永遠のメリッサ 前編



その日は朝から天気が悪かった。


ククラの店で魔導書を読んでいる二人が顔を上げる。

セレスとクレッシェンドだ。

二人が顔を上げたのは、遠くで雷が鳴ったのに気付いたからで、ククラの耳にも勿論それは聞こえていた。

セレスの相向かいに座っていたククラは、立ち上がり、ドアを開けて外を見る。


外は暗くなってきていた。これから先には酷い天気になるだろう。

ククラが二人を振り返る。

「…今日は帰った方が良いよ」

そう言うククラに、二人が渋々頷く。


「…じゃあね」

「俺様が送っていくから、心配するなよ」

クレッシェンドの言葉にククラが頷く。

セレスは不満そうだが、もう慣れていたので、そのままクレッシェンドと歩いて行く。

二人を見送った後に、ククラはドアを閉める。

雷鳴が、近づいて来ていた。


ククラが2階でコーヒーを飲んでいると、下のドアをノックする音が聞こえた。


さっきからひどい雨が降っていて、誰も来ないだろうと思って2階に上がったのだが。急いで下に降りて、ドアを開ける。

そこには見知らぬ人が雨の中、ドアの小さな軒先に立っていた。

山高帽を被ってはいるものの、眼鏡や三つ揃えのスーツは濡れてしまっている。


「…ここは、魔導士のお店で良いのでしょうか?」

「ええ。…とにかく中へどうぞ。そこではまだ雨が吹き込んできますから」

ククラが中へと促す。

ほっとした顔をした人を中に通して、ククラはドアを閉めた。


ククラがタオルを手渡して、お茶の用意をしに2階に上がる。

降りてきた時に、その人は本棚をしげしげと見ていた。

「紅茶で良かったですか?」

「ああ。暖かいものはありがたいですな」

男性は本棚を離れてソファに座る。

ククラも向かい側に座った。


外は雷鳴が響いて一段と雨がひどくなった。

その音に、ククラとお客は窓を眺める。

「こんな天気になるとは思っていませんでした」

そう言って苦笑を浮かべるお客に、ククラも頷いて見せる。


「…こんな天気は珍しいんですけどね」

「そうですか。…それはそれで幸運ですかな」

苦笑を微笑みに代えて、お客は紅茶を飲む。

ククラも紅茶に口を付けるが、そのククラをお客が見ていた。


視線に気付いてククラが声を掛ける。

「何か、お仕事の話ですか?」

「はい。…魔導士の方に、研究のお手伝いをしていただきたいと思いまして」

そう言って、大事そうに革のカバンから紙の束を取り出した。

ククラはそれを受け取って、紙を捲る。


魔導の研究が細かく書いてあった。

近年になって、研究者が減ってきている事が嘆かわしいと、ククラはどこかで聞いた事がある。

新しい魔導が生まれなくなっている事は、確かに勿体無いとククラも思う。

可能性は幾らでもあるのに。


その紙には新しい魔導の開発の事が書いてあった。

研究では、魔導を使えない人でもわずかな魔導力は有している事実が分かっているとの事。その魔導力を増やして、もっと沢山の人が魔導を使えるようになれば、今の魔導力の格差が少なくなるのでは。そう書かれていた。


ククラは紙から目を上げて、お客を見る。

「…僕は何をすればいいんですか?」

「私の町に来てもらって、魔導力の変化を観測させてほしいのです」


「…魔導力の変化ですか?」

「はい。どの魔導が一番魔導力を使うのか。種類なのか、クラスなのか。…それが分かれば、使っても消費が少ない魔導を勧められますし」


そう言って、人の良さそうな顔をした男がにこやかに微笑む。

ククラは少し眉をひそめて、お客を見る。

「…今までに、そういった事は調べられなかったのですか?」

「魔導士の方に頼んで統計はとってありますが、それぞれの魔導が出来ない方も多くて。…ほとんどの魔導が使える方がいると伺いまして、居ても立ってもいられなくなりまして」

自分の行動に苦笑して、お客が笑った。


それで、こんな天気の日に来たのか。

ククラが付いた溜め息に、お客がまた笑う。

「…研究バカなのは自覚があります」

「そうですか」

バカとは思わないけど。


ククラが悩んでいるのを見て、お客は紅茶を飲んで待っている。

雨が激しく降っている。その音がうるさく耳に響く。

店の中もその音で騒がしい。ククラもお客も黙っているのに。


「…どれぐらいかかりますか?」

「期間の話でしたら、少し長いのです。…2週間ぐらいと思っていただければ」

ククラはそれを聞いて、断ろうかと考える。

拘束期間が長すぎる気がした。


その間、何処かに籠っているのは正直、気がめいるだろう。

「あ。ずっとどこかにいて貰うわけでは無いのです。…研究所にいて貰うのは1日に1時間ぐらいで。ただ追加で調べたい時に、すぐに来ていただきたいので、その町にいて貰いたいのですが」

ククラの表情を読み取ったのか、お客がそう言った。


…町にいればいいのか。

それぐらいなら、耐えられるかな。

ククラはお客を見る。やたらに期待をしていて断りづらい。

溜め息を吐いた後に、答えた。


「…良いですよ。話を受けましょう」

「ああ。有難うございます。…それではこちらが前金です。宿は決まったら連絡をください。支払いはこちらでします」

「そうですか。…僕はどの町に行けばいいんですか?」


お客はにこりと笑った。

「…ミミトメリと言う町です」

その時また、雷鳴が鳴った。ククラが窓を見る。

窓から見える風景はまるで嵐の様だった。



翌日は晴れていた。

嵐の後の様に、雲一つない空が広がっている。


何時もの様にククラの店を訪ねてきた二人が、ククラが仕事の支度をしている所を見て、顔をしかめる。

「…言ってくれないと」

セレスがそう言って、頬を膨らます。

「ああ。ごめん。…夕べ決まった事で、連絡しようと思っていたんだけど。…セレスの方が早かったね」

ククラがちらりと時計を見る。

この世界の時計は余り正確ではないが、だいたいの時間ぐらいは分かる。


まだ朝の7時半だった。

ククラを責められはしないのだが。

セレスもクレッシェンドもククラをじっと見ている。

「…悪かったって。すみませんでした、連絡しなくって」

二人にそう言ってククラが謝る。


「誠意が感じられない」

「…もっと、きちんと」

「ええ?」

二人の言葉にククラが困った顔をする。

その顔を見て、セレスは頷き、クレッシェンドは意地の悪い笑いを浮かべた。


「ゆるす」

「ま、仕方ないか」

…勘弁してよ。

二人の暴挙に、ククラが溜め息を吐いた。

それでも、言わなくてはならない言葉は言っておく。


「暫くいないから」

「…どれくらい?」

ククラの言葉にセレスが聞いてくる。

「2週間ぐらいかな」

「ええ?」

「は、何、それ」

答えたククラに、二人が詰め寄った。

…だから。

身支度よりも時間を費やして二人を説得しながら、ククラは心の中で大溜め息を吐いた。


ククラはコンマリの馬車乗り場から、馬車に乗ってミミトメリを目指した。

同じ馬車の中は案外と人が乗っていたので、ククラは端に座った。

幌の後ろは閉じておらず、過ぎていく風景が見える。

細い道を駆けていく馬車の中で、ククラは教えられた場所を反復していた。


町の外れの研究所。

そこが何処なのかは町についてから聞けばいいと思っている。

この馬車の中にいる人たちが、全員その町の人の訳ないし。

過ぎていく風景の中に、壊れた建物がちらほらと見えてくる。

この間まで内乱が起こっていた地域だ。


ジェイが出かけて来たと言っていた。内乱には、ジェイは良く頼まれて出ている。

魔導士としてなのか、それとも個人的に思い入れがあるのかは聞いた事がないが。内戦や内乱だと、良く出ているのを聞く。

きっと何か考えがあるのだろう。ジェイの性格から、それが好きとは思えなかった。



いきなり沢山の瓦解した建物が出現する。

ククラが目線でそれを追っていると、馬車の中から何名かの溜め息が聞こえた。


話の内容でその人達の故郷だったと知る。

…無くなった町か。

戦争で無くなった故郷を、出て行く先で何度も目にするのは、どんなに悲しいだろう。

ククラはなるべく表情に出さないようにした。


何も知らないやつに同情されても、腹立たしいだけだろう。

それが同情か心配かは、話さなきゃ分からないし。

話してもそう取るかもしれないし。


ククラは溜め息もつかない様に、外を見つめた。

ミミトメリに着くまでに、降りる乗客はほとんどいなかった。

ククラの予想に反して、その殆どがミミトメリの住人だったようだ。


馬車がほとんど空になってからククラも降りる。

町の外れの場所の様で、皆の後に付いて行こうと思っていたククラに、声を掛ける人物がいた。


「…あの」

ククラが見ると、そこには少女が立っていた。


茶色い髪を耳元で編み込んでいる。ぱっちりとした目は綺麗な深海のような紺色だった。真面目そうなブラウスに小さなリボンを結んでいる。

チェック模様のスカートも真面目な印象を妨げてはいなかった。


その眼で、ククラをじっと見ている。

ククラはあたりを見回すが、もう、そこに残っているのは自分と彼女だけだった。


「…僕に何か用かな」

ククラが返事をすると、彼女は頷いた。

「あの。…魔導士さんですよね?」

この格好で、他の職業だったらそいつは詐欺師だ。

ククラは着てきたローブについて、嫌な感想を持った。


「そうだけど」

「ああ。私、魔導士さんて初めてお会いしたんです」

ひどく嬉しそうに、彼女が言った。


何だかそんな風に言われると、居心地があまりよろしくない。

ククラは少しむずがゆさを感じる。


もっと立派な魔導士なら良かったのにね。

彼女に要らぬ心配までしてしまうククラだった。


「あの。町まで一緒に行っても良いですか?」

「……うん。助かるよ」

ククラの言葉に彼女が笑う。

その笑顔に、ククラは少し戸惑った。


ククラは自分が男に好かれるのは知っていたが、女性に好かれることはないだろうと思っている。

…フランは例外だ。

だからこの状況に戸惑いを隠せない。道行に女性を伴っている事に。


「…何処から来られたんですか?」

「コンマリ」

ククラが少し困っているのは、彼女には全く通じていない。


「今日はどうしてミミトメリに来たんですか?」

「…観光で来たんだ」

仕事の事は守秘義務があった。


そう言ったククラの顔を、嬉しそうに彼女が見る。

「何か見たい所でもあるんですか?」

「…いや、特には。…休暇がてらに、ぶらぶらしようかなって」

ぱああという音がしそうなくらい彼女の顔が輝いた。


「じゃあ、私が案内します!」

「…あ、うん」

つい頷いてしまった。

言ってから、しまったなあと思ったが、後の祭りだった。


彼女は楽しそうに歩いて行く。

…うん、まあ、いいか。

ククラは自分を納得させてからその後を付いて行く。


急に彼女が振り返った。


「あの。お名前はなんていうんですか?」

「…ククラ。…君の名前は?」

問い返すと、彼女は慌てたように両手を振った。

その動きが面白くてククラが笑う。


「私、メリッサって言います。…あの、何か変な事をしましたか?」

「…いや、別に」

まだ笑っているククラに、メリッサが困った顔をした。

…可愛い子なのに、変わってる。


それがククラのメリッサに対する第一印象だった。


ミミトメリは綺麗な町だった。

美しいという訳ではないが出来立ての町らしく、何もかもが清潔だった。

特にククラが来た新市街は、観光用に作られていて清掃も行き届いている。

地元の人もたくさん来ていて、華やかさがあった。


メリッサに教えられて、ククラはその中の宿に泊まることにする。

その建物も出来立ての様で、白い壁にはまだ染み一つない。

ククラが受付を済ませている間、メリッサはその手元をじっと見ている。


「…何処に行きますか、ククラさん?」

「君の行きたい所でいいよ、メリッサ」

ククラがそう言うと、メリッサはククラの手を引いて歩き出す。

町の中を何だか照れながら歩くのは、初体験だ。


綺麗な長い髪がゆらゆらと揺れている。

ククラが見ると、それに気付いてメリッサが微笑んだ。


その笑顔は素直に喜んでいて。

ククラもつられて笑う。


二人で大きな商店街に入る。

新しい店が並び、メリッサはククラを案内しながら店を覗いて行く。


此処の名産だと聞いて、アクセサリーの店に入る。

誰かに土産を買おうかとも思ったが、それならば全員分を買わなければならない事に思いつく。ククラが少し溜め息を吐くと、メリッサが聞いてくる。


「あの。私ばかりはしゃいで嫌ですか?」

「え。いや、そうじゃないよ。…お土産を買おうと思ったんだけどね」

そこで言葉を切ったククラを、メリッサが見上げている。


「…彼女さんですか?」

「僕に彼女はいないけど」

いたら、こんな事はしてないだろう。不誠実すぎる。

ククラはその言葉は言わないが。


メリッサがほっと溜息をついた。


「…あの、買いたいものがあるんですけど、良いですか?」

「ん?…僕は待ってるから買ってくればいいよ?」

「…はい」

真剣に頷いて、メリッサが店内に消える。

ククラは近くのピアスを見て、そういえばジェイがしていたなあ、なんて考えている。


それにしても。この店には女性客や恋人同士が多くて。

人気店なのだろうけど。待っている身には少しつらい。


「…あの、ククラさん」

「買ってこれた?」

メリッサがその手をそっと開く。

大事そうなその手つきに、ククラは手の中をメリッサと一緒に見る。


メリッサの手の平には、小さなリングが二つ乗っていた。

銀色の輪に、紺碧の石が付いている。

大きさが少し違った。


「…あの。…手を貸してください」

「え?…いいよ」

ククラは自分の手を出す。手のひらをひっくり返されて手の甲を上にされた。

その小指に、メリッサがリングをはめる。

ククラが驚いていると、メリッサは自分の指にもリングをはめた。


「え、あの、どういう事?」

ククラの言葉に、メリッサが顔を赤らめながら答える。

「…あの、おまじないのリングなんです。…別れてもまた会える様に。二つで一つのリングなんです」

ククラは貰ったリングを外すことも出来ずに、赤い顔のメリッサを見る。


そして自分も顔を赤くした。

それってつまり。


「…ええと。…僕達、今日会ったばかりだよね?」

「はい」

「…今、少し話しただけだよね?」

「はい。そうです。…それじゃいけませんか?」

メリッサに逆に返されて、ククラが言葉に詰まる。

…いや、悪い事は何もないけど。


目の前には赤い顔をした少女。

周りには楽しそうな話し声が満ちている。

その中で、ククラはどうしたらいいのか悩んでいる。


「…私の片思いでいいんです。…ここに居る間だけでも一緒にいてくれませんか?」

「そ、れは」

言葉が上手く出ない。

それは悲しすぎるし、自分の気持ちも上手く掴めない。

何だか喉から心臓が出そうだ。


「とにかく、ここは出ないか、メリッサ」

周りのカップルが面白そうに見ているのが気になった。

メリッサの手を掴んで店を出る。

後ろから、ひやかす声が聞こえた。


町の中心の広場まで歩く。

大きな噴水が、空に向かって水を吐き出していた。

その縁に座って、メリッサを見る。

ククラの顔をじっとメリッサが見ていた。


ククラが握っていた手は、今はメリッサの方が強く握っている。

「…君は、その」

ククラは言葉が見つからないまま、メリッサに話そうとした。

だが、その先が続かない。


メリッサがククラを見ている。

その眼には、何かを迷う様子は無かった。

ククラがそれに怯む。


「…また明日も会ってくれますか?」

ククラは返事に迷った。

だが、口からは全く別の返事が出ていた。

「…午後からならいいよ」

メリッサが嬉しそうに頷く。


ククラは自分の言葉に驚いている。

そして、この子を遠ざける気の全くない自分に、驚いていた。

「ククラさん」

「…なに?」


「私、馬車の中にいる時からあなたを見ていたの。あなたが一人で外を見ているのを、私も一緒になって見ていて」

「…うん」

胸の中で何かがくすぐっていく。


「あなたが、私を見てくれればいいなあって。…外を眺めているあなたはカッコ良かったけど、何だか寂しそうだったから」

「…」

何かが、胸の中を何度も撫でていく。

それが触れた後は、痺れているのに似ていて。


メリッサがククラを見上げる。

ククラは自分の耳が熱くなっていくのを自覚していた。

「…こんな女の子は嫌い?」

「……いいや」

首を横に振るククラを、本当に嬉しそうにメリッサが見ている。


そのまま二人はそこに座っていた。



夕方を告げる鐘の音が何処からか聞こえて来た。

メリッサが残念そうに立ち上がる。

ククラもつられて立ち上がった。


「…私の家、門限が厳しいの。…明日、何時に会えるかな?」

「…2時にここで待ってるよ」

メリッサが肯いてから、跳ねるように駆けだした。


ククラは思わず伸ばしかけた手を、握って留める。

その後姿が消えるまで、ククラはじっと見続けた。


泊まっている宿に帰って、ククラは溜め息を吐いた。

自分一人になったら、この気持ちに整理が付くだろう。

落ち着いて、彼女に話す言葉が見つかるだろう、そう思っていたのに。


ククラの中に、彼女を拒絶する言葉は一切出て来ない。


…僕はどうしたんだろう。

今回は仕事で来ているだけなのに。

それなのに。


こんな浮かれた気持ちでいて、仕事なんて出来るのだろうか。


風呂に入って考えようとしてみる。

けれど、考えるのは彼女の顔ばかりで。


…本当に、どうしたんだろう。

今までに一度も感じた事のない気持ちに、ククラは戸惑うばかりで。

ベッドに入っても、その気持ちのせいで一睡もできなかった。


朝が来るのを嬉しく思ったり。

時計の進みを、遅いんじゃないかと気にしたり。



何かが違う日が訪れていた。




それでも仕事は忘れないでいる。

几帳面な16歳だ。


町はずれの研究所の場所を聞くと、嫌そうな顔する人が居た。

ククラは少し警戒心を抱く。

依頼者が正しいとは限らない。


大きな建物の前で、ククラは大きく息を吸う。

気持ちを切り替えなければ。

「おはようございます」

ククラが呼び鈴を押すと、ククラの店に来た人が顔を出した。


「ああ。いらっしゃい、待っていましたよ」

「…すみません、お待たせして」

ククラが頭を下げると、その人物は顔を破顔させて笑った。

「…いいえ。来てくれて本当に嬉しいですよ。これで研究が進めば、魔導がもっと身近になりますから」

そう言っている姿は、この間と何ら変わりがなかった。


このお客は、イエーガーという魔導研究者だった。

なるべく魔導を普及したいとの話に、ククラは仕事を受けたのだ。

それの合間に聞いた魔導の開発も、嫌なものは無かった。

ただ何となく、彼の開発したい魔導はどちらかと言えば中間魔導の様に、生活が便利になるようなものばかりで。

心意気は素晴らしいと思うのだが。普及するかは微妙だと思っている。


ククラは案内された部屋で、大きな水晶急に魔導を掛けている。


初級の魔導はククラには無詠唱でできるものばかりだが、きちんとした資料としてほしいと言われているので、初級でも詠唱をして調べて貰っている。

「…成る程、これは少し魔導力を使うのですね」

イエーガーがそう呟いた。

ククラは彼が書き込んでいるノートを覗く。


几帳面な文字で、それぞれの発動力が掛かれている。

ククラも、そんな事を考えて使った事は無かったので、興味があった。

そのククラに、イエーガーが笑いかける。

「…面白いですか?」

「ええ。…あまり考えたことがなかったから、新鮮ですね」


ククラの言葉に、イエーガーは嬉しそうにする。

「興味を持っていただけると嬉しいですね。…魔導を使う方本人に気に入っていただけると、私のやる気も出て来ますよ」

両手に拳を握って、イエーガーがガッツポーズをする。

ククラはその姿に吹き出した。


その日は、本当に1時間ほどで調査は済んだ。

明日も同じ時間に来ることを約束して、ククラは研究所を後にする。


ククラは早足になっている自分に気付いて、苦笑いする。

そんなに急いで行ったって、時間が早く来るわけでもないのに。


約束の噴水まで行ってみる。時間はまだ、お昼過ぎ。

まだ1時間半も先の約束なのに。


そこにメリッサがいてククラが驚く。

メリッサはククラの姿を見て、やはり驚いていた。

「…何で?」

「それは、私が聞きたいよ」

メリッサがククラを見上げる。

ククラは自分がメリッサの近くに寄っている事に気付かない。


その距離は二人で立っているには、ひどく近いもので。

「…あなたを待っているのが楽しいから、ここに居たの」

「…僕は今、用事が終わったから、ここに来たんだけど」


「用事?」

「…ん、ああ」

ククラの苦笑にメリッサが手を握る。

その手を見ると、自分の指にも相手の指にも、光るリングがあった。


二人は黙ってそのリングを見る。

お互いがお互いのリングを見つめていて。

「…君の色だね」

ククラがそう言うと、メリッサはククラの胸に寄りかかる。

彼女がほんの半歩動いただけで、そうできる距離に自分がいた事をククラは今、気が付く。


「あなたに何時も見つめてもらえたら、嬉しいな」

「…リングを?」

ククラの言葉に、メリッサが顔を上げる。

その紺碧の瞳は、まるで、瑠璃の色で。


その瞳が閉じられる。


日の光の下、水が流れ落ちる音がする。

けれどククラの耳には、自分の呼吸音と心臓の音。

それと、彼女のささやかな息遣いしか聞こえなかった。


ククラが顔を離す時に、彼女が名残惜しそうについた吐息に、二人して顔を赤くした。

メリッサも意識してしたわけでは無かったが、それが何かを連想させてククラは思い切り緊張した。


「…今日は、何処に行こうかな。」

ククラの腕の中で、メリッサが囁く。

彼女を見つめたまま、ククラが答える。


「僕は此処を知らないから、メリッサの行きたい所でいいよ」

「…うん」

甘い声でメリッサが肯く。

それでもそこから歩き出したのは、暫くしてからで。

二人で腕を組んで歩いて行く姿に、町の人達の好奇の目が付いてまわったが、二人には気にならなかった。



綺麗な工芸品の博物館や、子供の玩具にはしゃいだりした。

何を見ても、楽しかった。

つないだ手の先に彼女が居るだけで。

それだけで、どれもが楽しく感じた。


普通の事や、つまらない事なんて有り得なかった。

今ならたとえ道を猫が横ぎっただけでも、二人で笑いあえるだろう。


絡める指先が、熱を帯びている。

メリッサのその微笑みをどうにかしてしまいそうな衝動が、何度もあって。

その度にククラは、自分を戒めならなければならない。

そんな事は知らないメリッサが、また微笑んだ。


ククラは自分が空恐ろしくなる。

…これはいったい何だろう、僕は何を考えているんだろう。


彼女の門限が来て、明日の約束をして別れた時に、ククラは寂しさと切なさの他に安心している自分を自覚した。


自分が怖かった。彼女を壊しそうな自分が。

この衝動が、普通の男としては当たり前だとしても。

まだたった2日しか会っていない少女に、ぶつけるものではないと分かっている。


泊まっている宿の部屋に入ってから、ククラは息を吐く。

何時でも考えてから動くように自分でやってきたつもりだったのに。

考えなんてまるで追いつかない。


これは何なのか。

自分はどうなってしまったのか。


頭で考えても答えは出ない。答えは胸の内にある。

手放しでそこを探るのは怖かった。


でもそうしなければ、今の自分は動けなくなってしまうだろう。

恐れに勝てなくなって。


胸の内に聞いてみるのは簡単だった。

今の自分を占めている殆んどがそれだったから。




…多分、これが。

ククラは自分の胸を強く押さえる。


これが人を好きになるって事だ。


強くて熱くて、愚かで迷いやすい。

それだけで世界が回り。それだけで生きる力になる。


相手の事を考えているようで、自分のことしか考えてないような。

何時でも楽しさと苦しさを同時に抱えている。


もどかしい、この思い。

手では決して触れないのに、身体さえ支配される。



こんな気持ちが、僕にもあるなんて。

次の日に研究所に行ったククラを、イエーガーが笑いながら見ている。


「…僕、何か変ですか?」

そう聞いたククラに、イエーガーは笑いながら言う。

「何だか心ここにあらずって言う感じですね。…誰かと待ち合わせですか?」

「え、あ、いや。その…仕事はちゃんとします」

笑われて、ククラはひどく恥ずかしい。

イエーガーは、目を細めてククラに微笑む。


「…良い事ですよククラさん。魔導は心の強さでいくらでも強くなります。大事な物を見つければなおさらですから」

「あ…いや…」

否定も出来ずに言葉に詰まるククラに、イエーガーは手元の資料を見る。


「ふむ。昨日よりも強くなっているようですね。…今日は光魔導をお願いしても良いですか?」

「あ、はい。分かりました」

水晶球に魔導を流し込む。

確かに疲れもせずに、魔導を使っている。


むしろいくらでも湧いてくるような感覚だった。


ククラのその姿を嬉しそうに見ているイエーガーは、数値を見てまたノートに書き込む。

ククラが見ても、昨日よりも数値が大きいのは明らかだった。

「…また明日、お願いしますね」

「はい。では、明日また」


笑顔で研究所を後にする。

足が駆け出さない様に自制を掛けるのが精いっぱいだ。

ククラはまだ早い時間なのに、噴水の前に立っている。


走ったせいできれた息を整えながら、この時間もまた幸せだと思った。

彼女を待っている事も、この不安さえ。

幸福だ。


彼女が走って来る。

そのままククラの腕の中に飛び込んで来た。

ククラが抱きしめると、メリッサが抱き返してくる。

二人は厚い抱擁を交わした後で、腕を組んで歩いていく。


今日は近くの河原を飽きるまで歩いた。

小さな花や、飛んでいる虫にも二人で意見を交わして、笑いあう。


この時期では水遊びは出来ないが、手を差し入れて冷たさを楽しむ。

泳いでいる魚を応援したり、河原の石を投げてみたり。


二人ともまるで子供の様にはしゃいで笑いあった。

「…ずっと、日が落ちなければいいのに」

「うん。そうだね」

それならずっと二人でいられるだろう。


けれど日は沈む。

二人は無言で、手を繋いで河原をゆっくりと歩いている。

心とは違って、事象は無情に過ぎていく。


夕暮れには、メリッサは帰らなければならない。

「…もっと早く会えないかな」

「…うん。そうだね」

しかしククラは仕事がある。

メリッサも習い事があって、朝から会えるわけでは無いようだ。


もう何度も話した事なのに、別れ際には気にかかって、手を離せないでいる。


「…帰ろう、メリッサ」

「…いや」

メリッサが小さく言った。

そのわがままを聞くにはもう少し時間が必要だと、ククラは思う。

もっときちんと手順を踏んで。


…何のために?

見上げてくるメリッサに屈み込みながら、ククラは自分に問う。

その柔らかい唇の奥の、その触れる部分に。


考えても無駄な時もあるんだな。

甘く感じるそれを味わいながら、ククラは考える事を放棄していた。


夜が来て朝が来る。

ミミトメリに来てから五日がたっていた。


ククラは自分の家の様に、毎日帰って来てはここから出かける。

その宿に今日も帰って来た。


気持ちが疲れない時は、体も疲れない事を知って、ククラは苦笑をしながら風呂に入っていた。

出る時に鏡に映った自分の顔を、随分変わったと自分で思って、しみじみと眺める。

本当に此処に来る前とは違う気がする。


何だかばからしい気もするが、それはきっと心の問題だろうと思った。

僕はこの数日で変わったのだろう。


メリッサを得て変わっていく世界は、自分の想像の範疇をはるかに超えていて。

どれだけ思っても足りないなんて、思いつきもしない世界だ。

自分が誰かをそこまで思うなんて。

此処に来るまでには、夢想すらしなかった。


痺れるような幸福は、何処まで僕を待っていてくれるのだろう。

魔導士の少年は、窓から月を眺める。

明日も会うだろう彼女に思いを馳せながら。



その月を彼女も見ているとは知らずに。

町の名家の家に住む少女は今日も会っていた彼氏の事を思って、熱い息を吐く。

その情熱は留まる事を知らない。


ククラ。

私の運命の相手。

彼女は熱い思いに、指先で窓から月をなぞる。

月の光の中、彼と歩けたらいいのに。


この先、ずっとそうできたらいいのに。

口づけを交わした唇を、自分の指で撫でながらメリッサはまた溜め息を吐いた。



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