5 先生

「君、少し残ってくれないか」


 教室を出ようとした早苗は、後ろから声を掛けられて振り返った。スーツを着た初老の男、『創造学』の先生だった。首から下げたネームプレートには木染こぞめとある。


「ええ、まあ。……少しだけなら」


 この後特に予定があるわけではなかったが、早苗はわざとらしく腕時計をちらりとやってから答えた。プレゼンテーションを終えて講堂を出て行く生徒たちの波に逆らうようにして先生の前まで戻った。生徒たちがあらかた講堂から出て行ったのを見計らってから木染は、出口の方を手で示して、いっしょに講堂を出るように促した。


 あまりにも準備不足のプレゼンについて何か注意を受けるのだろうか、と少し身構えながら早苗は木染の後をついて廊下に出た。明らかに自分のせいではあるが、いささか代償が大きいように思える。早苗と同じくらい適当な発表をしたやつは他に何人かいたはずだ。


「早苗君、だね。時間をくれてありがとう。よければこれから少し私と話をしていってくれないか」


「話、と言いますと」


 早苗と木染は大学構内の広い渡り廊下を歩いた。等間隔に立てられた白い無機質なデザインの柱の間に窓は無く、中庭に植えられた楓か何かの木陰が廊下まで緑色の陰を伸ばしていた。


「君の発表についてだよ。君の発表は非常に興味深かった」


「興味深い?」


 木染が廊下から外れて中庭に入って行き、ベンチを手で示すので、早苗は促されるまま腰を掛ける。


「僕はてっきり、準備不足を叱られるのかと」


 木染は少し微笑むような顔をする。


「私は生徒が多少適当にやったところで叱ったりしない。この大学のどの教授よりも甘いと思うよ。『創造学』を履修して、出席とレポートさえ提出している生徒なら全員に単位を差し上げているくらいだ。毎日課題に追われる生徒にとって、楽に取れる単位というのは一定数必要だろう?特に、この大学はプログラマーを育成する教育機関の中でもかなりエリートが集まっていると言うし、専攻以外のところで躓いて欲しくないんだ」


 全員こういうスタンスの教授だったらいいのに、と我儘にも早苗は思ったが、口には出さず、曖昧に頷くにとどめた。


「先生は確か、他の大学で教えられていたことがあったとか」


 初回の授業の木染の自己紹介をきちんと聞いていたというわけではなく、木染のネームプレートの肩書をちらりと見たときに目に入ったので、早苗は言った。


「そうだね。いろんな大学で創造学を教えた。私は創造学という学問が好きでやっているものだから、授業をするからには、生徒にはその面白さをわかってもらえなければいけないと思い込んでいた。若いころはね。でも、多くの学生はそこまで真剣に創造学を修めようという気がないということに気付いてからは、楽単という身分を甘んじて受け入れることにしたよ。私は壇上で好きなことをしゃべり、生徒たちはとりあえず席に着いて好きなことに時間を使う。どうせ、履修者全員に単位をやろうとやるまいと私の給料は変わらない」


 ずいぶんとあけすけに物を言う。早苗は、今まで顔も名前もおぼろげだった先生を急に身近に感じた。先生の優しさと諦めによって許されていたとはいえ、あんなに堂々と突っ伏して睡眠をとることはなかった、と早苗は少し過去の自分を顧みた。


「僕はちょっと好きなことに時間を使いすぎてしまった感じですかね」


 早苗が殊勝に言うと、木染は首を振った。


「君を咎めたい気持ちは一切ないんだ。君の発表は確かにスライドの出来が粗雑だったり、人に理解してもらおうという気概はあまり感じ取れない印象を受けたけれど、僕が気になったのはその内容だ。君は、人類史に絡めて今の時代について考察をしていた。そのうえで、人間にとっての創作欲というものは本質的にどういうものなのかを論じた」


「そうですね。創造学の分野というよりは、社会現象学の分野に入り込んだ話になってしまったので、専門家の方から見れば素人臭かったと思いますが」


「素人なのは当然だ。しかし、長年その分野を勉強していたとしても、学問的に新たな切り口を見つけるというのは誰にでもできることではない。ブレイクスルーは案外、その埒外の発想から生まれるかもしれないんだよ」


「先生には、僕の発表が学問的ブレイクスルーに見えたんですか?」


 木染は少し首をひねった。


「そうなのかな。実を言うと私もよくわからないんだ。ただ、君の話を聞いているときに、頭の中で稲妻が一瞬光るような閃きを得たような気持ちになった。漫画的な表現かもしれないけど、頭の上で電球が光るような感じだ」


「ふうん」


 木染はまとまらない考えを頭の中でこねまわすように中宙を見つめて少し黙った。中庭にはベンチに座った学生や、芝生に座り込む学生、木の下に座ってノートパソコンでなにやら作業をしている学生などがぽつりぽつりといた。学生たちの話し声は遠く、若い葉のこすれる音と混じって微かに聞こえていた。


「私が創造学にのめり込んだのは、幼いころだった。子供は誰しも一度は、人間という命はいずれ必ず死ぬということを悟る時があると思う。私はその悟りを得たとき、人間の存在の意味や自分の存在の意味というものをたくさん考えた」


「僕も死を知ったときは怖かったです」


 物語を読んで死の概念を知ったとき、自分の親に泣きながら話したことを早苗は思い出した。


「死というものは根源的に恐ろしいものだけれど、私はその恐怖を忘れるために学問に打ち込んだ。学問をしていれば、なんだか自分が生きる意味というものが自然についてくるような気がして気が紛れていた。でも、その認識について私はずっと違和感を感じていた。学問を生きる意味に当てはめたから気が紛れたと思っているけれど、本当にそうなのだろうか。私の違和感は今の今まで奥歯に挟まった魚の小骨のように頭の中にあり続けていた。君の発表の中で、人は自分の何かを後世に遺すために作品を創る、という言葉があった。その時私は、今まで感じてきた違和感が解消されたような気がした」


「先生は今まで自分が学問をする意味がわからなかったけれど、僕の言葉でその意味がわかったってことですか?」


「わかったというよりは、閃いた。私は、学問に自分を後世に遺す可能性を見出したんだ。幼いころの決意だったから、おそらく本能的に。創造学を選んだ意味はたぶん深いものはないけれど、学問を始めた意味というのはこれだ。死ぬ前に学問の中でなんらかの発見をすれば、研究して文献を書けば、それが遺る。私が死んでも、私という存在を未来まで遺すことができる」


「なるほど。先生の気持ちをスッキリさせることができて僕は嬉しいです」


 先生に急に呼び出されたことへの緊張はとっくに解けていた。話題には正直、身構えていた分拍子抜けしたが、先生もいい気分のようだし、そろそろ帰るとしよう。


「それじゃ、僕はこの辺で失礼します」


 早苗がベンチから腰を浮かせた時、木染が言った。


「君は小説家になるといい」


 話のつながりが見えなくて、早苗は木染の顔を見る。木染の目は真剣な色を帯びていた。


「君が小説を書きたいのは、君が後の世の中に、君の欠片を遺しておきたいという本能なんだろう?」


「僕の発表に照らせば、そうですね」


 早苗は立ち上がった。自分の横に置いてあったリュックサックを肩にかける。


「でも、まず今僕はプログラマーになることが先決です。小説はその後でもプログラマーやりながらでも書きますよ」


「二つの職を全うすると?」


「下衆い話ではありますが、プログラマーになれば稼げるって話なので」


「それは難しい」


 木染は言った。早苗は身体を木染に向け直す。


「難しい?どういうことですか?」


「プログラマーとそのほかの職業の両立というのは、君が思うよりも簡単ではない。君はなぜこの国がこんなにプログラマーを優遇する形に変化しているかわかるか?プログラマーの職務が大変だからだ。その上数も足りていない。一度プログラマーになれば、国ぐるみで手放したくない人材のはずだから、プログラムの業界から出ることは非常に難しいだろう」


「……」


 木染はスーツの胸ポケットの中から一枚のカードを取り出し、早苗に差し出した。QRコードが印刷されているだけの、プラスチック製なのか、少し厚みのあるカードだった。


「今日の発表を見に来ていた中の一人、私の友人でもあるプログラマーの連絡先だ。君をインターンシップの枠に推薦しておくから、彼のもとで一度、プログラマーとしての仕事を見てみると良い」


「インターン?僕が?」


「特別枠だ」


 木染はそう言うと、立ち上がり、渡り廊下の方へ歩き出した。話はこれで終わりらしい。


「どうも」


 早苗はその後ろ姿にそれだけ言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る