12 アイスココア

 目を開ける。顔に光が差し込んでいて目が眩む。全身に汗をかいていた。夢から醒めたのだとわかる。


 早苗はゆっくりと身体を起こす。風呂場のひんやりとした固い床の上で眠っていたらしく、背中や肩がひどく痛んだ。あたりを見回すと、観葉植物の植木鉢が倒れ、アロマキャンドルとノートパソコンが床に散らばっていた。壁の上の方にある明かり取りの窓から差し込む日光の様子を見るに、すでに正午は超えているようだった。


 早苗はゆっくりと立ち上がり、ドアの鍵を開けると、風呂場の外に出た。誰もいない部屋はしんとしていた。眠る前のことを思い出す。三年間も生活をともにした恋人の姿はもう跡形もなく、洗面台の歯ブラシ一本すら置いて行ってはくれなかったようだった。もともとこの部屋は彼女の契約で借りているものだから、そう遠くないうちに大家に追い出されるのだろうが、それはまだ今日ではないようだ。


 痛む肩をほぐすように軽く回しながらリビングのテーブルに座る。イスを引く音がやけに大きく聞こえた。


「スマートテレビ、ニュースを」


 早苗がスマートテレビに向かって言うと、すぐにニュースが映し出される。


『政府は、全国スマートシティ化を進めるため、全家庭にスマートハウス導入を義務付けする法律案の原案を発表しました。早ければ来年には公布されるとのことです。現在、スマートハウス導入率は70%であり、あと一歩という現状です。すべての家庭がスマートハウスであることが実現した場合、国民の健康や幸福の調整やきめ細やかなサポートが可能になるという見込みです』


 スマート家電の利用方法やメリットを解説するイラスト付きの画像が映し出される。


『例えばスマートトイレの場合、毎日の排便をデータ化し、体調の異変をいち早く察知して、適切で早期の治療を可能にします。スマートバスの場合、ただ浴槽に横になるだけで全身が洗えるだけでなく、皮膚や髪の状態をデータ化し、病気の可能性を探るとともに、適切な薬を泡の中に入れて洗うことで、アトピーや皮膚炎などの直接的治療すら自宅で行えるようになります。スマートキッチンの場合、利用者それぞれの好みや食事パターンをデータ化し、幸福度を最大化するように食事を準備することも可能です』


 早苗はイスから立ち上がり、自らの手で飲み物を用意した。冷たい牛乳にパウダー状のココアを融かしてスプーンでよく混ぜる。スプーンを置いたシンクに残っていた、千葉のマグカップの飲み口に、赤い口紅がついていた。彼女はもういない。


 部屋が暗くなったような気がした。半日前まで彼女は確かにここにいた。疑いようもなく、一人の人間、実在する、本物の、取り換えることのできない僕の恋人としてここに存在していた。


 早苗はシンクの中にある汚れた皿を掴んで、目の前に持ってくると、鼻先が接触せんばかりの至近距離で皿の表面を見た。彼女の痕跡が見つけたかった。フォークやナイフも残らず凝視し、口紅や髪の毛を探し回った。フォークの先を口に入れる。少しだけ、二人で食べた今日の朝食のケチャップ付きスクランブルエッグの味がした。


「花月の言うとおりだ。どうして黙っていられなかったんだろう。僕が一生、黙っていればそれでよかったじゃないか。彼女には真実を告げず、嘘で守り抜いてやれればよかったのに」


 早苗はキッチンにうずくまった。すりガラスのぼやけたドア越しに話したあの時を思い出す。


「でも、それができなかった……」


 真実、確かなものを信じ、貫きたいと思う自分の心に従った結果、一番確かなものを失った。確かで、大切な人だった。

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