけでも村人全てを合わせたより多い。
アンバーウッドの街は、何もかも村とは違っていた。
食品を並べる露店。工具を扱う職人の工房。宿屋。昼間から酒を酌み交わす男たちがいるのは、街で一番の食堂らしい。アマリリはそれらの情報を、通りに出された看板から読み取ることができた。
「あ!」
アマリリはある露店の前で足を止めた。木製の台に、灰色の紙が山積みにされているのを見つけたのだ。
「ちょっと見てもいいですか? ……ありがとうございます」
店主に断って、その一枚を手に取る。男が横から覗き込んできた。
「何か載ってたか」
「いえ、そういうわけでは。ただ、こんなに新しいものを見るのは初めてで」
アマリリは紙面の日付を示した。それによれば、新聞紙は三日前に発行されたばかりのものである。
「日刊の新聞があるのは知ってたんです。でも、村ではほとんど見かけなくて……行商人は月に一回も来ませんでしたし。読めるのは、ずっと昔のニュースばかりだったので」
「首都に行けばもっとその日のニュースがその日に読めるさ。親父、この新聞はこのままくれ。アマリリさん、インクのついた手であちこち触らないようにな」
「え? あっ……」
見ると、指先が黒く染まっている。新聞紙のインクが移ってしまったらしい。
鉄道敷設範囲の拡大、新発明の抗睡眠剤、どこぞの貴族の訃報……主だった記事を拾い読みしながら、アマリリは通りを進む。
「うっぷ」
軍服の背中に激突し、アマリリは顔を上げた。いつの間にか、男が足を止めていたらしい。見上げたすぐ目の前に、一際巨大な建築がそびえていた。小さな窓口と、改札の向こうに見えるプラットフォーム。その向こうには、鉄と木材からなる線路が引かれている。
アンバーウッドの駅舎だった。
「首都まで二人、席を取りたい。できるだけ早く」
男が窓口に声をかけると、係員の女が億劫そうに応じた。
「直近だと明日の便ですねえ。三等客室なら予約は不要ですがあ……」
「三等って寝台なしの雑魚寝だろ。一人じゃないんだ、二等以上で空きを探してくれ」
「そうですかあ。えー、二等以上ですとお……最速で、ですよねえ」
女は指を舐めて、手元の帳面をめくった。
「明日の便に空きがありますねえ。ここでいいですかあ? じゃ、こっちにお二人のお名前を書いてもらってえ、二等客室の料金は、ええっとねえ」
男が窓口でペンを握る。アマリリは横から顔を出して覗き込んだ。
「カクマ・カタヒラ。こういう綴りだったんですか」
「シッ。ちょっと静かにしてろ」
男は自分の名前の下に、少女の名前を並べた。アマリリ・カラー。父と同じ姓が、ファーストネームに続く。
「ふうん。カクマさんとアマリリさん。お金はちょうどありますねえ」
窓口の女が意味深に笑って、男に切符を手渡した。
「二等のコンパートメントを、確かに予約できました。出発は明日の八時……遅れても汽車は待ってくれませんからあ、気をつけてくださいねえ」
「ありがとう」
切符を懐に納め、男は踵を返した。アマリリはカクマに続いて駅舎に背を向け、二人は再びアンバーウッドの人波に紛れる。
「次は宿ですか」
「そうだ。けど、その前に設定を固めておいた方がいいかもしれないな。名乗る度にあれこれ邪推されちゃ面倒だ。首都に着くまで、ああいう場面では苗字を統一しよう」
「なるほど」
アマリリは顎に手を当てた。
「では、私たちは兄妹ということで。親子には見えないでしょうし」
「別になんでもいいよ。痛くもない腹を探られずに済めば」
「これから私のことは”姉さん”と呼んでください」
「うお、君が姉か? それはかえって目立つんじゃないかな……」
カクマが振り向いた。アマリリは胸を張って見せる。
「大丈夫ですよ。カクマさんは童顔ですし、姉にすれば私の方が年上に見えると思います。身長もそれほど変わりませんし。明日にはここを発つんでしょう?」
「僕はこれでも二十歳だぜ」
「私は十五ですよ」
男は立ち止まると、無言で少女を見下ろした。アマリリはかすかに首を動かす。男の視線は、彼女のそれよりもほんの数センチ上にあるだけだった。
「やっぱり、兄と妹にしよう。僕のことは”兄さん”と呼ばなくていいから」
「む。ですが……」
アマリリは尚も反駁しかけて、言葉を切った。突然の沈黙。「どうした」とカクマが振り向く。その時には、姉兄の論争はもうどうでも良くなってしまっていた。
少女が見つけたのは、道端の小さな露店だった。紺色のビロードで作られたテントの下には、同じ色のローブを着込んだ呪術師が一人。看板にはぞんざいに手書きされた「卜占」の文字が掲げられている。
呪術師が熱心に覗き込んでいるのは、見覚えのある水晶玉だった。
駆け出しかけたアマリリの腕を男が掴む。
「おい、本当にどうしたんだ。何があった?」
「……あれを見てください。村にあったのと同じものですよね」
「
「どこで手に入れたのか確かめないと。村の水晶玉は、私のために壊れたんですから。あれがなければ、みんなが困る。それは嫌です」
アマリリは拘束を脱しようとしたが、カクマを振り払うことはできなかった。
「よせよせ、やめろ。そんな責任を感じる必要はない。スキルフィアなんて、元々そう珍しい道具じゃないんだ。君の村にいた呪術師は、すぐにも代わりの水晶玉を見つけるよ」
「そんな、ことは——」
「ないとは言えないだろ? 実際、そこに代わりがあるわけだし」
客引きらしい男が、通行人をテントの中に引き込んだ。アマリリもよく知る光がテントから漏れる。天分明かしの水晶玉が、通行人の才能を図っているのだ。
「スキルフィアの水晶玉は、ただの入出力装置なんだ。天分の判断をするのは、テーブルの下の階差機関だよ。そっちが壊れなきゃ、玉の方はいくらでも代えが効く」
「かいさ……今なんて言いましたか?」
「
「眉唾、なんですか」
カクマはそれには答えず、この場を離れるよう促した。見ると、占いの客引きがものすごい形相でこちらを睨みつけている。
アマリリはカクマに続いて、足早に歩き始めた。占い師のテントから十分に距離ができた頃、少女はもう一度尋ねた。
「あの、水晶玉のことなんですけど。眉唾って言うのは、どういうことなんですか」
「え? ああ。そのままの意味だよ。スキルフィアの結果は信用できない——と言うと、少し言い過ぎなんだが。とにかく、あまり鵜呑みにしない方がいいんだ」
「何故ですか」
「あれは本当の意味で天分を教えてくれるわけじゃないんだ。スキルフィアは使用者が持つ技術や能力を基に才能や適性を判別する。わかる? 後出しジャンケンなんだよ」
アマリリは眉根を寄せた。
「後出し?」
「そうだ。スキルフィアが教えてくれるのは、使用者がその時点で身につけていた技術や能力のことだけだ。例えば……そうだな。今の君があの玉を使っても図書師の才能は表示されないだろうが」
カクマは少女を一瞥する。
「学園でみっちり勉強した後にもう一度スキルフィアを使えば、『図書師の才能あり!』と言われるはずだ。いい加減なもんさ」
「それ、本当なんですか」
「事実だよ。他にも、測定結果が体調や天気でコロコロ変わったり……問題の多い道具なんだ、あれは。三十年くらい前までは首都でも結構使われてたらしいけど、今じゃほとんど見かけないな」
「じゃあ……でも。村では生まれた時に、水晶玉に触れてて」
カクマの言葉を咀嚼しきれないまま、アマリリは口を開く。
「それで、どの仕事に就くかが決まって……全部、間違ってたってことですか」
「まあ、流石に全部とは言えないが」
男は気の毒そうにアマリリを見下ろした。
「生まれたばかりの赤ん坊がスキルフィアを使うのは、あまり意味がないと思う。玉に触れる時は、親の手を借りるんだろう?」
「そうです」
「その場合、表示されるのは親の才能だろうな。心当たりがあるんじゃないか」
「……あります」
アマリリはこめかみに手を当てた。足元の地面が、いきなり沼に変わってしまったような感覚を覚える。
村では実質的な世襲が行われてきた。天分明かしの水晶玉が持つ性質は、何かと都合が良かったのだろう。農師の子は農師。狩師の子は狩師。そして村長の娘は村長になる。
「だからまあ、水晶玉のことは気にすんな。村でどんな結果が出ていたか知らないが、それはその時点の話だよ。君は素直に学園を目指せばいい。……さて」
カクマは宿の前で足を止めた。
「手始めにここで、部屋の空きがあるか聞いてみるとしよう。設定を忘れないようにな。僕らは兄弟だ。僕が兄で、君が妹」
「あの、それなんですが」
扉に手をかけた男に、アマリリは控えめな声をかけた。
「やっぱり、私が姉というわけにはいきませんか」
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