13 訃報

 二週間が経っても、まだ大家は早苗を追い出しに来ることはなかった。単に千葉が、早苗が自発的にこの部屋を引き払うのを待っているだけかもしれなかったが、その考えはいったん脇に置いて、早苗は家主のいない部屋にひとり居候をし続けた。


 この二週間、大学には一度も行かなかった。外に出ることすら億劫で、必要な買い物は全て宅配ですませた。ゴミが部屋に溜まっていき、山を作っていた。家事代行のロボットを呼ぶこともできたが、ロボットや、プログラムで動いている機械、生命のない物体すべてが気持ち悪く感じ、呼ばなかった。むしろ、かつてまでいた人ひとりぶんの穴を埋めるために、ゴミがそこに存在してくれているほうがいくらか満たされているような気すらしていた。


 早苗は浴槽にぬるま湯を張って、一日のほとんどの時間、服も着たままにそこに漬かり、天井の染みをぼんやりと眺めていた。割れた植木鉢に植えられていた観葉植物は枯れ、茶色くなって風呂場の床に縮こまっていた。


 すべての仕事には意味がない。ロボットやプログラムが意味らしきものを与えてくれていただけで、裏側の真実を知ってしまった後は、もう知る前に戻ることなどできない。仕事によって得られる幸福、感じられる幸せは全て政府に作り出された人工の虚構だ。すべてが虚構だと思ったら、今まで自分が自発的に幸せになるために選び、してきたと思っていた行動は、誰かにさせられていた、するように仕向けられていただけの虚しいことだったのだとしか思えなかった。


 たしかに僕は小説家に向いていないんだろう。


 早苗は千葉に言われた捨て台詞を頭の中で反芻した。


 今まで、文章を書くのが好きではあった。思うがままに自由に文字を連ねていくのは楽しく、自由を感じていた。この気持ちはきっと、自分の欠片をこの世に遺しておきたいといういわば生存本能に似たものであった。小説家という職業に就くことができれば、この欲求は解消されると信じていた。別に、自分の欠片がこの世に遺せればそれでよかったから、小説という表現手段に芸術性の有無などどうでもよかった。美しい物語や面白いお話を作るのが目的ではなかったのだ。美しい話を書いたところで、その書くという行為自体に喜びや幸せを見出すことができない。小説を書いているという行為を仕事にしてしまいたい、自分の仕事にしてしまって、自分がこの世から消えて忘れられてしまうということの恐怖から解放されたい。そういうことしか思っていなかった。


 それが、本当の小説家、千葉との決定的な差だった。千葉は、美しい物語を創るその行為自体に幸せを感じていた。自分の人生を物語と重ね合わせ、美しい一生を送ることを目標にしていた。美しさが一番の重要なことだったから、彼女にとっては、この世の虚実などどうでもよかったのだ。


 僕が彼女のそばに居続けたのは、彼女の職業が純粋な小説家であるから。物語を創ることに幸せを感じられるその態度が、うらやましく、綺麗に思えたのだ。彼女の作品をひとつも読まなかったのは、どうでもよかったから。創作をする彼女の姿勢が好きなだけでいっしょにいる理由は僕にとっては十分で、彼女の創作物が好きであることは必要ではなかった。僕にはあまり、作品の美しさというものがわからない。


 僕らは、小説を書けば幸せになれる、という信念が一致しているように見えても実は、根本的なところが違った。僕の一番大切なものは僕自身で、彼女の一番大切なものは作品の美しさだったのだ。


 厄介なことに僕にとって一番大切な僕の心は、嘘や虚構を受け入れられないという非常に生きづらい性質を持っていた。この一人の部屋は、完全に100%、この僕の心のせいでできあがっていた。


 浴槽の底に沈んだスマートフォンの画面が光ったので、早苗は緩慢な動きでそれを拾い上げた。自分に連絡してくるような稀有な人間がいただろうか、と届いたメールを開いてみると、大学で同じ授業をとっている学生だった。


『最近授業で見ないけどどうした?あと今日飯行かね?』


 二週間姿を見せていない相手に対してはやや軽薄すぎる調子のメールだったが、それは彼なりの気遣いの表れかもしれなかった。


 スマートフォンを操作し、数日ぶりに今日の曜日を確認する。


「創造学には出ようかな……」


 早苗はようやくふやけ切った体を浴槽の外に出した。


× × ×


 久しぶりに出た家の外は、少しだけ季節が進んでいて、じめじめとした湿気と、ほんの少しの雨の匂いが辺りに立ち込めていた。


「よお」


 大学の渡り廊下でばったりとその学生に会った。早苗は小さく手を挙げて応える。


「久々だな。それじゃ、さっそく昼飯と行こうぜ」


「昼飯?僕はてっきり夕食の話かと。だってこれから創造学の授業じゃないか」


 堂々と内職や昼寝をする学生が多い授業科目ではあるが、出席日数が足りなければ卒業単位が危うくなることは、彼も承知なはずだ。


「ああ、先週休んでたお前は知らないのか。創造学の先生は、先週亡くなったそうだぜ。だから履修者全員に単位をばらまいて今学期の授業はこれ以降無し」


「え、亡くなった?何を言っているんだ?」


「ご愁傷様だよな。そこまで高齢でもなかったのに。俺、あの授業割と好きだったな」


「先生は……、木染先生はどうやって死んだんだ?!」


 早苗は学生の両肩を掴んで聞いた。気迫に驚いて学生は少し目を見開く。最後に先生に会った時、先生は健康そのもの、というように見えたし、突然の死はあまりにも不自然に思えた。


「さ、さあな。俺も学生の間に流れてる噂程度しか知らねえけど、心筋梗塞とか、脳梗塞とか、突然の死だったって説が濃厚らしいぜ。研究室に一人でいたときに急になったらしくて、誰も助けられなかったそうだ。人が一人死んでいるから研究室は当然使用禁止になって、いろいろな手続きがあるのか知らないが、政府の連中がしばらく出入りしていたのを見た」


 政府、という言葉に早苗はぞくりとする。この国の国民から働くことの意味を奪い、この国をおそらく意図的に停滞させている、顔の見えない権力者。


「おい、真っ青だぜ。大丈夫かよ。最近授業にも来てなかったし、何か困ってることがあれば話してくれよ」


 学生はやさしく言った。渡り廊下の柱の間から中庭に出て、早苗をベンチに座らせる。早苗は、その温かな親切に、胸の内をすべてぶちまけてしまいたいと思ったが、ある可能性に思い至り、言葉を飲み込んだ。


「すまない、今は話したくないんだ。ただ、僕と先生はこの国について個人的に議論する機会があって、そのせいで思い入れが深い人だったんだ」


 ある可能性とは、先生の死に、政府がなんらかの形で関わっている可能性だった。この国の国民は皆どこかしらで監視されているので、もし、先生が政府にとって都合の悪い行動をし、突然の死がその結果なのだとしたら、おそらくその都合の悪い行動というのは僕の発言の影響があるかもしれない。彼にまで秘密を共有してしまったら、後々どのようなことが起きるかわからない不気味さがある。


「わかった。辛いときは無理しない方がいいぜ」


 学生は早苗の背中に手を置いて言った。


「ごめん、食事はまた今度にしよう。僕はこれから行きたいところがあるんだ」


「オーケー、じゃあまた今度な」


 早苗はベンチから立ち上がると、大学を後にした。

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