永遠のメリッサ 後編




六日目の朝。



今日もククラは研究所に行く。

ここに来てからは午前は仕事をして、それからメリッサと会っていた。


何時も通りノックをした。

返事がない。

ククラがもう一度、ドアを叩く。

やはり返事は無かった。


昨日は、今日来ることを約束して別れた。その時にはイエーガーは何も言っていない。

急な用事だろうか。

ククラは何度か叩いたドアを見つめる。


仕方ない。

ククラは研究所を離れる。少し首を傾げながら、街中へ帰っていった。

道すがら、さすがにこんなに早くにメリッサが来ることはないと気付いて、どうしようかと考える。それでも足は何時もの広場へ向かっていた。


町中でお腹が空いている事に気付く。

ククラが通りすがりの果物屋を覗くと、人の良さそうなおじさんがリンゴを一つ差し出してきた。


「…食べなよ、魔導士さん」

「いいの?有難う」

ククラは貰ったそれを齧る。

甘い香りがして、爽やかな果汁が口の中に広がる。


「お前さんさ、メリッサお嬢さんと恋仲だろ?」

「…」

ククラはリンゴをかじりながら、その人を見る。

この店は広場が良く見える位置にあった。二人の事が良く見えるのだろう。


「…メリッサお嬢さんはさ、旦那さんが厳しくていつも一人でいたんだ」

おじさんはリンゴを紙袋に入れながら、ククラに話す。

それを見ながら、ククラはリンゴを齧っている。

「…旦那さんは魔導士を毛嫌いしていてね。…お嬢さんが魔導士といる時はびっくりしたがね」

「…」

ククラはまたリンゴを齧る。


「…あんなに嬉しそうな顔は初めて見たよ。お前さんが良いならここで店でも開いたらどうだい。…お嬢さんと二人でさ」

リンゴのたくさん入った紙袋を渡される。

ククラはそれを受け取り、お金を払う。


「…考えてみるよ」

「ああ。…お嬢さんを幸せにしてやるんだよ?」

ククラは肯くと、店を後にする。

用もなく広場の噴水の縁に腰掛けた。


先の果物屋の言葉を考えていた。

…別にコンマリにこだわることはない。

この町は嫌いじゃなかった。

メリッサと二人で住んで、この町の魔導士になるのも悪くはない。


空を見上げる。この空は何処で見ても一緒だけど。

メリッサの居る場所を故郷にしても良いかも知れない。


ククラは一人そう思って、小さく微笑む。

今日、メリッサに会ったら話をしてみよう。

彼女はどんな顔をするだろう。


…そうか。

それって、プロポーズだよな。


自分の顔が赤くなっていくのが分かる。

それでも言ってみよう。メリッサはなんて言うだろう。

ククラはもう一つリンゴを齧った。


2時が過ぎた。

ククラは何度も時計を確かめるが、メリッサは来ない。

どんなに針が回っても、彼女の姿は広場に現われない。

ククラは何度も立ち上がっては、また噴水の縁に座る。


とうとう夕暮になったが、彼女は現れなかった。

ククラは星が出るまでそこに居たが、ついに諦めて宿へと帰った。

宿の部屋で、彼女の心配をしている時に。


彼女の、声が聞こえた。


助けを呼ぶ声が。





メリッサは習い事をすませると、洋服を選んで着替えた。

おかしなところがないか、鏡の前で何度も確かめる。

よし。変ではないはず。


メリッサは出かけるために、自室のある2階から降りていく。

父の部屋の前を通り過ぎた時に、ドアが開いた。

「…何処へ行くんだ、メリッサ」

珍しく、メリッサの父が家にいた。

商売をしているメリッサの父は、この時間に家にいることは滅多に無かった。


メリッサは動揺しながら、言葉を探す。

「…友達と約束があって」

「ほう」

父の声が低く響く。

メリッサは父の機嫌が良くない事を知る。


「…お前の友達は、お前にキスをするような、魔導士かな」

父に腕を掴まれた。

「…お父様!?」

部屋の中に引き入れられる。

メリッサは自分の父親が、少し違う事に気付く。


何時もの冷たい感じの父では無かった。

どちらかと言えば、もっと、男性的な。


「そいつはお前の何なんだ?メリッサ」

ドアを閉められて、メリッサは怯えながら父に答える。

「…恋人です」

「許さんぞ、メリッサ。何処の誰かも知らない男にお前を渡すなどと。わしは許さんからな?」

父の眼の色が違う。


メリッサは近づく自分の父親に恐怖する。

この感じは何だろう。

「…わしの、可愛いメリッサ」

伸びて来た手が、自分の胸を触る。一瞬、何が起きているか分からなかった。

メリッサの身体に鳥肌が立つ。


「…やめてください!」

しかし、父親はその手を止めることはない。

メリッサは目が回る。

何故、父がこんな事をするのか。

怖くても、父として尊敬していたのに。


メリッサの口がふさがれる。


その瞬間に、メリッサの中から何かが飛び出した。

光るその力は、目の前の人間を飛ばし壁に叩きつける。

人間は壁に当たり、骨が砕ける音がした。


メリッサの目の前に、もと人間の肉塊が転がる。


「…ひ、いう、あ」

メリッサの口から、おかしな悲鳴が上がる。

それはさっきまで自分を襲おうとしていた自分の父親で。

それを、私は。


「ああ。素晴らしい魔導力だ」

メリッサの背後から、拍手がなった。

驚いてメリッサが振り向くと、小柄な男が手を叩きながら近づいて来る。

メリッサはその男に見覚えがあった。


町はずれの研究所に住む、イエーガーという研究者だった。

父親と言い争っている姿を何度か見かけた事がある。

何故、いま、ここに居るのか。


「…見事に、お父様をやりましたな?」

「……ひ…」

今の姿を見られたことに、メリッサは気が遠くなりそうだった。

「…あなたの魔導は素晴らしい。…きっと彼もそう思うでしょう」

「…彼?」

メリッサの震える声に、イエーガーが頷く。


「ええ。私の研究を手伝ってくれている、魔導士のククラさんですよ」

ククラ。

メリッサは動揺しながら、その名前にすがる。

…今すぐ会いたい。


「…さあ、彼が待っていますよ」

イエーガーが、メリッサの手に触れた。


メリッサの世界は霧に満たされる。視界も考えも何もかもが見えない。

メリッサはイエーガーに手を引かれて、家を出る。


フラフラと歩きながら、町はずれの研究所まで歩いて来た。

中に入ると、イエーガーが暗い部屋へとメリッサを導く。

メリッサはその中で待っている彼に気付いて、抱き付いた。


恋人は微笑んで、メリッサを抱きしめる。

部屋のベッドに押し倒される。

恐怖を味わった少女に、それは安心感を与えた。


恋人が何も言わない事も、自分がめちゃくちゃに扱われている事にも、疑問もわかなかった。

それは歓喜と、欲望と、何か。

メリッサはそれに翻弄される。



イエーガーは、自分の目の前で魔獣に初めてを奪われている少女を見ながら、ひどく興奮していた。

「…恋人と思ってするそれは、いいだろう?…お前に魔導力なんかあるものか。あのくその娘にそんなもんがある訳がない」

少女の鳴き声が、部屋に響く。

その甘い声に、イエーガーは顔を醜く歪めて笑う。


「…お前に出来るのは、せいぜい魔獣の子供を産む事ぐらいだよ」

その目の前で、少女は何度目かの歓喜の声をあげる。

その途端に、少女のお腹が異常な速さでふくらんでいく。

「あ、ああ」

その痛みすら、メリッサには気持ち良かった。

吐息を漏らしながら、背を逸らす。


腹は中から破裂した。

部屋の中に、メリッサの血と臓物が飛び散る。

魔獣の子が生まれた事に、メリッサの上の魔獣が喜びの咆哮をあげる。


自分の血を浴びながら、メリッサの瞳に薄く光が戻った。

「…ククラ…助けて…」




ククラは声が聞こえた方向を探る。


それは町はずれの研究所の方向だった。

仕事の道具を掴んで、転移で飛んだ。

研究所の前まで飛ぶが中には入れない。魔導の障壁が掛かっていた。


「…メリッサ!?」

呼びかけるが、もちろん返事はない。


「コール!ワイドレジスト!」

風魔導でドアを破ろうとするが歯が立たない。ククラは手に斧を召喚してドアに叩き込む。ドアを破砕して、ククラは中に飛び込んだ。


研究所の中は血の臭いで充満していた。


ククラは勘の教える方向へ、迷わずに駆け上がる。

ドアの壊れた部屋があった。そこが血の臭いのもとだ。ククラが中に入るが、動くものは何もない。


薄暗くて良く見えない部屋で、明かりをつけると部屋の中は酷いものだった。

部屋一面に飛散している血と、倒れた魔獣の遺骸。

何かの子供の死骸もあった。


形からして魔獣の子供だろうか。

ククラは部屋の中を見まわしても、メリッサがいない事に焦る。

その部屋を出て、イエーガーの研究室に入る。

いつ見てもたくさんあった資料の山は、今は何一つない。


カランとした部屋には、紙が2・3枚残っているだけだ。

ククラがそれを拾ってみると、そこには今まで見た事がない魔獣の絵が描いてあった。

走り書きには、新しい魔獣の形、と書いてある。


…彼は、魔獣を研究していたのか?

そんな話は一度も聞いた事がなかった。

ククラがそれを手に立っていると、突如外から物凄い量の魔導力が溢れる気配がした。急いで外に出てみると、町の空に、町を覆うばかりの巨大な魔導陣が出現していた。


「…何だ、これは…」

ククラは今まで見た事もない事象に、声が少し掠れる。

この巨大な力は、個人で出せるものではない。


こんな力を手にするためには、いったい何人の人間が必要になるのか。

或は一人の魔導士からなら、時間をかけて魔導力を搾り取るぐらいしか。

ククラは2、3歩町に近寄る。

研究所はその魔導陣の中に入っていなかった。


魔導陣の下が見る見るうちに閉じていく。町はすっぽりと、その魔導に包まれた。

丁度ククラの前が、その包んだ膜の境目になる。光る壁の前で、ククラはどうしようか悩む。

ただ、研究所の中には誰もいなかった。街中にメリッサがいる可能性が高い。


ククラが触ろうとすると、閉じたはずの膜がすっと開く。

その開いた大きさはククラが通れるだけの大きさだった。


「…どうやら、僕を呼んでいるみたいだな…」

ククラは一つ息を吐いてから、その中に入る。

入った途端に閉じた壁をククラはちらりと振り返るが、先の構造を目にして酷く驚く。

それはまるで渦巻きの様に、町の広場を中心にして外側から内側へと巻いている道が一本だけ続く構造だった。


つまり。

ククラの居る場所が、スタート地点だった。

「…ふざけてるのか」

ククラは手に出していた斧を、肩に構える。そのまま、走り出した。

…メリッサが広場で待って居る気がして。


ククラが走り出した途端に、家の影から魔獣が飛び出してきた。

さっきイエーガーの研究所で見た、資料の魔獣によく似ている。

ククラは担いでいた斧を振りかぶる。

それは肩から切られたが、切られた部分が見る見るうちにくっついた。


「…マジかよ」

もう一度ククラは切ってみるが、やはりくっつく。

爪で反撃されるのをよけながら、ククラは何処を切ればいいか考える。

まあ。大概は此処だろ。

頭をかち割ると、それきり動かなくなった。


ククラがまた走り出す。建物の影から、魔獣が出て来る。今度は迷わず、頭を狙った。血しぶきをあげて魔獣が倒れる。

弱点が分かれば、大したことはなかった。

魔導を使う訳でもなく、牙と爪で攻撃してくるだけの、弱い魔獣。


しかし、数が多い。道すがら何匹も出て来る。

走りながら斧を振るっていたが、50匹を越した時点で腕がもう上がらなくなっていた。

ククラは魔導に切りかえる。

無詠唱の土魔導の破砕なら、簡単につぶせた。


だが先は長そうだ。

壁の向こうに広場を見て、また町の端まで走る。

グルグルと回っている道のりに、ククラの息が切れだした。

かと言って気を抜くことは出来ない。

魔獣は尽きることが無いように、あとからあとから湧いてくる。


広場の中心に生み出す魔導陣があるのかも知れない。

ククラはそう考えながら、また一匹にとどめを刺した。

まだ道は半ばだ。


少しずつ広場に近付いているのは分かった。

だが、また今は離れていく。

ククラの足がもつれる。いったい何キロ走っているのか。


ククラは自分の思考が鈍くなるのが怖かった。

そしていくらククラとはいえ、魔導力が削られていっていた。

もう何百と倒した気がする。それでも走る先には、魔獣が湧いて出て来た。

ククラが指を打ち鳴らす。魔獣の頭が吹き飛ぶ。


この先に、メリッサがいる。


その気持ちだけでククラは先に進む。

魔導で身体強化を掛ける。

常に発動し続けなければならないこれを、ククラはあまり好きではなかった。

しかし今はもう、こうしなければ足が動かない。


ククラは息を吐いて、前を見る。

まだ先だが、近づいている事は間違いがない。


ククラが走る先に、新たな魔獣。

この弱い魔獣をたくさん召喚している意味が分からない。ククラはまた魔獣の頭をつぶしながら、考えている。

何の理由で、これを自分にけしかけているのか。

これほどの魔導の使い手なら、もっと強大な物を呼べるはずなのに。


…それとも、この魔獣に意味があるのか。


数だけはいるが、実質ククラには勝てそうもない魔獣に。

いったい、何の意味があるのか。全ては辿り着いた先にある。ククラは足を速める。切れている息は気にしないで、螺旋の先に待つ真実を確かめに走った。


何度も来た場所だ。

研究所に行くにも横切って行った。

メリッサとはここの噴水で、待ち合わせをしていた。




ククラはやっと広場に立った。




荒れ果てた広場の光景に眉をしかめる。

そして噴水の上にいる人物を見て、言葉を失った。

何時も水が溢れていた噴水の水は、壊れてちろちろと流れている。


その噴水の上に、メリッサが立っていた。


余りの変わり果てた姿に、ククラはよろよろと近づく。

メリッサは笑っていた。声をあげて。

その声はまるで魔女の様に甲高い。


「きゃあはははは!!」


服は破れ、殆んど身に着けていない。

その体は腹部が無かった。

骨だけがかろうじて繋がっている状態で、メリッサは立っている。

血塗れというよりは、何かの恐ろしい遺骸の様な恋人に、ククラは少しずつ近寄った。


自分が間に合わなかったことを、痛感しながら。



「…メリッサ」

ククラの声に、メリッサが噴水の上から見下ろす。


周りにはあの魔獣がいる。

その変幻の姿を見て、ククラは息を飲む。目の前で、イエーガーが魔獣に変わった。メリッサがククラを指さす。魔獣が襲い掛かって来た。


ククラは反射的に、指を打ち鳴らしていた。

魔獣の頭が吹き飛ぶ。


その血しぶきを浴びながら、ククラはメリッサを見上げた。

メリッサはククラを見ている。


今のが最後の魔獣だったようで、もう誰もいなかった。

そう、二人以外には誰も。

「…メリッサ」


「ククラ。私ね、魔導が使えたのよ」

「…うん。そうだね」


メリッサがゆっくりと壊れた噴水から降りてくる。

がくがくと歩きながらククラの腕の中に飛び込んで来た。


ククラは変わり果てた恋人を抱きしめる。

「私ね、この町が嫌いだったの。いつでも私を監視しているみたいで。…お父様も嫌い。私を母様の代わりみたいに思っていて」

「…うん」


腕の中でメリッサが微笑む。

「でも、ククラがこの町を無くしてくれたのよね?」

「…僕が?」

見上げてメリッサが微笑む。

ククラの眼に、メリッサが映る。


「あなたが町の人を一人残らず消してくれたわ」

「…そうだね」

事実を知ったククラの身体が震えている事は、メリッサには気にならなかった。


「私、魔獣としちゃったのよ、でも、今からあなたとすれば帳消しになるかな?」

「…そうだね」

そのための身体は、もうメリッサには無いと言うのに。


「ねえ、ククラ。私、あなたの町に行きたいな」

「…いいよ。一緒に行こうか、メリッサ」

微笑むククラの顔を、メリッサが触る。

その涙を不思議そうに見つめながら。


「…ああ。もう、私いかなくちゃ」

「…メリッサ」

魔導に翻弄された肉体が、メリッサの身体が解けていく。

パラパラと粉の様になって、散っていく。


「…あなたと行きたかったな、ククラ。私の大事な…」

「……メ…」

ククラの腕の中には、山の様な灰だけが残る。

服が風になびき、リングが、からんと小さな音を立てて転がった。


メリッサだった灰は、その風の中、空へ舞い上がる。


ククラはメリッサのリングを拾って、自分のポケットに入れた。

そして右目に手を被せる。

今迄にない早さで、ククラは知識を探っていく。


この強大な魔導を、他の魔導士達が感づかない訳がない。

下手をすれば、いや、十中八九、魔導士協会が出て来る。

自分に出来る事は少ない。

だが、これを撤回する方法を、ククラはたった一つだけ知っていた。


…真理を見た時に、獲得した知識だ。

使うには、禁忌を使って魔導力を自分の命から搾り取らなければならない。


余りにもリスクの大きい魔導だから、使うまいと決めていた事だったが、今のククラにはそんな事はどうでも良かった。


急がなければならない。

遠くから魔導士達の気配が、近づいている。


ククラは息を吸いこんだ。

「魔導領域、時空」

その体から溢れるほどの魔力が天に上っていく。

ククラはその天を見ている。

使うべきは、たった一言の魔導だった。






「…時逆」







ゆっくり目を開いたククラは広場に立っていた。


辺りは賑やかで、観光地らしく騒がしい限りだ。


広場の中心にはキラキラと水を流す噴水が立っていた。

その周りで、恋人たちが何かを囁いている。


黒い魔導士のローブを纏っているククラを、不思議そうに見ている人もいた。

ククラは迷わずに、町はずれの研究所を目指して歩く。



そこのドアをノックする。

「ああ。待っていましたよ、ククラさん」


「……イエーガーぁああああ!!!」

ククラが絶叫して、魔導を纏わせた右手を腹に差し込んだ。

「ぎゃああ!!」

叫び声をあげて、男は絶命する。

ククラは手に握っていた心臓を、魔導で燃やすと、研究所に焔を放った。


決して残さぬように、焔の最上級を使う。

全てを焼き尽くすのを確認してから、ククラは町の中へ戻る。

広場を通り過ぎてから、その町の富豪の家に入り込んだ。


もう夕方だ。

商売を営んでいる富豪は、家に帰っていた。


ククラが無造作に家に入るのを、その家の娘が目撃していた。

娘は父親の絶叫を聞いて、その部屋に入る。

部屋の中は父親の血で彩られていた。


「あ、ああ」

ドアの所で、娘は座り込む。

父親の傍に立っている黒いローブを着た魔導士を見る。

その魔導士は、何故か、悲しそうに自分を見た。


「…父様を返して!!」

「…もう死んでいる。…無理な話だ」

…何故、その声は、そんなに悲しいのか。


娘は叫ばなければならないのに、どうしても、それが出来なかった。

この魔導士を知らないのに、どうしても、怒れなかった。

「…金目の物は貰っていくよ。お前のうちは金持ちなんだろう?」


その言葉には、何の感情もない。

それには興味がないように、魔導士が父親の机をいじるのを、娘はぼんやりと見ている。

その視線を感じて、魔導士が苦笑を浮かべて話しかける。


「…何か、言わないのか?」

その声が震えている。

娘が立ち上がり、近寄っても、魔導士は動かなかった。

その顔に触れようと手を伸ばす。

娘の指先が触れた先で、魔導士はその手を払った。


優しく、そっと。


「…僕に触っても、良い事なんて何もない」

「それは」

自分の決める事だと、娘が思った。

この魔導士が気にかかる。

父親を殺した犯罪者だというのに。


酷いにおいが充満しているというのに。


「…じゃあ、な」

そう言って、魔導士が娘の横を通り過ぎて去って行った。

その娘は、やっと事実を受け入れる。


家を出て行くククラの耳に、メリッサの嗚咽が聞こえた。




そのまま、ククラはミミトメリを後にする。

もう二度と来ないだろう。


コンマリの自分の家に帰ってきたククラは、風呂に入ってからベッドにもぐりこんだ。

きっと夢を見るだろう。


後悔しかないような夢を。


眉をしかめて、溜め息を吐く。

自分の手をしみじみと眺める。

洗った後でも、血の臭いがした。


眼を閉じて、考えられることを考えてみる。

もう、自分しか頼りは無かった。


魔導などというものは、有っても何の役にも立たない。

僕の考えられるものは、たいして役にも立たない。

人の考える正義は、その人が思っているだけで、他の人にとっては正義にならない時の方が多い。


正しい事は、大した事じゃない。

命は簡単に、無くなったり戻ったりする。

僕にはその力が有って。

…それを使わないのは、愚かかもしれない。


ククラは寝返りも打たずに眠りにつく。



きっと世界は変わらずに回っていく。

僕一人だけが、堕ちていけばいい。





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