第19話 ひな鳥

 倒した高位魔族の親の方が、シビラは城の地下牢にいると言っていた。


 辺り一面、デザートローズによって相当に破壊されているが、シビラの部屋に居着いている幼体が仲間に地下牢の場所を教えている。


 デザートローズたちはシビラを巻き添えにするような行動は決してしない。


 そうまではエミリウスも把握していた。──が、


 シビラと十年来の付き合いがあるブルーは、気を利かせて彼女を地下牢から出したらしい。一際巨大なデザートローズの成体、ブルーがシビラの後方で誇らしげにしている。


 デザートローズも、とんだ気遣いをしたものだ。


 ここは城内で、灯籠もついていない。暗闇のなかだ。


 魔族か夜行性の生き物でなければ、辺りの様子を知るのは難しいだろう。


 しかし夜目がきかないとはいえ、辺り一帯のむせ返るような血の臭いに、シビラが気づかないわけがない。戦闘に慣れていない者ならば尚の事、この惨状に耐えるのは厳しい。


 互いに手が触れるくらいまで近寄れば、人間の目にもエミリウスの姿は映る。


 エミリウスの衣服には返り血が付着しているが、そこまで目立つものではない。この程度なら暗闇に紛れてわからないだろう。


 問題は手についている返り血だ。


 エミリウスは次元の能力以外にも、直接手を下すなどした。そのため、もっとも多くの血を浴びている箇所だ。


 シビラを迎えに行くさなかにも、返り血を浴びた手は拭くなどしておく予定だった。しかしそうする前に、当人が来てしまった。


 人間は闇夜に慣れれば多少なりとも夜目がきくそうだが、いったいシビラの目には、エミリウスの動きがどれほど見えているのか。いずれにしても、血に染まった手を拭くには遅すぎた。


 エミリウスの鮮血に塗れた手を見ても、シビラは逃げずにいられるだろうか。


 己の庇護者の残忍な姿を知ることになる、シビラの反応を予測してエミリウスが思考する合間にも、彼女はこちらに向かっておぼつかない足取りで歩いてくる。


 けれど、暗闇を歩くにしても、どうにも足取りがおかしい。途中、まるで何かに耐えるように止まりながら進んでいる動きの違和感。


「まさか……」とエミリウスは心の中で呟く。


 先刻エミリウスの声がした方を頼りに、シビラはジャリジャリと瓦礫を踏んで歩いている。


 その足元へ視線を移し、エミリウスはハッと目を見開く。


 シビラは瓦礫を裸足で踏み歩いていた。


 就寝時に攫われたシビラは靴を履いていない。


 わずかだが、シビラからは魔族や魔物のものとは違う、甘い血の匂いがした。


 おそらく足の裏を怪我したのだろう。けれども迷いなく近づいてくるシビラが転びそうになったのを、エミリウスはチッと舌打ちをして、反射的に動いていた。


 グイッとシビラの細腕を引いて自らの腕の中に引き入れ、抱き上げる。


 失態とは無縁であったはずの己が、なんというていたらくだ。


 抱き上げているエミリウスより頭半分ほど高い位置にいるシビラの黒曜石の瞳が、まるで生まれたてのひな鳥のように、こちらを一心に見下ろしている。


 己の過誤に苛立ち目をすがめるエミリウスに、けれどもさらに想定外のことが起こった。


 不意にシビラがこちらに手を伸ばし──エミリウスの首筋に両腕を絡め、ギュッと抱き付いてきたのだ。


「シビラさん……?」


 抱き付くと、そのまま固まったように動かなくなった。


 それまで感じていた心細さを押し隠すように、シビラの柔らかい体が小刻みに震えている。


「どうされましたか?」


 足の他にも怪我をしたのだろうか。けれど甘い血の匂いは先刻と変わらず、ふんわりと香る程度だ。


 シビラを気にして思わず当惑の声を出した自身の中に、ドロドロに酷く甘やかしたい気持ちが湧いてくる。


 十年前に拾って育てたひな鳥を甘やかしたい親鳥の心境と、女としても欲している男の心情。そのどちらもが入り乱れている。


 そんなエミリウスの心の内を知ってしまったら、シビラは今度こそ逃げてしまうかもしれないが。


「すみません、迎えにくるのが遅くなりました」


 エミリウスの首筋に顔を埋めているシビラに寄り添うように話し掛けるも、余計にキュッと顔を埋めてしまった。


 まるで外敵から身を隠す小動物のような動きだなと、率直な感想が浮かぶ。


 シビラは昔から考えていることがわかりやすい。今はこれがこの子なりの感情のこらえ方かと心得て、壊れ物を扱うように抱き上げながら、エミリウスはシビラが落ち着くのを待った。


 そうしていたら、様子をうかがうエミリウスの沈黙が、シビラは気になりだしたらしい。


 ややあって、ようやく顔を上げたシビラの目は赤く、涙ぐんでいた。涙が零れるのをグッと唇に力を込めて、必死に抑えている。


 また泣かせてしまった。


 血で汚れた手で触れるのはためらわれたが、エミリウスを見つめているシビラに、気味が悪いと拒絶するような印象はなく。ゆっくりと柔らかい頬に手を滑らせる。


 すると、ホッとしたようにシビラの表情が和らいだのを見て、エミリウスは心動かされるのを感じた。


 完全に信用してひな鳥のように受け入れているシビラを、エミリウスは自らの方へ引き寄せ、目元の涙を口に含み、それから──花びらのように可憐な唇に軽く触れる。


 一瞬の出来事にシビラは少し驚いた顔を見せたが、続けて「さあ、帰りましょうか」と、エミリウスはいつも通りの調子で話しかける。シビラは心底嬉しそうに微笑んで「はい」と答えた。

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