第8話 肖像画と私

「あの、ここはいったい……?」


 おそるおそる尋ねるシビラを見るエミリウスの表情は、先刻と変わりない。


 物静かな様子で佇むエミリウスは、肖像画を見上げ、淡々と答えを口にした。


「ここは百年前存在した大魔王の寝室です。そしてその肖像画は、大魔王が人間だった頃の姿」

「大魔王は魔族へ転化した人間だというのですか?」

「ええ、そして大魔王は勇者の母親でした」

「……勇者の、母親?」


 いったい何を言い出すのだろう。シビラは瞬きを繰り返し、エミリウスを見上げる。


「大魔王は勇者である我が子に情が移ったのかもしれません。仲間と群れをなさなければ対峙できない、己よりも遥かに弱い格下相手に大魔王は敗れた。そして勇者との戦いに敗北したとき、あの方もあなたと同じように、私に己を食べるようおっしゃっていました」


 シビラのようになんの能力もない子供を食べても、ただの食料だ。けれども、大きな能力を持つ相手の血肉を食せば、その力の一部を手に入れることができる。


 強くなるために、ときに魔族は同族すら食らうことがある。


 だからシビラは、エミリウスに食べてもらう提案をするのに、躊躇ちゅうちょしなかった。


 魔族が他者の血肉を食らうのをためらわないのは、人間の世界でも当たり前の知識として知られているものだったからだ。


 だが大魔王自らが、自身の血肉を食らうよう提案したとなると……大魔王は、エミリウスに力を継がせたかったということになる。


 それほどに、大魔王はエミリウスを信頼していたということだ。


 もしかして、恋人だったのかしら……


「己を食べるよう大魔王から言われたとき、閣下は何とお答えしたのですか?」


 本当に大魔王を食べたのか、さすがにそこは、直に聞くのをシビラは避けた。


「さて、どうでしたかね。何にしても大魔王は勇者に敗れた。そして勇者は大魔王にとどめを刺さなかった。それが史実です」


 答えながらエミリウスは視線を肖像画から外し、ゆっくりとシビラを見た。


 はぐらかすエミリウスの考えが、真意がわからない。


 底の見えない思考を読み取るには、シビラは圧倒的に経験不足だった。第一、わかったとして、自分に何が出来るというのか。


 無力感を覚えて、シビラは少しの間、口を閉ざす。


 さして変わらずにいるエミリウスに、シビラは別の質問をした。


「あの、この文字は何と書いてあるのですか?」


 先程から気になっていた。肖像画に書かれている文字を、シビラは指差し尋ねる。


「シビュラ」

「え?」

「場所や国によって発音が異なるようですが、シビュラはシビラと語源を同じくする言葉です」

「託宣の巫女……大魔王は本来、神の御言葉みことばを告げる聖女様だったのですか?」

「はい。これもほとんどの魔族は知らぬ話ですが、闇堕ちした聖女が勇者の母親で、大魔王の正体です。ですから、シビラさんも口外はなさらぬよう気をつけてください。危険ですから」

「はい……」


 シビラと会話をしてくれるエミリウスの表情も話し方も、いつもと同じで柔らかく、丁寧で優しい。


 けれども一瞬垣間見えた、危険と言ったときの芯の通った強い雰囲気から、本気で言っているのが伝わってくる。


 どうしてこんなに大事なことを、たくさん教えてくれるのかしら? お掃除が終わったら食べてしまうから、そんなに気にならないとか?


 色んな不思議に答えを求めて、シビラは改めてエミリウスに向き直る。


「私が、大魔王と同じ名前だから、閣下は私に優しくしてくださるのですか?」


 すると、朗らかな様相ようそうで、エミリウスは試すような目をした。


「だとしたら、嫌ですか?」

「いいえ、とても嬉しいです」

「嬉しい? 私はあなた自身を見ていないかもしれないのに? あなたを通して、懐かしい記憶を思い出すだけの媒介に、ただ利用しているだけかもしれませんよ?」


 率直にかれて、かえってシビラはエミリウスに好感を持った。


 それはシビラを試すのが目的でも、意地悪でもなく、嘘偽りないエミリウスの純粋な疑問に思えたからだ。


 それに、シビラが嬉しいと言ったとき。質問を即座に返したエミリウスのキョトンとした顔は、本当にシビラの考えを知りたがっているように見えた。


 ふふっ、さっきの私と同じね。


 大魔王の話をするエミリウスの真意を知りたいと、何か思い悩むことがあるのなら力になりたいと思いながらも、シビラは自分にその役が務まらないのを理解していた。


 エミリウスとシビラでは、あまりにレベルが違い過ぎるのだ。


 能力不足の自分がエミリウスの相談相手になれるはずがない。


 そもそも契約をしたとき、エミリウスはシビラの名前を知らなかった。だから、拾ってくれた行為に嘘偽りはないように思えた。


 それに、たとえ何か打算があったとしても、シビラはかまわなかった。


 エミリウスは、亡くなった両親と白猫ちゃん以外で、はじめてシビラに優しくしてくれた人だ。そしてロードも、価値のないシビラに親切にしてくれた。


 人間よりも魔族の方が優しいなんてと、不思議な気持ちになる。


「閣下、失った寂しさは他の何かで一時的に代用できても、そう簡単に心の内から消えるものではありません。私もお父さんとお母さんを失ったとき、それを埋めてくれたのは町にいた野良の白猫ちゃんでした。だからきっと……これは白猫ちゃんへの恩返しなんです。白猫ちゃんに似た閣下と出会えて、閣下の大切な方の記憶の代用になれるのはとても光栄なことです」


 それに時折怖いことは言うけれど、エミリウスはずっとシビラを、ちゃんと一人の人間として扱ってくれた。


 魔族にとって人間など、取るに足らないただの食料だ。本当はシビラなどどうでもいい存在のはずなのに。


「あの、もしご気分を害さなければなのですが、こちらのお部屋も私がお掃除してよろしいのでしょうか?」


 おそるおそる聞くと、エミリウスは嫌な顔をするでもなく、あっさりと許可を口にした。


「はい、お願いします」

「!」


 お礼を言って、急いでシビラは頭を下げる。


 今までちゃんと役に立てたことがなかったから、ようやく誰かの役に立てるのが、シビラには嬉しかったのだ。──と、


 きゅーるる〜……


 お腹が鳴った。まずい、空腹だったのを、すっかり忘れていた。


 焦って頬を熱くするシビラを見下ろしながら、エミリウスは穏やかな様相で微笑する。どこまでも冷静で、大人で、美しい人だ。


「朝ご飯を用意させましょう」

「すみません……」


 本当に恥ずかしい。


 お腹を押さえると、擦り切れていない新しい服のピンとした感触が手から伝わってきて、シビラは思っていたことを口にした。


「ところでこのお洋服はロードさんが?」

「ええ、それはロードが用意したそうですが、お気に召しませんでしたか?」

「いいえ、いいえ」


 とんでもない! シビラは首を左右に振る。


「私、このお洋服大好きです!」


 勢いよく言い切ると、エミリウスは「それは良かった」と変わらぬ美しい微笑で答えてくれた。

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