第15話 外の世界

 約束の命の期限──城の掃除が終わるまであとわずか。昼食を済ませたシビラは、その最後の部屋、大魔王の寝室がある離れの石碑の塔に来ていた。


 終焉が見えないと思っていた掃除も、いよいよここで最後だ。


 百年前とはいえ、大魔王の部屋は右も左も全て貴重品だらけ。


 壊さないよう慎重に、塔の最上階の部屋をせっせと掃除していると、ある物を見つけた。


「これは何かしら?」


 書類は主にクルクルと巻かれて保管されているのだが、大量の書類が雑多に置かれた中でも、これは厳重に木箱に入れて保管されていた。


 木箱はほこりっぽいが、中にある羊皮紙の痛みは少ない。


 シビラはクルクルと巻かれた羊皮紙を丁寧に開く。すると、かなり精密な地図であることがわかった。


 そして、この羊皮紙だけ大切に木箱で保管されていた理由を、シビラは即座に理解した。


 百年前の当時、地図は大変貴重なもので、特に国土を広めるに辺り、それは顕著けんちょとなる。


 侵略においても、国防においても、精密な地形を有する者が優位となり、覇権を握る時代だ。


 昔ほどではないにしても、今でも各国総出で金を注ぎ込み、地形の調査にあたらせている。精密な地形を模した地図は、各国が喉から手が出るほどほしい代物しろものなのだ。


 今でこそ、そういった国の内情を理解できるようになったシビラだが、ここへ来た当初は文字すら読めなかった。


 そんなシビラに、ロードはエミリウスの命だからと文字の読み方を教えてくれた。


 エミリウスはロードをシビラの世話係につけ、教育と教養を与えてくれたのだ。書斎への出入りも許されており、一通りのものにはシビラも目を通している。


 シビラにとって二人は家族ともいえる存在だった。もっとも、二人からはそう思われていないかもしれないが……


 魔族からすると、やはり人間など取るに足らない生き物だからだ。


「これ、もしかして私の故郷?」


 地図の中に故郷であるフェアリーレンの地名を見つけて、シビラは亡くなった両親のことを思い出す。


「本当は城を時折訪ねてくる行商人に、人間の領域までの道案内を相談していたのだけれど、これなら私一人でも行けるかもしれないわ……!」


 エミリウスには、荷造りは明日にはすると言ったけれど、実は一通りの準備は出来ていた。


 あとは最終チェックをする程度で、いつでも出発できる状態にある。


 寝室の掃除はまだ残っているけれど、善は急げだ。


 次にエミリウスが迎えにくるのは五、六時間後。夕食の時間の前に城を出なければ見つかってしまう。


 それに出立するなら明るい内の方がいいだろう。


 シビラは心を決めると、まだ片付ける作業を始めたばかりだったが、辺りに散乱している掃除道具を手早くまとめ始めた。





 掃除道具を抱えたシビラが急ぎ自室に戻ると、デザートローズの幼体が一匹、丁度目の前をちょこちょこと歩いていた。


 十年前に出会った青い薔薇の子、ブルーが幼体だった頃の姿にそっくりの子だ。


 この子はブルーの子供で、名前はジュニアという。


 ブルーの子供たちは沢山いるけれど、青い薔薇の子は生まれにくいらしく、ブルーとジュニア意外に同系色のデザートローズはいない。


 そして、青い薔薇の子はデザートローズの中でもかなりの変わり種らしい。


 まだ幼体だった頃のブルーは、始終シビラの肩にくっついていた。けれど、ジュニアは自ら鉢植えを持参してシビラの部屋に押しかけ居座った。


 植物の世界にも引きこもりというのはあるらしい。


 基本は土と草木のある中庭ではなく、部屋の中にいるのが好きなようだ。


 植物なのに引きこもりで、専用の寝床である植木鉢に植わっているか、窓際まで鉢植えを持参して日光浴しながらシビラの部屋で毎日過ごしている。


 たまにシビラの肩にも巻きつきにきたり、部屋の中をちょこちょこ歩き回って、多少運動もしているようだが……


 そんな、今ではすっかり引きこもりになったブルーの子供、ジュニアが「おかえりなさい」と手を振っている。


 ジュニアに「ただいま」と返事をして、それからシビラは大急ぎでタンスの奥に隠していた荷物を引き出す。


 膝まである外套がいとうを羽織ると、フードを目深まぶかに被り、それから肝心の地図を荷物の中に入れる。これで用意はできた。


「よし、忘れ物はないわよね? ──ん? あら? ジュニアちゃん?」


 てっきり鉢植えにでも植わっていると思っていたジュニアが、シビラの前にいた。「何してるの?」といった具合にジーッとこちらを見上げている。


「これから私は外の世界へ行ってくるから、少しの間会えなくなるけど、お留守番お願いね」


 体を屈めて言うと、ジュニアは不思議そうに首をかしげていたが、やがて床に置いていた荷物の中へ、重なった布の隙間からいそいそと根を入れ込んでいく。根付くと、そこに落ち着いた。


 荷物から青い薔薇が生えているちょっと変わった光景に、シビラは目を瞬く。


 引きこもり植物なのに、ジュニアはついてきてくれるらしい。





 人間の世界へ行く道中。真っ白な毛並みの白馬、リンダリオンが小さくいなないた。


 リンダリオンはエミリウスが選んでくれたシビラの愛馬だ。


 騎乗の苦手なシビラにも乗りやすく、いつも寄り添ってくれる、ブルーのようにとても賢くて優しい子だ。


「わあ! すごい! あんなに鳥がたくさん! それに動物たちもたくさんいるのね……」


 シビラはエミリウスとロードのいる大魔王の古城が大好きだ。でも十年ぶりの外の世界は新鮮な空気と、清々しい新緑が目に眩しく、命の輝きに溢れていた。


 眼前に広がる草原は果てしなく、通り過ぎる風の心地よさと草木の擦れ合う音。何もかもが優しく穏やかで、うっとりとシビラは馬上から広い世界を眺める。


 昔は自分のことで精一杯で、景色を眺める余裕はなかった。


 それが今ではこうも映る景色が違うものなのかと、昔を思い出し、不思議な気持ちになる。


 暫く辺りを見渡して、シビラは馬を下りた。もう少しこの世界を堪能たんのうしたい。シビラはそれから小一時間ほど歩いた。


 ただただ景色を眺め、風に運ばれてくる草木の香りを嗅ぐ。穏やかで、とても贅沢な時間だった。


 ──でも、そろそろ騎乗して進まないと、日が暮れるまであと四時間ほどしかないわ。


 名残惜しさを感じながら、シビラは歩みを止め、手綱を持つ手を見つめる。


 誰かにご飯を用意したと迎えに来てもらえる経験は、亡くなった両親以来だった。


 ご飯を食べるのを忘れて働くシビラをエミリウスが迎えにきてくれるのが嬉しくて、次第に待ちわびるようになっていった。


 あら? そういえば、朝食に仕事は関係ないのに、いつの間にかそちらも迎えにくるようになっていたのね。


 けれどこれから人間の世界に戻る間、誰の迎えもない生活に戻るのだ。


 そう思うと、今すぐにでも古城のエミリウスの元に帰りたくなる。


「閣下には黙って出てきてしまったけど、置き手紙もしてきたし、大丈夫よね?」


 人間の世界に戻るのは、シビラにとって必要なことだ。でも色々な事柄を一気に決めてしまった不安に、そう愛馬に呟いたところで、突然、一陣の風が吹いた。


 強烈な嵐のような風に、シビラは「ひゃぁっ!?」と悲鳴のような声を上げて目をつむる。


 幸い強風はすぐにおさまり、シビラはおそるおそる目を開ける。


「閣下……?」


 そこには──白銀の髪に緑眼の見目麗しい青年がいた。




 

 まさかこんなに早く見つかるとは思いもしなかった。


 野原に忽然と現れた青年の姿に、シビラが呆然としているさなかにも、エミリウスはこちらを見据みすえ、目を離さない。


「さあ、帰りますよ」


 おそらく次元の力を使って来たのだろう。野原に佇むエミリウスから、片手を差し伸べられる。


 有無を言わさぬ圧力と、緑眼の鋭さ。これが魔族の本来の気迫なのだろう。美しくも恐ろしい禍々しさを感じて、シビラは息を呑む。


 まさに、シビラは蛇ににらまれた蛙だった。


 あまりに驚いたので、シビラはひるんで足を一歩後退する。


 しかしそこにはシビラが止まっていたのを小休憩と思ったらしい、ジュニアが丁度地面をホリホリして根を張って、日光浴をしていたところだった。根に足を取られて、その場に転倒してしまう。


「きゃっ!」

「っ!」


 何とかジュニアを避けて、その隣に尻餅をつく寸前──視界がかげった。


「痛く……ない?」


 それもそのはず。地面に転ぶ前に、シビラの体をエミリウスが抱き留めていた。


 互いの距離を一瞬で埋めた魔族の能力に驚くシビラに、エミリウスは探るような目を向けてくる。


 その真剣で深刻な表情に、本気で心配させてしまったのだと気づいて、シビラはハッとする。


 良かった……嫌われたわけじゃなかったんだわ。あっ! いけない! 急いで謝罪しなくては!


 もっとも、エミリウスを失望させてしまっただろうことは、重々承知しているけれど……


 そう思った矢先、しかしエミリウスは眉をひそめる。


「怪我をしていますね」

「え?」


 言われてみると、手を少しだけ地面についた気がする。


 そのとき擦ってしまったらしい。手の平にはうっすら赤い引っ掻き傷ができていた。

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