鉄色少女は夢をみる。

斎藤麟太郎

第一章 アマリリ・カラーの村

第1話

 北風に乗って渡りを行う雁たちは、首都セントラルの風を知るという。アマリリの一族は、代々狩師として雁を撃ち、最も厳しい季節の生計を立てていた。

 村の狩師には彼女の一族こそがふさわしい。そう示したのは、公会堂に眠るあの水晶玉だという。成人の儀式にのみ取り出される、あの忌まわしい球。彼女の生まれるずっと前から、アマリリが狩師になることは決まっていた。

「でも、君は図書師になりたいんだろ」

 男はいとも容易く、彼女の秘密を口にした。父の戦友を名乗り、その戦死をアマリリに告げた男だった。薄汚れた軍服に身を包み、人を撃つための銃を携えている。

「誰から聞いたんですか」

 アマリリは低く尋ねた。

 彼女の鳥撃ち銃は、雁の群れを狙っている。照星の向こうでは、雁たちが沼の湖面に羽を休めていた。少なくとも、今のところは。

「君の親父さんに。娘を首都に行かせたくて、軍に入ったと言ってたよ。ことあるごとに、写真も見せてくれて——」

「私は狩師になります」

 アマリリは強いて、男の言葉を遮る。

 ——首都。鋼鉄と蒸気の都市。合理と論理が支配する議会には、迷信や神がかりの呪術師が入り込む隙はなく、ガス燈に照らされた市場は眠ることを知らない。来る者を拒まず去る者を追わない、あらゆる人間のための街だ。

 そして何より、首都には学園がある。

 今のアマリリにとっては、あらゆる意味で遠い世界だった。

「……兵士になどならなければ、父も死なずに済みました」

 少女は引き金を引く。銃声が轟き、放たれた散弾が一羽の雁を捉えた。

 沼地の群れが一斉に飛び立つ。

「良い腕だな。聞いた通りだ」

「当然です。村で一番ですから」

 渡鳥の群れは、羽を描くようにして沼から飛び去りつつある。

「だが、君はまだ狩師じゃないんだろう。今からでも学園を目指せばいい」

「同じことですよ。誕生日は明日ですから」

 アマリリはすげなく言った。

 十五の歳を迎える村人が行う成人の儀。そこで改めて水晶玉に認められれば、彼女は正式に狩師になる。仕事に就いた村人が、学園を夢見る余地はない。

 アマリリはずっと、その日を待ち侘びてきた。

「勿体ないな。世界は広いぜ」

 少女の隣で、男が小銃を構えた。——直後。

 再び轟音が沼地をどよもした。雁の一つが夕暮れの空に羽を散らす。

「¬¬——!」

 アマリリは目を丸くした。

 今の雁は、男が撃ち落としたに違いない。詰襟の射手はたった一発の小銃弾で、空中の渡鳥を墜落せしめたのである。

 飛行中の雁を仕留めるだけなら、アマリリにもできる。だがそれは、散弾を用いればの話だ。一粒弾の一発きりでと言われれば、成功させる自信はあまりない。

「こういうことだ。世界は広い」

 男が繰り返した。

「村はその、ほんの一部に過ぎないよ。悪いところだとは言わないが……他にやりたいことがあるなら、ここにこだわることはない。僕と一緒に、首都へ行かないか」

「……そんなお金、私にはありません」

「親父さんの弔慰金を預かってきている。路銀には十分なはずだ」

 手渡された革袋はずしりと重い。中に入っているのは、全て金貨だった。

「ちょっと重くなりすぎるもんでな。全部は持ってこられなかった。残りは、首都の口座の中だ。君の名前で引き出せるようになっている。……ま、どう使うかは自由だが」

「自由、ですか」

「もちろん。今となっては君の金だしな。狩師を続けるなら、銃の買い替え費にでも充てるといいんじゃないか。それも多少、ガタが来ているようだし」

 アマリリの鳥撃ち銃に顎をしゃくり、男は荷物を背負い直した。

「学園に行く気があるなら、村外れの追分に出てきてくれ。明日の昼、そこに駅馬車が停まることになっている」

「……」

「急な話だからな。迷う気持ちはよくわかる。ともかく、一晩考えてみてくれよ」

 男はそう言って、アマリリに背を向けた。静けさを取り戻した湿原には、雁たちが戻って来つつある。

 少女は鳥撃ち銃を抱き締めるようにして、強く握った。


 湿原を見下ろす小高い丘。そこに建てられた小さな家が、アマリリの住処だった。母が生きていた頃は三人で、父が軍に取られてからはアマリリが一人で住んでいる。

 アマリリは二羽の雁を携え、無感情に家路を辿った。帰ったところで彼女を待つ者は家にはいない。村の中心から離れて暮らす彼女を訪ねる者もほとんどなかった。

 だが、今日は例外らしい。遠くから見た住処の窓からは、かすかな灯りが漏れていた。

 ——誰かが来ている。

 村人。でなければ先ほど別れたあの男だろうか。どちらでもない可能性に備えて、鳥撃ち銃の装填を確認する。アマリリは自宅の扉を開けた。

「おかえり」

「ソフィア」

 食卓で手を挙げたのは村長の娘だった。先日成人の儀を済ませたばかりの彼女は、既に父親の地位を受け継ぐことが決まっている。アマリリとは生まれた時からの友人だった。

「来るならひとこと言ってよ。誰かと思ったじゃない」

「アハハ、ごめんね。びっくりした?」

「びっくりしすぎてぶっ放すところだった。ほんとに危なかったんだから」

ソフィアがここへ来る時の要件は、大抵が父親との不和と決まっている。アマリリはコートを脱ぎながら、何気ない調子で尋ねた。

「それで? 今日はどしたの。また、おじさんと喧嘩?」

「ハズレ。最近はお父様とも仲良しなのよ。今日はただ、あんたの顔が見たくなって……ほら、明日でしょ? アマリリの誕生日。緊張して泣いてるんじゃないかって、心配になっちゃったわけ」

 ソフィアは悪戯が見つかった子供のように笑う。

「昔は大変だったじゃない。おじさんの猟について行ったら『鉄砲が怖い』って泣いて、死んだ鳥の目が怖いって泣いて……堅パンに虫が湧いた時も泣いてたわね、そういえば」

「パンの時に泣いたのはソフィアもでしょ」

「そうそう。あの時は、あんたのお母さんが始末してくれたんだ。懐かしいな」

「……先に、今日の分を捌いちゃうね」

 アマリリは雁を片手に厨房へ向かう。友人とはいえ、他人の口から母のことをあまり聞きたくなかった。

 母が倒れた日のことは、今でも鮮明に覚えている。母の死は、人づてに聞いた父の戦死よりも、ずっとアマリリの生活に根ざしたものだった。その記憶は今でもアマリリの傷になっている。誰かがかさぶたを剥がす度、開いた傷口からは血が流れるのだ。

 獲物の血抜きは、既に済ませている。アマリリは機械的に雁の羽をむしった。内臓を取り出し、可食部とそれ以外を分ける。

「すっかり狩師ね、あんたも」

 いつの間にか、ソフィアが厨房に来ていた。

「それが、今夜の晩御飯になるってわけ?」

「まあね。……ソフィアは、あんまり見ない方が。また気持ち悪くなっちゃうよ」

「平気よ。あたしももう子供じゃないもの」

 ソフィアは内臓の一つをつまんだ。

「これが心臓。意外と小さいのね」

「ソフィア、触んない方が——」

「ねえ、アマリリ」

 村長の娘が、狩師見習いの言葉を遮った。ガラス玉のように澄んだ瞳が、まっすぐに少女を見つめている。

「今日会ってた男の人は、誰?」

「え……ああ。知ってるんだ」

「みんな知ってるわよ。この村のことだもの。兵隊さんみたいだったけど、あんたになんの用があったのかしら」

「……別に」

 アマリリは言葉を濁した。

「大した話じゃないよ。あの人はお父さんと同じ部隊にいたんだって。お父さんの最期がどんなだったのか、話しに来たんだ」

「それだけ?」

「首都に来ないかって言われた。今からでも学園を目指せるから、って」

「……そう。行くの?」

 まっすぐにこちらを見ているソフィアの瞳を、アマリリは直視できなかった。

「行かないよ」

「嘘。迷ってるのね」

 ソフィアの柔らかい手のひらが、アマリリの手を包んだ。

「ねえ、アマリリ。あたしたちずっと一緒だったじゃない。あたしが村長になっても、あんたが狩師になっても。これからも仲良くしていきたい。少なくとも、あたしはそう思ってる。あんたは違うの?」

「……違わないよ」

「なら、首都に行くなんて言わないで。ずっとここにいて。村長なんて大任、あたし一人じゃ務まらないわ」

「大丈夫だよ、ソフィア」

 幼馴染の瞳には、涙がいっぱいに溜まっている。アマリリはいつものように、その肩に触れた。

「大丈夫」

「うん」

「もう。子供じゃないんでしょ?」

「うん……」

 しゃくり上げるソフィアを、アマリリは抱きしめた。少女の指先から小さな心臓がこぼれ落ちて、床の上をかすかに跳ねた。


    ◆


 だが、その二時間後。アマリリは首都への旅支度を進めていた。ソフィアは既に帰宅し、ここにはいない。

 学園へ行き、図書師を目指す。家族を除けば、ソフィアはアマリリの秘密を知る唯一の村人だ。それどころか、アマリリが最初に夢を吐露した相手は、父でも母でもない、幼馴染の彼女である。二人がまだ、十歳にもならない頃のことだった。

 その時もソフィアは不思議そうな顔をして、アマリリを引き留めた。彼女の決意が固いことを知ると大声で泣き、大人たちを呼び寄せ……ひどく理不尽な叱られ方をしたことを、アマリリは今でも覚えている。

 互いに成長した今なら、あるいは——。

 アマリリの希望的観測は、さいぜん打ち砕かれた形だ。ソフィアはあの頃と何も変わっていない。この村は村長の娘にとって、何もかも快適な箱庭だ。村を出たがるアマリリの気持ちは、ソフィアにはわからないのだろう。

 あの日の彼女が流した涙は、アマリリを悪者に仕立てただけだった。だが、今のソフィアは、もう泣き叫ぶだけの子供ではない。次期村長の力を使えば、あの日よりもずっと効果的に、アマリリを村に留めておくことができるだろう。

親友の理解は得られなかった。穏便な旅立ちが期待できない以上、成人の儀が始まるよりも先に、村を立ち去る必要がある。

「よし」

 東の空が白み始めた頃、ようやくアマリリの荷造りは終わった。どうにか空にできたのは書棚だけで、家の中にはまだ、少なからず生活感が漂っている。そこには家族で暮らしていた頃の名残も含まれていた。

 アマリリはほんの一瞬、家を見回した。かすかな感傷。だが、もうこの家に帰ってくる者は誰一人としていないのだ。

 十五の朝日が昇ると同時に村を出る。街道沿いの森に身を隠せば、男との待ち合わせまでの時間はやり過ごせるだろう。儀式が始まるのは日暮れ前。その頃には、アマリリはもう村にはいない。夜逃げ同然の旅立ちではあるが——。

 コンコン。

 いきなり静寂に割り込んできた、硬質な音。アマリリは身を固くして、家の扉を凝視した。板を一枚挟んだ外から、ノックをしてきた者がいる。……夜明け前のこの時間に?

「誰?」

 返事はない。アマリリは鳥撃ち銃を手に取り、手早く装填した。

「ソフィア? 戻ってきたの?」

 扉の外には、複数の気配がある。だが、やはり返事はなかった。

「……違うなら、名乗ってください。こっちの手元には銃がある。どうしても名乗らないようであれば、今すぐ引き金を引きます」

 外の気配に動揺が広がる。ややあって、ようやく返事があった。聞き覚えのある、村人の声である。

「……村長様からの遣いだ、狩師の娘。扉を開けろ」

「村長の?」

 アマリリは銃を手にしたまま、扉の鍵を開けた。外には村人が数名、松明を掲げて待っていた。夜明け前にわざわざ、徒党を組んでやって来たらしい。

「何かあったんですか、こんな時間に」

「何かあったのか、だと?」

 困惑と憤りが、村人たちの間に走る。

「『成人の儀は夜明けと共に行いたい』。お前がそう言ったのだろう。村長はお前の……ソフィア様のわがままを受け容れなさった。お望み通り、儀式をこれからやってやる。一緒に公会堂まで来なさい」

「は? いや……ちょっと待って」

「なんだ。見たところ準備は済んでいるようだが」

「私は儀式なんて——」

 そう言いかけて、アマリリはぐっと飲み込んだ。この件を仕組んだのは村長の娘だ。村人は村長に言われてやって来たに過ぎない。

談判するなら、村長とソフィアを相手にしなければ。

「父と母に挨拶をして来ます。もう少しだけ、待っていてください」

 彼女の両親のことは、村の全員が知っている。これには文句は出なかった。

 与えられた時間はあまりない。アマリリはコートと帽子を身につけ、解体用のナイフを肩から下げた。支度した荷物の中から銃弾をありったけ掴み出し、押し込めるだけポケットに押し込む。再び銃を手に取り、アマリリは扉を開けた。

「その格好で行くのか」

 少女の狩師姿に、村人たちはたじろいだようだった。

「はい。私の晴れの舞台ですから」

 農師ならば鍬、鍛治師ならば槌を手に、儀式に参加するのが普通だ。村人たちは一瞬顔を見合わせたものの、物言いをつけることはなかった。

「いいだろう。ついてきなさい」

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