第14話 最初で最後の我が儘

 そろそろ昼食の時間が近づいている。


 エミリウスがご飯の時間だと迎えに来る前に、シビラは掃除を切り上げた。


 人間の世界に一度戻りたいと、今日こそは言わなくてはならない。


 シビラは気持ちを強くしてエミリウスの部屋を訪れた。


「失礼いたします、閣下。本日は折り入ってお話ししたいことがあり参りました」


 椅子に座っているエミリウスの手前の机には、書類がたくさん置かれていた。仕事をしていたらしい。


 シビラは遠慮がちに述べる。


「あの、ですが、ご多忙のようでしたらまたの機会にいたします」


 ああっ! でもまたの機会になんて猶予、私にはなかったんだわ!


 しまった。と、シビラは言ってから思った。ここはどうしても時間を作ってほしいとお願いする場面だった。


 契約の期限まで時間はそう残されていないのに、間抜けなことをしたと後悔する。


 焦りを覚えていたら、シビラの考えを読んだらしい、エミリウスがクスッと笑った。ロードもそうだが、何故かシビラの思っていることは、エミリウスにも筒抜けのようだ。


「構いません。私も丁度休憩を入れようと思っていましたから。では席を移動しましょうか」

「ありがとうございます」


 何の前触れもなく現れたシビラを、エミリウスは特に驚いたふうもなく、いとも容易く受け入れてしまう。


 普段と違うシビラの行動に、何かしらの不審は感じているはずなのに、そういった感情を微塵も出さないエミリウスの安定感。その庇護下ひごかにいるのを改めて感じる一幕だった。


 ソファーに座るよううながされ、言われたとおりシビラが着座する合間にも、エミリウスは使用人を呼んで紅茶を頼む。


 その無駄のない言動を静かに見つめ、シビラは自分の丁度正面の席──背の低いテーブルを挟んだ向かいのソファーにエミリウスが来るのを待った。


 緊張で体がそわそわして落ち着かない。シビラの相手をするために、仕事を中断させてしまった罪悪感が湧く。


 視線を下に、膝に置いた己の手を見つめ、シビラが落ち着くように心がけていると──それから程なくしてエミリウスがやってきた。


 エミリウスはシビラと対面する位置にゆったりと腰を下ろした。くつろいでいる姿はまるで絵画の一場面のように美しい。いつも余裕があるエミリウスは、先程から気もそぞろなシビラとは正反対だ。


「シビラさんから私の部屋に来るのは珍しいですね」


 言われてみると、シビラがエミリウスの自室を訪れたのは、今まで数えるほどしかなかった。


 それはそうだ。もっとも多くを占めている理由──恐れ多くて近寄れないという本音が頭をよぎる。加えて、いつもエミリウスがシビラをご飯前に迎えに来てくれることはあっても、その逆はないからだ。


 そうこうしているうちに、使用人が紅茶を運んできたのを、エミリウスはシビラに勧めた。


 礼を述べてシビラは紅茶を口に含む。眼前のエミリウスも同じく紅茶を飲んでいるのを、チラリと盗み見る。


 それにしても困ったわ。こんなに緊張するのはいつぶりかしら?


 言わなければならないと前々から決めていたのに、まるで始めて出会ったときのような緊張感だ。シビラが萎えそうになる気力を振り絞ろうとしていたら、カップを手にしながらエミリウスがサラッと述べた。


「私に何か話があったのではありませんか?」

「は、はい!」


 声がうわずる。


 問われて、ドキドキと鼓動が早まるのを感じながら、シビラはカップをテーブルに戻す。膝に置いた手をギュッと握る。


 大丈夫よ。この方は、何の変哲もないただの薄汚れた子供だった私を、育ててくれた人だもの。


「人間の領域に行く許可をいただけないでしょうか」


 言うと、カップを手にしたエミリウスが一瞬ピクリとしたように見えたけれど、気のせいだろう。


 エミリウスは持っているカップを、いつも通りの上品な所作でゆっくり受け皿に置き、視線をシビラに向ける。


「何故ですか?」

「それは……会いたい人たちがいるからです」


 美しい緑の瞳に見つめられて、年頃の娘らしくシビラの胸はドキッと高鳴った。


 こんなときなのに頬が熱い。


 話している間中にも、息もつけないような感覚に、シビラはエミリウスから目を逸らしてしまう。すると、答えがあった。


「駄目です」


 シビラはハッとする。


 会いたい人たちと聞いて、エミリウスは誰だと思ったのだろう。想像していたよりもきっぱりと断られてしまい、シビラは焦った。


「どうしてですか?」

「私の契約者というだけで、あなたは多くのものに狙われるのですよ。無意識にも他人を優先してしまうのはあなたの美徳です。力が全ての魔族にはもっとも縁遠いものでしょう。そんなあなたが外の世界に出たらどうなると思いますか? ここは仮にも大魔王の古城、魔族の領域なのですよ」


 己の庇護下にいなければ簡単に取って食われてしまう存在なのだと、昔からエミリウスはシビラが城の外へ出るのを許可しなかった。でもそれはシビラが小さな子供だったからで、今はもう立派な大人だ。


「ですが、私は自分の身は自分で守れるよう、ロードさんから護身用に剣も教わっていますし、閣下のご迷惑になるような真似はいたしません。ですから……」

「何故そんなに人間の世界にこだわるのですか?」

「それは私が人間だからです。人間の世界が私の故郷なのです」


 何とか食い下がるも、相手は百戦錬磨の魔族だ。到底、口で勝てる相手ではなかった。


「契約の期限が間近に迫った今、あなたの口からそのような言葉を聞かされた。これでは私から逃げ出そうとしている。そう思われても仕方ないのでは?」

「それは違います! 私はそのようなこと、思ってもおりませんでした」


 逃げ出す……? そんなことするわけないわ。だって私は閣下の傍にいるのが一番好きで、ふわふわのお布団に包まれるみたいに一番安心するもの。


 人に捨てられたシビラが、再び人間の世界へ行きたがる。不自然だと思われて当然だった。


 けれど疑われるのは悲しい。しゅんっと暗い気持ちになったシビラだったが、ふと信頼を取り戻すのに大切な事柄を思い出した。 


 あ、そういえば私……


「閣下、私はこの十年間をご一緒できて幸せでした。私はまだ、それについてのお礼を言っていませんでしたね」


 精一杯の感謝を込めて言葉にするも、エミリウスは微動だにしない。


 これ以上は進展する様子がなかったので、残念だがここまでだった。シビラは退出を申し出ることにした。


「閣下、これは私の最初で最後の我が儘です。荷造りは……明日にはいたします。私は逃げたりしません。ちゃんと戻って来ます」


 ──だからそんな怖い顔をしないで。どうか私を嫌いにならないで。


 シビラがここまで己の意志を貫き、エミリウスに反発するのは今まで一度もなかった。


 すがるような気持で席を立ち、シビラは頭を下げる。


 一方的な申し出になってしまったけれど、仕方ない。シビラは扉の方へ向かって歩き出そうとエミリウスに背を向ける。──と、普段よりも重く低い声がシビラの耳に届いた。


「十年前に連れてきたときから、あなたの故郷はここです。他のどれでもない」


 振り返ったシビラの視線の先にいるエミリウスの真剣な表情は、警告を含んでいた。


 エミリウスはシビラが人間の世界へ行くことを許してはいない。でも、もうシビラは怖くなかった。


 契約の期限つきとはいえ、シビラの居場所はここだとエミリウスは示してくれた。


 ここにいてもいいのだと、エミリウスが無条件にシビラを受け入れてくれている。そんな錯覚を抱いてしまいそうになる。


 それがどれだけ嬉しいことか、目元が熱く、じんわりと涙が滲んでくる。泣くのをこらえてシビラは微笑んだ。


「はい、閣下」


 きっと、シビラが泣きそうな顔で笑ってしまったりなどしたからだろう。特別変な顔をしてしまったのかもしれない。


 エミリウスが驚きに目を見張る。珍しい表情だ。


 ──好き。


 そして唐突に湧いた感情に、今度はシビラの方が驚いた。でも納得した。


 シビラはエミリウスに恋をしていたのだ。


 これだけ包容力のある相手が近くにいれば、それも当然だろう。


 そのせいでシビラは緊張してうまくエミリウスと話ができなくなっていたのだ。幸い、シビラの挙動をエミリウスが怪しんでいる様子がなかったのが救いだ。


 けれど自覚したばかりなのに、もう一緒にいられる時間はあまりない。何故なら次に掃除をする場所が、最後の部屋になるからだ。

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