第2話
狩師の小屋から村までは、半時間ほどの距離がある。家を出たのはまだ暗い内だったが、村に着く頃にはかなり日が高くなっていた。朝日に照らされた広い畑と、まばらな家々。その間を抜けて、アマリリは公会堂へと連行された。
そこは村で最も古く、最も重要な施設だ。公会堂の中には、円形の大部屋がひとつだけ。村人はこれを、必要に応じてあらゆる用途に供する。議場、法廷、獄舎、神殿、倉庫——ここはその全てを兼ねていた。件の水晶玉が保管されているのも、この公会堂である。
公会堂前の広場には、既に村人が集められていた。彼らはアマリリの姿を認めると、黙って道を開ける。さざなみのような不満のささやきが、少女の元に押し寄せて来た。
(狩師の娘なんぞを特別扱いとは)(ソフィア様にも困ったものだ)(叩き起こされたこちらの身にもなってみろ)(畑仕事にかかれやしない)
だがその声も、公会堂の扉が開くとピタリと止まる。村長の娘が姿を現したのだ。
「おはよう、アマリリ」
「……ソフィア」
「晴れて良かったわね。流石にこの人数が集まると、公会堂には入りきらないもの」
ソフィアの傍らには、小さな円卓が引き出されている。その上には、例の水晶玉が鎮座していた。
「さ、これで準備は整ったわ。成人の儀を始めましょう? お父様!」
「否」
公会堂の奥から、枯れ木のような声が応じた。そこからうっそりと歩み出たのは、老いさらばえた一人の男。ソフィアの父親、すなわち現在の村長であった。
今から数えてちょうど十年前、村に疫病が流行ったことがある。痛みと熱を伴う死の病——これを恐れた人々は家に篭り、村は一時廃村同然に荒れ果てた。病は村長一家も例外なく襲い、容赦なくその命を奪った。全てが終わった後、生き残っていたのは村長とその末娘——ソフィアだけであったという。
以来、村長は変わった。村人はそう噂した。年齢以上に老け込み、末娘を溺愛し……ある意味では、生き残った村人たちを憎んですらいるのだと。
実際に相対してみると、その噂はさほど的外れなものでもないらしい。村長の落ち窪んだ瞳は朝日すら拒んで、暗かった。
「成人の儀に先立ち、詮議すべきことがあるようだ。——アマリリ。狩師の娘よ。お前にはいくつかの嫌疑がかかっている」
「嫌疑?」
「昨日、この村を余所者が訪れた。心当たりがある者は?」
手を上げる者はいない。
「おるまいな。外の人間を引き入れる折には、儂に許しを乞わねばならん。それがこの村の掟よ。この地の土を踏む者は、あまねく儂の所有となる故。グッ、グッ。皆、よく心得ておる。正しき民は、皆な」
村長が言わんとすることは明らかだった。村人たちの視線が、ゆっくりとアマリリに集まる。村の最高権力者は、厳かに続けた。
「アマリリ。狩師の娘よ。お前は昨日、正しき民であることを捨てた。余所者を村へ引き入れ、親しく口を利いた。お前は申し開きはあるか」
「あります。私は——」
「発言は認めぬ。儂の前で口を利くことが許されるのは、掟に忠実な正しき民のみだ。儂は正しき民らに尋ねる。掟を犯した狩師の娘を、我らはどのように扱うべきか?」
村人たちは互いの顔を盗み見た。近隣の村々や行商人との交流。時には旅人が村の外から訪れることもある。村への来客は決して多くないとはいえ、珍しい者ではない。村人はそれらの大半を、村長への断りなしに迎え入れていた。
そも、問題の掟はとっくの昔に形骸化したものである。疫病の流行に伴って一度は効力を取り戻したものの、それから既に十年が経っている。余所者と交流する際に掟を憚る者など、今の村にはほとんどいなかった。それは、当の村長ですら。
だが——。
「……許せない」
村人の中から、静かな声が上がった。村長の手には司法を司る錫杖:“稲妻の司祭”が握られている。それは彼らにとって、今も大きな意味を持っていた。
「アマリリは罪を犯しました。罰が必要です」「私もそう思います。彼女は寄り合いにも滅多に顔を出しませんし……」「何を考えているかわかりません。俺たちの村を危険に晒すかも知れねえ! 村長、この娘に重い罰を!」
ざわめきが広がる。危険な状態だった。アマリリは鳥撃ち銃を握りしめる。
「静まれ。静まれ!」
村人の感情が最高潮に達する寸前で、村長は“稲妻の司祭”に放電させた。錫杖にまとわりつく雷の蛇。興奮した彼らの沈黙を取り戻すには、十分に神秘的な光景だった。
「アマリリよ、これが正しき民の声だ。儂の意見も相違ない。お前には罰が必要だ」
「待っ——」
「待ってください、お父様!」
飛び出してきたのは、ソフィアだった。
「アマリリはまだ儀式前なのよ。罰だなんて大袈裟すぎるわ。それに村のみんなも、黙って余所者を呼んでるじゃない! 彼女を罰するなら、全員が罰を受けるべきよ」
「我が娘……」
「寄り合いに出ないのだって、アマリリのせいじゃないわ。みんなが子供扱いして追い出したんじゃない。こんなところでだけ大人扱いして罰するなんて、間違ってるわ」
村人たちは叱られた子供のように俯いた。現村長が寝込みがちになって十年、村長への窓口となっていたのはソフィアだ。今や次期村長の地位を得た彼女の言葉には、相応の権威が伴っている。
「ソフィア。我が娘よ」
村長はゆっくりとかぶりを振った。
「今裁かれているのは狩師の娘なのだ。その言に誤りがないとしても、村人の全てを遡って罰することなどはできぬ」
「なら、アマリリも……」
村長はかぶりを振った。
「否。こうして事が明るみに出た以上、無罪放免とするわけにもいくまい。掟に……そして何より、掟に従ってきた真に正しき民に背くことはできぬ」
「でも、お父様!」
「最後まで聞かんか。ソフィア、お前の言葉にも一理ある。掟に背く者は本来、指を廃されるところであるが、それはあまりに酷であろう」
村人の間に緊張が走った。廃するという語は、この村では身体刑を意味する。
「故にアマリリ。狩師の娘よ。今再び、天分明かしの水晶玉に触れるがよい。その結果によって処分を決定することとする」
「……私を大人にした上で、罰を決めるということですか」
「心配せずともよい。いずれにせよ、お前の身体が廃することはせぬ。ここに居並ぶ全ての民が証人となろう」
老人はゆっくりと周囲を見回した。村人たちの空気がわずかに緩む。
ソフィアだけがなお張り詰めた面持ちで、アマリリを振り返った。
「聞いていたわね。さあ、水晶玉に触れて」
「……ソフィア」
アマリリは首を傾げて、幼馴染を斜めに見た。固唾を飲んで見守る村人たちの熱とは裏腹に、彼女の頭は冷えていた。水晶玉へ踏み出しながら、アマリリはソフィアに耳打ちした。
「またやったんだ。告げ口ソフィア」
「もう誰にも、そんな風には呼ばせないわ」
「そんなだから、私以外に友達ができなかったんだ」
ソフィアが下唇を噛む。彼女が本当に傷ついた時の仕草だった。
「早く水晶玉に触れなさい。アマリリ」
村長の娘が高圧的に囁く。
実際のところ、選択肢は他になかった。アマリリはゆっくりと広場を横切り、水晶玉に手を伸ばす。滑らかな感触。銃を握りしめていた手のひらから、熱が逃げていく。
天分明かしの水晶玉は、たちどころに反応した。かすかな、だが目まぐるしい音がカシャカシャと鳴り、玉の中には霧が渦巻く。ややあって、その霧の中に幾つかの文字が浮かんだ。
中距離射撃。鳥類解体。農業知識……天分明かしの水晶玉は、触れたものの持つ才能を詳らかにするという。霧の中に浮かんでいるのは、アマリリの持つ才能の数々だった。
「終わったようだな」
村長が水晶玉の中を覗き込んだ。
示された才能の質は、文字の大きさや色に反映されている。派手な色の大きな文字で示されているのは、どれも狩師に関わるものだった。次いで目立っているのは、農師や工師に関わるもの。それらに紛れるようにして示された“図書知識”の小さな文字を見つけた時、それでもアマリリの心は踊った。
「ふむ。我慢強い。銃を扱う腕もある。獲物も捌けるか……やはり、狩師のようだな」
水晶玉の結果を正しく読み解き、村人が就くべき職を示せるのは、この村では村長の一族とされている。
「狩師の娘。お前には父親と同じ才がある。本来であれば狩師に任ずるところであるが、掟破りの罪は重い……。故に、敢えてお前を狩師とはせぬ」
村長はそこで、自身の娘を見た。
「お前の職は農師とする。今後は畑を耕し、穀を穫ることを生業とせよ」
「……えっ? 農師? 今からですか?」
「左様。今後は農師として生きよ」
村長がうなずく。村人たちの間に、細波のようなざわめきが広がった。ここ百年ほどの間、成人の儀で行われる職業の決定は、あくまで形式的なものだった。生まれた時に定めた職に就くことを改めて確認し、十五歳まで無事に生きたことを祝う小さな祭りだ。
儀式の場で既定の職が覆る例など、この場の誰も聞いたことがない。村ではこれまで、実質的な世襲が行われてきたのである。
「静まれ。静まれ! 話はまだ終わっておらぬ」
村長は錫杖を叩きつけた。地面に激突した石突が火花を吹き、村人は静寂を取り戻す。
「農師となる以上、狩師見習いとして認められた権利は今後認められぬ。第一に、村外れの家は狩師の住処である。農師となる以上、今後は足を踏み入れることは罷りならん」
「ちょっと待ってください。あの家には、まだ——」
「第二に。これと併せ、狩師としての持ち物は全て剥奪する。狩師の住まいに残した財産は全て破棄せよ。鉄砲についても、この場で没収する」
「ぼっ」
抱きしめるようにして銃を握り、アマリリは後ずさる。暗い眼窩の奥から、村長の瞳が彼女を見つめていた。
「それは——」
「アマリリ。大人しく渡してちょうだい」
進み出たソフィアが彼女に手を差し伸べていた。
「後のことは心配しないで。あんたの面倒は、あたしがちゃんと見てあげる。新しい家も、土地も。村の誰にも、文句は言わせないわ」
「文句を言う人はいるよ。私が言う」
アマリリは銃を抱きしめる。
「悪いけど、これだけは誰にも渡せない。私と父さんとの縁なんだ」
「だからよ。それを持っている限り、あんたは馬鹿みたいな夢を諦められない。だから、あたしがまとめて断ち切ってあげるって言ってるの」
傷つきやすい友人は、再び村長の娘に立ち戻った。
「銃を渡しなさい、アマリリ。首都なんかへは行かせないわ」
「ダメだよ。農師になるならそれでもいいけど——これだけは絶対、譲れない」
「石頭のアマリリ。だからあんたは村の鼻つまみ者なのよ」
これ見よがしなため息。ソフィアは背後の男たちに顎をしゃくった。
「彼女から銃を取り上げて」
「はい」
「わかりました」
一人の男がアマリリの銃に手を伸ばす。別の男はアマリリの肩を反対側に引っ張った。アマリリは銃を男の手からかわして、素早くボルトを操作した。
ガチリ。フル装填されていた弾丸、その最初の一発が薬室に送り込まれた。ぎょっとした男の力が緩んだ瞬間、アマリリは拘束を振り払う。
「やめてください。私に触らないで!」
言い終える前に、少女は引き倒されていた。村人の中には彼女の父と同じく、先の戦争を経験した者がいる。彼らはアマリリが引いたボルトの意味を知っていた。
「このクソガキ! 何をするつもりだったか言ってみろ!」
怒号。アマリリの視界に火花が散る。ソフィアが泣き叫ぶのが聞こえた。袋叩きにされる中、今度こそアマリリの手から、猟銃がもぎ取られかける。その時アマリリは、かすかな空気の唸りを聞いた。
ブゥン。雀蜂の羽音にも似た不快な音だ。「伏せろッ」と誰かが叫び、唐突に暴力の嵐がやむ。そして——。
シュパァン! 円卓上の水晶玉が爆発した。アマリリはうつ伏せのまま、クリスタルの破片を頭から被る。かすかな銃声が遅れて聞こえてきた。
「なっ」
「ダメです、村長様! ソフィア様も隠れて!」
血相を変えているのは、怒り狂っていた男たちだった。大多数の村人とは異なり、彼らは何が起きているのかを既に飲み込んでいた。
——狙撃されている!
広場にはそれらしい遮蔽物はほとんどない。それがどれだけ危険なことなのか、戦場帰りの彼らはよく知っていた。故に、男たちはアマリリへの制裁よりも村人の避難を優先したのである。
「アマリリ!」
公会堂に押し込められながら、ソフィアが叫ぶ。広場に放置されたアマリリは、既に銃を拾い上げていた。
アマリリは男たちよりも、少しだけ正確に状況を理解していた。水晶玉が吹き飛ばされてから銃声が聞こえるまでに数秒。超長距離から狙撃された証拠だ。そんなことができる人間は、そう何人もいない。狙撃の主は、昨日会った軍服の男であるはずだった。
「待って! アマリリ!」
友人の声を背中で聞き、アマリリは走りだす。地に伏せた村人を飛び越え、休耕中の畑を横切り、村外れの森を目指す。一直線に森を突っ切れば、街道に出られるはずだった。
ブゥン。アマリリは再び雀蜂の羽音を聞く。パーンと何かが弾ける音と、かすかな悲鳴。
「きゃっ!」
「ソフィア様!」
最後に一度だけ、アマリリは振り向いた。尻餅を突いた村長の娘が、折れた錫杖を握っているのが見えた。“稲妻の司祭”の残骸……ソフィアはアマリリを止めるために、雷を使おうとしたらしい。幼馴染の額には血が滲んでいた。
ソフィアがアマリリの夢を理解できなかったように、アマリリにもソフィアの心中を推し量る以上のことはできない。幼馴染の彼女は、あるいは——いや。今更考えても、せんなき話だった。
まだ名前を呼ぶ声が聞こえている。アマリリはもう振り返らなかった。生まれ育った村を背に、アマリリは走って走って、走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます