16 繰り返す

 僕は気が付くと、またあの灰色の部屋にいた。女がキャンバスに向かって絵を描いている。


「またダメだった」


 女は今までのすべての人と同じように言った。キャンバスの正面の位置を譲られたので、僕は絵の前に立つ。僕が絵に触れようとしたとき、女は口を開く。


「もう少しであなたの番よ」


 僕は頷いて指先で絵に触れる。次の部屋に進んでいた。何百、何千回も見た同じ夢なのに、今日はどこか夢の様子が違うような気がした。


 僕は絵の奥へ奥へと入り込んでいく。


 やがて、僕はその部屋にたどり着いた。初めてのはずなのに、入った瞬間にここが最奥だと理解できた。その部屋は、今までの部屋と全く同じ間取りで、灰色の壁、キャンバスがひとつと木製のスツールが二つ、灰色の絵の具と絵筆がそろっていた。しかし、この部屋に僕は一人だった。今まではキャンバスの前には絵を描いている誰かがいた。この部屋にはいない。


 僕は吸い寄せられるようにキャンバスの前のスツールに座った。パレットに絵の具を絞り出す。


 絵を、描かなければ。


× × ×


 早苗は上半身を勢いよく起こして、布団をはねのけた。


 一人で横になるには少々広すぎるベッドの横には誰もいない。早苗はベッドから下りるとすぐに机に向かい、ノートパソコンを開いた。画面がひび割れてはいるものの、十分に機能するそれを起動し、オフラインで小説編集ソフトを立ち上げる。


 早苗は一心不乱に小説を書きはじめた。


 この国や人間がすべてプログラムだったとしたら、それはおそらくなんらかのシュミレーションの途中なのだろう、と萩は予想した。情報社会、監視社会がどこまで持続できるかのテストでもやっているんじゃないか、と言った。


「じゃあ、僕らの全ての行動や幸福や人生に意味なんかなくて、ただの数字のデータで、僕らひとりひとりのデータは全体のシュミレーション結果に個人レベルでは全くと言っていいほど関係がないんですね」


「そうだね。俺たちは巨大なものの中のごくごく一部を担っているに過ぎない。今はこのシュミレーションの全体を見たときに俺たちのデータが一番新しいけれど、俺たちが生きたデータも、また次の人生に上書きされて保存される」


「忘れられてしまうんですね」


「覚えていてもらうって、いったい誰にだ?このプログラムを作った、正真正銘本物の人間にか?彼らにとっては君の一生はおそらく膨大な計算の過程の中のほんの一部でしかない」


「僕はこんな人生嫌です。僕はきちんと意志を持った一人の人間なんです」


「そう信じたっていいんだよ。どうせできないんだろうけど」


 萩はかわいそうなものを見るように早苗を見た。


 僕はこの世に何か遺す。僕の欠片を遺したい。この世界が夢の中の出来事のように実体のないもので、客観的にこの世界を眺めたとき0と1でしかないのなら、僕はそれを人々に伝えたい。伝えることで僕はこの世に僕の欠片を遺すことができる。


 僕はある意味ロボットのようなものだった。ロボットに生活を支配されることを嫌いながらも、僕もコンピュータの出した計算結果で動いていただけの0と1の集合体だ。ロボットの僕が創る創作物に意味があるのか?スマートシステムの中の仮想的読者、ロボットによる創作物の消費活動に意味はあるのか?僕は無いと思う。だから、この世界を壊さなくてはならない。


 僕はウイルスだ。木染先生の人生を黒塗りにしたみたいに、僕の書くこの小説で、他の多くの人の人生も黒塗りにしてやりたい。僕の小説は、小説の形をしているけれど、芸術なんかじゃない。そもそもこの世界の僕らに芸術なんかできるはずがなかったんだ。黒塗りのテロリズムで、この世界のプログラムにエラーを起こす。そうすれば、この世界を作った誰かは僕のことを忘れないだろう。


 玄関のチャイムが鳴った。早苗は舌打ちを漏らす。


「はい、どちらさま」


 早苗はドアスコープから玄関先を覗いた。そこには黒いスーツを着て黒いお面をかぶった人が5人ほど立っていた。その人たちのスーツの袖や襟から見える肌は、早苗が見たこともないような形状をしていて、早苗は思わずドアから後退った。墓守の花房からもらった黒い傘が倒れて音を立てた。その人たちはまるで、ヒトというものを座学による勉強で知っているものの、ヒトを実際に見たことのない者が作ったような、歪な形をしていた。煙をヒト型に押し込めているかのように絶えず揺らいでいて、煙のように揺らいでいるところにはぎっしりと黒い文字の0と1がうごめいているように見えた。


 早苗は玄関のチェーンロックをかけ、寝室に駆け戻った。時間切れだ。あれはウイルスを粛正しに来た政府の連中に違いない。小説はまだ書き途中だが、もうこれ以上は書いていられない。早苗は小説のデータをオンラインにアップロードした。


 玄関のドアがドンドンと乱暴に叩かれている。早く、早くアップロードし終わってくれ、と早苗は祈りながら読み込みバーを見つめる。こういう時に限ってバーは遅々として進まないように思える。


 やっとアップロードが終わる。この作品を見て、少しでもこの世界に違和感を持つ人がいたらいい。僕は時間があと一歩足りなくて、この世界を終わらせることはできなかったけれど、ならばせめて次の人にバトンを渡したい。


 僕は夢の正体に気付いた。あの夢は、僕が幼いころに読んだ小説の情景だ。あれは、僕の前のウイルス役が必死で僕につないだバトンだった。その人の執念が僕に毎夜悪夢を見せ、この世界を壊したいとまで思わせるに至った。


 閲覧者数に1がついた。僕の小説は、次の誰かにちゃんと呪いをかけられるだろうか。


 背中に気配がして振り返る。


 次の瞬間、僕は消えていた。


「またダメだった」

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ドロステの夢 岡倉桜紅 @okakura_miku

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