天狗の隠れ蓑

増田朋美

天狗の隠れ蓑

蘭のもとに杉ちゃんが訪ねてきた。しかも、一人だけではない。一人の女性を一緒に連れている。杉ちゃんの言い分によると、なんだか自殺をするかもしれないというので止めなければならないと思ったから連れてきたというのである。

「ほっとくわけにはいかないでしょう。これもなにかの縁だと思ってさ。それに自殺を完遂するとこ目撃してしまったら、僕らが自殺幇助で捕まっちまうかもしれないし。」

と、杉ちゃんは言うのである。蘭は、とりあえず二人にお茶を淹れてやりながら、また大変なやつが来たなと、正直思わざるを得なかった。

「それで、お前さんの名前は何ていうの?」

杉ちゃんは、その女性に言った。

「おい、名前くらい名乗ってもらわないと、これからお世話をするにあたって、なんて言っていいかわからないじゃないか。黙ってないでさ、何か言ったらどうなの?」

「はい、佐藤真奈と申します。」

女性は小さい声で言った。

「おお!やっと口を効いてくれた!これで僕らのことを、信用してくれたんだな。それなら、なんで、電車に飛び込もうとしてたのか、教えてくれるか?」

杉ちゃんがいうと、女性は、それはちょっとと小さい声でいうのであった。

「何だ。名前を名乗ってもらったんだから、理由もちゃんと話してもらわないと困るんだけどなあ。それに僕、答えが得られるまで、ちゃんと質問する正確だからな。始めから聞かせてもらうぜ。それで終わりまでちゃんと話してもらわないと、こまるんです。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、蘭もようやくなにか重大なわけがあるんだなと感づいて、

「無理のない範囲で良いですから、お話をきかせていただけないでしょうか?」

と、彼女に言った。佐藤真奈さんは、これでは、話さないとだめだなと度胸を据えてくれたようで、

「はい。それでは、お話します。あの、失礼ですが、佐藤春香という女性をご存じないでしょうか?」

と蘭と杉ちゃんに言った。

「佐藤春香?何か聞いたことある名前。」

杉ちゃんがそう言うと、

「あの、失礼ですけど、女郎さんのようなオペラ歌手と言われる佐藤春香さんですか?確か、すごい有名な人だけど、あの、定期演奏会があることを良いことに、」

蘭が急いで言った。それを聞いて佐藤真奈さんは激しく泣き崩れた。

「ああ、つまりそういうことね。まあでもねえ。有名になりすぎると、周りの人のことが見えなくなっちまうっていうからね。その事件のことは、結構報道機関でも報道されてたからさ、新聞読めなくても知っているよ。確か、定期演奏会の練習があると言って、一ヶ月家に帰らないで、息子さんを家ん中に閉じ込めた女だよな。息子さんはそれで、予定通り死んでしまった。確か名前は、佐藤正男くん。違うかい?」

杉ちゃんは、ここまでを一気に話した。それを聞いて真奈さんは更に泣き出してしまった。つまり真奈さんは、佐藤春香さんのお母さんなのである。

「ええ、まさしくその通りなのです。あたしが、もっと春香を厳しくしつければよかったと周りの人から叩かれっぱなしで。中には、春香を甘やかしすぎてあんな事件をさせたんだって、変なはがきが届くなどして、気がついたら、電車に飛び込もうとしてました。」

と、真奈さんは涙を拭くのを忘れて、そういうのであった。

「まあねえ、娘さんのしたことは確かに悪いけどさあ。でもねえ、そういうことは、必ずなにかおっきな理由があって、それにぶっ潰されちまったからっていうこともあると思うんだよね。だから、そういう事件が起こると、法が改正されたり、国が動いてくれたりするわけでしょ。だから、その大きな理由を、話さないとだめだと思うんだよ。僕ら、このこと誰にも言わないから、ちょっと話してみてくれないか。ここにいる蘭だって、そういう奴らをいっぱい扱ってるんだ。こいつに背中を預けたやつは、刑務所入ってたりして、自分しか頼れる人がいなくなっちまった人間もいるんだよ。それで、神様が守ってくれると解釈するしかなくて、観音様をほってって言ったやつもいる。そういうやつを相手にしてるから、話を聞くのは慣れてるよ。」

杉ちゃんがそういうと佐藤真奈さんは、

「じゃあ、お二人は、車椅子に乗っていらっしゃるけど、刺青師さんなんですか?」

と聞いた。

「ええ、まあそういうことなんです。確かにいろんな経験をした女性を相手にしましたので、先程言われるような女性も中にはいました。」

と蘭は、ちょっと恥ずかしそうに言った。

「それで、誰か、弁護士をつけるとか、そういうことはしましたか?国選弁護士ですと、適当に選ばれて、適当に仕事するしか無いあまり力のない弁護士があてがわれてしまって、適切な結果が得られなかったという人もいました。なので、弁護士を選ぶことは医者を選ぶことと同じくらい大事です。お母さんなのですから、それはしっかり選んであげ無いと。」

「ええ、それが、そうしなくちゃいけないことはわかっているんですけど、体が動いてくれなくて、何かまだ、なにかの間違いではないかっていう気持ちがあるのかなと思ってしまうのでしょうか。私は、なんてだめな母なんだろう。」

真奈さんがそう言うと、

「だから、そんなこと言っちゃだめ。じゃあ、今から、御殿場の小久保さんの事務所に行ってさ。やってもらえるように話をしようぜ。まあ、さほど忙しくなければやってくれると思うよ。仕事が増えるというのは、良いことだって小久保さんも言ってたからねえ。」

杉ちゃんがすぐいった。真奈さんはまだどうにもならないという顔をしていたが、

「いや、これは杉ちゃんの言うとおりだと思います。こういうときは、何があったかを知るのはもうちょっと先で、じゃあどうするかを考えなければなりませんからね。幸い、富士市は障害者でも乗れるタクシー業者もありますからね。すぐに電話しましょう。」

と、蘭はスマートフォンを取って電話をかけ始めた。そして、10分くらいしたら来てくれると言った。その通り介護タクシーは、蘭の家の前にやってきてくれて、蘭と杉ちゃんと、真奈さんは、急いでタクシーに乗り込み、御殿場駅の近くにある、小久保法律事務所に向かっていったのであった。

御殿場駅は、高速道路を走ってしまえば、30分くらいでつくものである。蘭たちは、御殿場駅近くにある小さな一軒家の前で降ろしてもらった。御殿場市は繁華街が豊かな街ではないので、駅近くでもこうして一軒家があるものなのだ。そこの玄関近くに、ひらがなで「こくぼほうりつじむしょ」と書いてある看板が設置されていた。それは今でも文字が読めない人がいるということを知っているということでもある。杉ちゃんがインターフォンを押して、依頼人が来たとでかい声でいうと、弁護士の小久保哲哉さんの声で、はいどうぞという声がした。なので杉ちゃんは、どんどん事務所の中に入ってしまった。

とりあえず蘭が、佐藤真奈さんのことを説明した。佐藤春香さんという女性が、息子さんである、佐藤正男くんを殺害したということを説明すると、小久保さんは、

「事件のことは何度も報道されたので知っています。まずはじめにですね。娘さんである佐藤春香さんは、正男くんのことを殺したと言うことを認めているのでしょうか?」

と聞いた。

「はい。逮捕されてから、春香はすぐに犯行を自供しましたし、警察も、検察も、彼女の犯行であることは間違いないといいました。」

真奈さんはすぐに答える。

「そうですか。それでは、正男くんの遺体が発見されたときのことを、知っている限りのことで話していただけないでしょうか?」

小久保さんがそうきくと、

「近所の人が、部屋から異臭がすると警察に通報があって、それで、正男くんがなくなっているのを警察が見つけたそうです。それで、警察が、春香に連絡を取って、事情を聞いたところ、春香が、公演に行ったことを口実に、正男くんを部屋に置き去りにしたことを認めたので、それで逮捕されたということでした。」

と真奈さんはそこまで話したが、また言葉に詰まってしまって、

「やはり私が、そんなことをしないように、もっと厳しく春香に言っておくべきだったのでしょうね。春香は確かに、成績は優秀だったけど、こういうことは何も覚えてなかったと聞くと、私は、とても悲しいです。」

と涙をこぼしながら言うのであった。

「だから、そればっかり囚われちゃだめなんだ。それよりどうするかを考えよう。あとは、少しでも春香さんが刑を軽くできるように、なんとかすることだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「でもねえ。杉ちゃん。春香さんの供述では、育児が面倒くさくなって、正男くんを殺害したと言ってるんだよね。それは本当にそうなのかな。それとも、なにか理由があってやむを得ずそうしたのかな?そこが今回の事件の最大のポイントになると思うよ。」

と、小久保さんが言った。

「本当に、春香さんは、育児が面倒くさいという感情に走ったのか、ですよね。」

蘭がそう言うと、

「でも、あたしたちは、女性であれば誰でもそうだと思うのですけど、子供を生んだときの苦しみと、喜びはどの世代でも変わらないと思うんです。それさえ思い出すことができれば、育児が面倒くさいなんていう感情は湧いてくるはずが無いと思うんですが、、、。」

と真奈さんが言った。

「ウン、それは昔の話。今は時代が違うんだよ。」

杉ちゃんはすぐ否定した。

「そうですね。そこは杉ちゃんの言う通りかもしれません。今では、生まれたばかりの赤ちゃんを、ゴミ捨て場に平気で捨てていくという事件もありますから、生んだときの痛みや苦しみを忘れてしまう女性も、多いのではないかと思います。というより、そういう生んだときの苦しみを実感しとろか、そういう指導は、古臭いですねと言って、拒否してしまうということもよくありますのでね。」

小久保さんが杉ちゃんの話に合わせた。

「それともう一つ。正男くんの体には、傷やあざなどありましたか?これも刑を決める際の大事なポイントだと思うんですよね。正男くんが懐かないからと言って、なにか暴行を加えていたとかそういうことがあれば教えてほしいんですが。」

「それが、、、。」

と真奈さんは言った。

「思い出せません。正男くんを連れて、うちへ来たことは、本当に少しだけだったです。それに、まだ、1歳になったばかりで、それだけしか行きていなかったわけですから。」

「でも、おむつを変えたときとか、そういうときに、例えば、傷やあざを発見したりはしませんでしたか?」

小久保さんがそうきくと、

「わ、わかりません。あたし、全然覚えてないんです。それではいけないのに、どうしてこうなってしまったんだろう。ちゃんと弁護士の先生が聞いているのに、話ができないなんて。」

真奈さんはごちんごちんと頭をテーブルに打ち付けた。

「変なことはやめてください!頭を打ったときの外傷で脳に障害が残ることもありますよ!」

と蘭がいうと、

「あたし、どうしてもわからないんです。なんで春香がああいうことをしたのか、あたしがもっと厳しくしつけるべきだったのか、それとも、本当に春香が、正男くんに暴力を振るっていたのか。あたしがそれを止められなかったのか。いずれにしても、もうあたしが幸せになれることなんて二度と無いでしょうね。あたしは、死ぬしか無いんだわ!」

真奈さんは、わーっと泣き出してしまった。小久保さんはそれを見て、

「状態が落ち着いたら、またお話を伺うかもしれません。ちゃんと、春香さんの弁護は引き受けますので。春香さんにあって話をすることもいたします。それで、正男くんが、彼女から虐待を受けていたのかどうか、そこにまつわる決定的な証拠がつかめたら、また春香さんの刑も変わってくるのではないかと思います。」

と優しく言った。真奈さんは涙をこぼして泣いているばかりだ。果たして小久保さんの言うことが、通じるのかどうか、それもわからないような泣き方だった。

「そういうことなら、まず落ち着いてもらいましょう。安定剤でも注射してもらいましょうか?」

と蘭がいうと、真奈さんは、安定剤と聞いて更に怖いと言った。確かに、安定剤は怖いというイメージが有る人もいる。本当は大したものではないけれど、テレビドラマとか映画の影響で、安定剤を打つことは、ちょっと怖いと考えている人もいるようだ。

「でも落ち着いてもらわないと行けないな。よし、天童先生のところに連れて行こう。直傳靈氣で落ち着かせてくれるかもしれない。」

と、杉ちゃんが言った。蘭もそうしたほうが良いと思い、天童先生の番号を回した。天童あさこ先生は、すぐ引き受けましたと言ってくれて、御殿場駅近くの、コワーキングスペースで会いましょうと言ってくれた。コワーキングスペースとはどこにあるんだと杉ちゃんがいうと、小久保さんが、御殿場駅富士山口の真ん前にあるといった。それなら車椅子で行けると思った蘭は、小久保さんにお礼を言って、女性を連れて、小久保法律事務所を出ていった。

法律事務所からコワーキングスペースまでは、本当に近くて、5分くらいで行ける距離だった。それでも真奈さんはまだ泣いていた。それと同時に風が拭いてきて、真奈さんの眼の前に、木の葉を一枚落とした。

「隠れ蓑。」

と真奈さんは言った。

「あなた達、天狗の隠れ蓑のお話を知ってます?」

「はあ、不意に何を言うのかな?」

杉ちゃんがいうと、

「本当に、天狗の隠れ蓑があったら良いですよね。それをつけると姿が見えなくなるんでしょ。それをつければ、あたしも姿を消して、いなくてもいられるようになれる。そういう便利なものがあったら良いのに。だって今の私は、犯罪者の母親ということで、みんなから笑われてるんです。バカにされてるんです。そしてもう消えてしまえって言われてるんです。」

と彼女は言うのだった。

「うーんそれはきっと、お前さんには精神疾患があると考えられるね。だからいまから、直傳靈氣とか、そういうものを使って、落ち着かせてもらいに行くんだよ。そんな便利なお道具、人間には作れるわけ無いじゃないか。だから、まあ、ほしいと思っても諦めることだな。」

と杉ちゃんが言った。それと同時に蘭が、ここですねとコワーキングスペースと書いてある看板の前で止まった。そして改めて天童先生に電話をかけると、天童先生が、中から出てきた。

「この女性なんですけど、事情は後で話しますから、今は落ち着かせて楽にさせてやってくれませんか。」

蘭がそう言うと、天童先生はわかりましたと言って、まず、佐藤真奈さんをコワーキングスペースの中に入れさせた。そして、部屋の中にある椅子に座らせて、目をつぶってくれますかといった。真奈さんがそう言うと、天童先生は、真奈さんの腕や背中などをさすり始めた。真奈さんは、始めの頃は泣いているままであったが、しばらく天童先生が施術を続けると、泣き止んでくれた。

「それでは、私の声が聞こえますか?」

と、天童先生が聞くと、

「はい。」

と真奈さんは答える。

「それでは、もう一度だけ、事件のことを思い出してください。何かあったら、いつでも中断していいですからね。娘さんの春香さんが起こした事件に対して、あなたは、監督不行き届きだったのでしょうか?事件当時、あなたは何をしていましたか?」

天童先生は優しく言った。

「はい。あたしは今は、春香といっしょに暮らしていないので、春香がそんな事件を起こしていたとは全く知りませんでした。」

真奈さんは静かに答える。

「それでは、春香さんに、そうしろとか、事件について指示したなどのことはありますか?」

天童先生が聞くと、

「いえ、ありません。あたしは、娘に、そうしろとか指示を出したことはないです。」

真奈さんはそう答えた。

「そうですか。わかりました。まずは真奈さん、春香さんを意識の外から切り離すことから始めましょう。そして、春香さんに何ができるかを考えることから始めましょう。」

天童先生は、そう言ってしばらく真奈さんに、静かに座っているように言った。そして、それから数分立って、静かに目を開けてくださいと言った。

真奈さんはその通りにした。そして、犬みたいに体を震わせて、

「すごい、世界が変わったみたい。」

と一言言った。

「ああ、やっと落ち着いてくれたかい。良かったなあ。やっぱり人間、落ち着いてくれないと、困るってことはあるよなあ。」

杉ちゃんが大きなため息を付くと、そんなこと言っては行けないと蘭が言った。

「良いじゃないか。それだって事実だぜ。それを、ちゃんと、話をしなくちゃだめなんだ。よし、今日は一日、よく休んでさ。明日からまた小久保さんのところに行って、春香さんがどうなっていくか、ちゃんと話あおうね。」

杉ちゃんがいうと、真奈さんはハイと言った。そして、蘭の方を見た。

「なんですか?」

と思わず蘭がいうと、

「あの、刺青師の先生って言ってましたよね?」

と真奈さんはいう。

「はあ、そうですが。」

蘭がいうと、

「あたしにも、彫ってもらえませんか。あたしはこれから、普通の人間として生きてはいけないんです。きっとこれからもずっと、春香の母として生きていかなくてはなりません。だからその戒めとしてあたしに刺青を彫っていただきたいんです。」

と、真奈さんはきっぱりと決断した様子で言うのであった。その顔に、先程の天狗の隠れ蓑の話をしたときのような、弱々しい表情はもうなくて、静かに決断してくれたようだ。蘭は、それを受けて立つことにした。きっと、彼女は、これからも、なにかにすがるとか、そういうことはもうできないだろうから。一人で生活しなければならないので、神や仏にまつわるものを彫ってと言っても不思議なことはなかった。そういうものを、身につけていたいという感情は、女性であれば、発生しても何もおかしなことではない。

「よろしくお願いします。」

と真奈さんは言った。

「どんなことがあっても、母は強しです。」

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天狗の隠れ蓑 増田朋美 @masubuchi4996

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