ドロステの夢
岡倉桜紅
1 夢
「またダメだった」
男は筆を置いて、僕の方を見た。顎鬚と節の目立つ手、よれたエプロンは絵の具で汚れていた。
僕は角スツールの上から立ち上がり、男のキャンバスを覗き込んだ。キャンバスには、この部屋の絵が描かれていた。六畳ほどで、コンクリート打ちっぱなしの部屋の空気は、灰色に淀んでいた。灰色の絵の具をふんだんに使ったキャンパスは、保護色に守られたカメレオンのように、存在感をひっそりと隠していた。
よくできた模写だった。窓は無く、家具らしき家具も無く、木製のスツールが二つとキャンバスが一つしかない殺風景な絵だった。男二人が黙って座っているには少し狭いサイズ感や、灰色でどことなく冷たく沈んだ空気感までよく表現されている。
現実の部屋と違う点は、キャンバスの前には年老いた男ではなく、若い女が座っていて、見守る僕の姿が無いことだった。
僕は男の肩に手を置いた。男は僕をガラス玉のような無感情な目で眺め、やがてキャンバスの前から退いた。
僕はキャンバスの表面に手を触れる。少しざらついた感触と、まだ乾ききらない絵の具の粘り気のある冷たさを感じる。
次の瞬間、僕は絵の中にいた。まるで瞬きの間に瞬間移動したのか、それとも、キャンバスの生地が実はカーテンみたいな膜に隔てられた、隣の部屋に繋がる窓で、触っただけで隣の部屋に侵入してしまったかのようだ。
僕の登場に、さっきまで絵の中にいた女、今は僕のすぐ目の前にいる女が、ちらりとキャンバスから視線を上げて僕の方を見た。若々しく、張りのある肌だが、幽霊のように青白く、灰色の絵の具で汚れた手の甲の血管が良く目立った。
女は筆を置く。
「またダメだった」
僕は絵を覗き込む。灰色の部屋が描かれている。家具は無く、スツールが二つとキャンバス、その前に座る一人の青年。僕は今度は絵に触ることなく、絵に顔を近づけてよく観察する。絵の中の青年が向き合っているキャンバスの絵には、灰色の部屋が描いてあった。
女は自分が座っていたスツールから立ち上がり、僕にキャンバスの前を譲った。
部屋の絵の中にまた同じ部屋の絵があって、その絵の中にまた同じ部屋の絵がある。合わせ鏡みたいに、永遠に続いているのだった。
僕は絵に触れる。半ば予想していたことではあったが、ひと瞬きの後に僕の目の前には青年が現れた。僕はまた次の絵の中の部屋に入り込んだのだ。
青年が僕の存在に気付いて筆を置く。
言うな、と僕は反射的に思った。その言葉は聞きたくない。体中がぞわりと総毛立ち、得も言われぬ不快感が一瞬にして頭を占める。
青年の薄い唇が浅く息を吸い込む。頼む、言わないでくれ。僕は頭の中で懇願した。
「またダメだった」
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