2 朝食

 勢いよく布団をはねのけて、上半身を勢いよく起こす。


 全身が震え、汗びっしょりだった。荒い呼吸の中、周りを見渡す。カーテンの薄い隙間が、早朝未満の外の光でぼんやりと明るい。ベッドサイドに置いた目覚まし時計は、緑の蛍光色でAM4:05と表示していた。


「んぁ、なにぃ、まだ早くない……?」


 横から眠たそうな声が聞こえて目をやると、はねのけられた布団を求めて目を瞑ったまま手を動かす彼女がいる。


 荒かった息が落ち着いて、さっきまでの悪夢から一気に現実に意識が戻った。全身の震えが収まり、早苗仁さなえ じんは長く息を吐きだした。


「ごめん、なんでもない」


 早苗は布団にまた潜り込み、恋人の顎の下まで布団をかぶせてやると、彼女は安心したようにまた眠りに戻っていった。早苗はそれを確認すると、身体の位置はそのままに、ベッドサイドテーブルに手を伸ばした。目覚まし時計の横に茶色の小瓶と、水の入ったグラスが置いてある。早苗は水なしで小瓶の中身の錠剤を一つ飲み込むと目を閉じた。


× × ×


 テレビのニュースの音と、パチパチとフライパンの上で油が跳ねる音がする。食器が机に並べられる音、トースターのベルの音。


「仁、そろそろ起きないと遅刻するよ」


 早苗は目を開ける。カーテンは大きく開けられて、明るいさわやかな朝日がダイニングテーブルに差し込んでいる。目覚まし時計を見るとAM7:15を示していて、3時間ほどぐっすりと眠れたのだということが、気持ちの良い目覚めからも実感できた。


「朝食、ありがとう」


「今日は重要な発表があるんでしょ。ちゃんと食べておかないとお腹すくよ」


「世間一般では重要とされているだけだよ。僕にとってはあまり重要でも特別でもないプレゼンだ。とりあえずしさえすれば卒業単位を稼げる。それだけだ」


 早苗は着替えてテーブルに着く。目玉焼きとベーコンの乗ったトーストとサラダ、ヨーグルト、くし形に切られたオレンジという、時短ながらもボリュームのある典型的な朝食に、様式美的な充実感を感じる。


 千葉花月ちば かづきは、早苗と同棲をして3年になる女だった。生活の細部まであまり手を抜かない丁寧な性格の千葉は、たびたび早苗に朝食を作ってくれることがあった。早苗は朝食は面倒なので基本食べず、一方で千葉はきちんと食べるスタイルであり、まったく噛み合わないように思われるが、普段はお互いの意志を尊重し、時々気が向いたらどちらかが食事を作っていっしょに食べるなどしていた。


 生まれも性格の違う人間二人が衝突せずに気持ちよく生活していくには、お互いのスタイルの尊重と、ほんの少しの無関心というバランスが非常に重要であることを二人は知っていた。


「アイスココアでいいよね」


「ああ、おねがい」


 早苗は、特別な日でもないのに美しい朝食を作ってもらうことにやや申し訳なさを感じたが、マグカップに飲み物を作る千葉の後ろ姿を見て、むしろなんでもない日にほんのちょっぴりの幸福を得られる喜びをかみしめた。明日は大学は休日だし、僕が彼女に朝食を作ってあげてもいいかもしれない。


 手持無沙汰で、彼女が席に着く前にオレンジを一つつまみ食いしながらテレビに目をやる。


『来年、新たにプログラマーになる若者には、特別プログラマー補助金Ⅲを支給する方針だと政府は発表しました。現在のプログラマー不足の状態を打破し、高まるプログラマー需要への解決を見込んでいるようです。現行の特別プログラマー補助金Ⅱとの相違点は、』


 早苗はプログラマーを育成する大学の生徒であった。近年、世界的に社会の情報化、機械化、自動化が進み、スマートフォンをはじめとして、スマート家具など、総称してスマートアイテムと呼ばれる生活を便利にする道具が山ほど発明された。今早苗が見ている超薄型テレビだって、頭の中で「チャンネルを変えて」と命令すれば切り替わるし、千葉の見たい番組と相違があれば画面分割を行う。


 ともかく、このようなスマートアイテムを動かすプログラムを作る人材の需要が急激に高まっているのであった。


 政府は全国スマートシティ化を目標に掲げ、国を挙げて優秀なプログラマーの育成を始めた。その政策はかなり力の入ったもので、プログラマーをこの世で一番尊く素晴らしい職業だと言うかのように全メディアに宣伝を促し、プログラマーの処遇を良くして特別扱いした。プログラマーになりさえすれば、政府が生活のなにもかもを保証してくれて、一生涯安定した生活を得られるような仕組みづくりを徹底した。


「また補助金上げるんだ。国民全員強制プログラマー時代がすぐそこまで来てるね」


 二人分のマグを持って席に着いた千葉が言った。千葉は大学には行っていない。将来はプログラマーではなく、小説家になるべく、日夜パソコンに向かって小説を書いていた。


「集団圧力って言うのかな。政府は世間の空気を操作している」


「憲法では職業選択の自由が認められているはずなんだけれどね」


 早苗は、やや諦観的な口調でぼやく千葉を横目に、千葉の差しだしたマグからアイスココアを一口飲んだ。


「美味しい。君の作るココアはいつも最高だ」


 二人の暮らすマンションは、大学生の一人暮らしのための部屋よりは広いが、二人で住むにしては小ぢんまりとした部屋で、自動化が進んだスマートハウスというわけではなかった。後付けのスマートテレビやスマート空調はあるものの、世間一般のスマートハウスよりは自動化が進んでいなかった。


 世間一般のスマートハウスなら、材料を入れて食べたいものを思い浮かべるだけで高級レストランで出てくるような食事が完成するスマートキッチンや、毎日の排便の様子を記録して体調管理をしてくれるスマートトイレ、床が動いて歩くことすら必要ないスマートフローリングなどがデフォルトで完備され、自分で手を動かす必要のない最高にスマートな家なのであるが、二人は今の家で満足していた。


 今飲んでいるココアのように、高級レストランでは出てこないかもしれないけれど、自分のお気に入りの手作りにしか出せないおいしさはあると信じていたし、恋人が自分の手を動かして作ってくれる料理というものに価値があると信じているからだ。


「でしょ。スマートキッチンにしないほうが私たちには合ってる。なんでもスマート化したら、まるでロボットに生活を支配されているみたい」


 よく千葉は、「ロボットに生活を支配される」と言った。生活の大事なところをロボットに任せきりにしていたら、自分の人生なのに、自分でやることがなくなっていってしまう。それは人生を支配されているようなものなのだ、と言った。そして決まって、私たちは人間なのだから、ロボットの作ってくれる便利さ、それから生まれる幸せに依存しすぎては危険なのだ、と続けた。


「僕はその、生活を支配しようとしているロボットをつくりだすという仕事につかんとしているプログラマーの卵なんだけど、そんな話をしてもいいのかな?」


 早苗は少しおどけたように言って千葉をからかった。


「仁はプログラマーになりたくてなるんじゃないでしょ」


 千葉は笑って言った。早苗は幼いころから両親にプログラマー育成のための教育を叩き込まれてきた。最も重宝されるプログラミング技術を持つ、社会的に地位の高いエリートではあったが、それは早苗自身の意志ではなかった。


「副業でなるだけさ」


 早苗の本当の夢は、小説家になることだった。千葉という女に魅かれたのも、彼女のその夢のせいかもしれなかった。


 しかし、プログラマーという社会的肩書はとても便利だ。なりたくはないが、とりあえずプログラマーという肩書だけは得て、補助金で財産を肥やしたその後は千葉といっしょに小説でも書いて暮らしたいと思っていた。政府のプロパガンダの言いなりに生きるのは、千葉の言葉を借りれば、人生を両親や政府に支配されているように感じる。


 ニュースキャスターがそろってお辞儀をした。ニュース番組が終わる。


「そろそろ行ってくる」


 早苗はヨーグルトの最後の一口を飲み込むと、ノートパソコンしか入っていないリュックサックを掴んで玄関に向かう。


「行ってらっしゃい」


 千葉が、靴を履いて振り返った早苗の首にしがみつくようにして顔を寄せると、浅くキスをした。


「珍しい。君がそんなことをするなんて。何かの儀式かい?」


 早苗が少し驚いて言うと、千葉は少し目を細めるようにしていたずらっぽく言った。


「知ってる?昔の時代の男女って、粘膜の接触で愛を確かめあっていたんだって」


「わかった。今そういう小説を書いてるんだろ」


「そう。昔の人間は、今の人間の何十倍も性欲ってやつが強かったんだってさ」


「僕らもそういう愛の伝え方をした方がいいかな。君が好むならするけど」


 千葉は早苗の首に回した腕を解く。昔の時代とは違って、現代では粘膜接触は特殊プレイに相当する。


「別に。仁がどんな反応をするのか見てみたかっただけ。ほら、私たちの生活ってさ、まわりの人たちの生活よりは、昔の人の生活のほうが似ている気がするし」


 まわりの人たち、というのは、スマートホームに住む、ロボットに生活を支配されている人たちのことを指しているのだろう。僕らはこのスマート化が進む時代に、スマート化を嫌って抗い、古臭い手作りを好む変な奴だ。昔の人のやり方に倣って愛しあってみるのも、なかなかハマるかもしれない。


「じゃあ、帰ったらやるよ」


 早苗は千葉の顎に片手を添えるとその唇にキスした。千葉はぽかんとした表情をしていたが、玄関のドアが閉まる直前に早苗が手を小さく降ると、すました顔を作って腕を組んだ。

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