オンウルの魔物・8


新しい年が明けていた。

最近は酷い事件は起きておらず、町に少しずつ活気が戻ってきていた。


夜の盛り場にも人が戻って来ていた。


他の族長たちと酒を飲みながら、キダチェクはずっと考えていた。

去年から、もうずっと考えていた。

どうすればサモールを討てるのか。

今のやり方はこの国にとって有益ではない。

一部の部族だけが利を貪り、他の民はそのうちに命すら怪しくなるほど貧困にあえぐことになるだろう。


新しい年から納める税が何倍にも増える予定だった。

いまはいい。

まだ誰もそれに気づいていない。

しかしそのうちに民は気付き、おそらくは内乱が起こるだろう。

キダチェクはグラスに口を付ける。

しかしその内乱を起こした殆んどの民が、あの少年に負けるのだ。

圧倒的なその魔導力で。

何百人がかかっていっても勝てはしない。


今やそれほどまでに強大な力を持っている。

その魔導力が他に使われたらこの国は栄えるだろうに。


溜め息を吐く彼に他の者が酒を注いでくる。

苦笑いしながら注がれた酒をあおった。



俺に何ができるだろう。

この命一つぐらい国に捧げたっていいのに。

キダチェクは酒に酔いながら、そんな事を考え続ける。

今の彼に出来る事は考えることだけだった。


深夜に皆と別れて家へと帰る。

その酔った目に人影が写った。

キダチェクは暗闇に目を凝らす。


黒い服を着たその人物は微動だにせず天を見ていた。

つられてキダチェクも空を見上げる。

今日は珍しく晴れていて、夜空には冴え冴えとした月が出ていた。


その光に目が慣れてくる。

キダチェクはその月を見ている人物に心当たりがあった。

先程まで考えていた人物だ。


「ククラ」

相手がこちらを見る。

頭を軽く下げた。だが言葉は発しない。

最近はその姿をあまり見かけていなかった。

皆はサモールが手飼いにして閉じ込めたのだろうと、下卑た噂を流していた。

キダチェクは事実を口にはしていない。


たとえどれだけ非人道的な事をやらされているとしても、彼はまだ14歳の少年なのだ。

そんな噂など聞きたくもなかった。

もしも本人が聞いたらどれだけ傷つくだろう。


だが現実はもっと残酷だった。


こちらを見たククラは酷い傷だらけだった。

至る所に巻いてある布には血がにじんでいる。


「…良い月夜だな」


キダチェクは何をどういっていいか分からずに、そう声を掛けた。

ゆっくりとククラが肯く。

驚かさないように傍に寄ってみた。

ククラは何もせずにそこに立っている。

前の様に警戒する事もなかった。

キダチェクがククラを見下ろす。

ククラは見上げる事もしない。遠く何処かを見ている。


「…名前は思いついたか?」

他に聞く事もなかった。

ククラが顔を上げてキダチェクを見た。

キダチェクの背中がひやりと寒気を感じる。

その眼は遠くを見ているような、自分など見ていない眼だった。

瞬きもあまりしない。


「…ごめんなさい。…まだ考え付かなくて」

その声はかすれていて、ざらざらとした音のように聞こえた。

「…そうか。…まだ大丈夫だ。多分出産は夏ごろだろうから」

そう笑うキダチェクをククラはぼうっと見上げている。

口も開かず、眉すら動かさない。

けれど、キダチェクの言葉には反応をした。

ゆっくりと頷いた。


「…寄っていかないか?今ならまだアガタが起きている」

ククラが反応するのを辛抱強く待つ。

聞こえてはいるようだ。眉根を寄せてゆっくり考えている。

そして再び肯いた。


キダチェクのすぐ後ろを歩いてついて来る。

こんな夜中に出かけてサモールに怒られるのではと心配もしたが、キダチェクにとって、これはチャンスかもしれなかった。

ククラを自分の方に引き寄せる。

サモールから離すことが出来れば、あとは力技でなんとでもなるだろう。

とにかくこの魔導士が味方に付いてくれれば。


そんな事を考え付いた自分にキダチェクは情けなさを感じた。

どれだけ考えが行き詰っているのか。

自分が考える民にこの少年は入っていないのか。


ドアを開けてククラを中に入れた後、ドアを閉めながら溜め息を吐いた。


「…あら。ククラじゃないの。久しぶりね?」

微笑むアガタにククラが頭を下げる。

そのククラの手を取ったアガタが眉をひそめた。

「…まだ血が出ているわ」

右手の指先から血が伝って落ちていた。

きっと肩か上腕に大きな傷があるのだろう。

手の平に傷はなかった。

ククラが振り向き、自分が歩いてきたところにも血が零れている事に気付く。

指を器用に動かす。詠唱もない。

床に落ちていた血が一瞬で消えた。


「…自分の傷は治せないの?」

アガタが布でククラの手を拭いながら聞く。

「…治してはいけないので」

ざらざらした声で答える。

アガタは少し眉をひそめた後、にこりと笑った。

「そう。あなたがそう言うなら仕方ないわね。…お茶でも飲んでいってね?」

ククラが肯くのを見てから台所に行く。

その後姿をククラがぼんやりと見ていた。


キダチェクはどう声を掛けていいか分からずにいる。

今の話だと傷つけているのも治すなと言っているのも、サモールだろう事は予想できた。

何故こんな手ひどい傷を受けているのか聞きたかったが、どう聞いていいか分からない。


少しするとアガタが、ミルクのたっぷり入った紅茶を持ってきた。

酔った頭には丁度いい。

ククラも貰って素直に口を付けている。


「何でそんなに傷だらけなの?ククラ?」

アガタがククラに、そう聞いた。

キダチェクは少し紅茶を吹きそうになった。

いくらなんでも直接過ぎるだろう。

我慢して飲み込むとククラが口を開くかどうか心配になる。

しかしその心配は必要なかった。


「…サモール様が気に入らないと言われて、色々な物で殴るのです」

あまりにも素直に言っているククラを、二人は呆然と見ている。

「…そう。…怪我を治しちゃいけないのは何で?」

アガタは、立ち直るとすぐに次の疑問を口にした。

「…多分、この傷がある方が良いのでは」

「でもあなたは不自由よね?」

くすりとククラが笑うが、笑ったようには見えない。


「…それは関係ないですね。印が付いてないと嫌なのでしょう」

そう言ってまた紅茶を飲む。

やけに冷静なその口調が気にかかった。

声がひどく枯れているから、話だけを聞いたらどこかの老人の様だ。

「…今日はサモールは家にいるのか?」

試しに無難な話を振ってみた。

これで怒るようなら他の話はしないでおこうとキダチェクは思った。


「…ええ。今頃は寝ていられると思います」

ククラが素直に言う。

キダチェクは唾をごくりと飲んだ。


今なら聞けるかもしれない。

あれの弱点を。


「最近は傍に居なくても平気なのか?」

ククラがじっとキダチェクを見た。

その眼が何も映していない分、何を考えているのかが分からなくって怖かった。

相手はこの国きっての魔導士だ。

しかしキダチェクは腹を決めていた。

こんな機会はこの先あるか分からなかった。


「…ええ。僕が防護の魔導をかけっぱなしにしていますから」

それでは勝つ術もないだろう。

キダチェクは少し気落ちする。

だがそれでも聞きたいことはまだあった。


「お前はこの国の未来をどう考える?」

ククラがアガタにお代りを貰っている。

まだ座っているだろう。

「…僕の考える事ではないですね。それはこの国の事を考えたい人が考えればいいと思います」

そう言ってククラは熱い紅茶に口を付ける。

「…気にしていないのか」

「…僕には何が正しいのかが判断できませんので。…そういう者は考えるべきではないと思います」

正論だが心がなかった。

「…もしも、俺が考えている事をしようとしたらお前は止めるのか」


ククラがじっとキダチェクを見る。

その眼は丸く見開かれたまま、瞬きもしない。

「…お好きにどうぞ。僕に誰かを止める権利はありませんので」

そう言ってアガタの方を向く。

話の途中で何かと思ったら、アガタが口を開いた。

「ねえ、ククラ。ずっと魔導をかけっぱなしなんて出来るの?魔導って集中が必要なのでしょう?」

とてもいいタイミングで話を振ってくれた。

自分が聞くよりも妻が聞いた方が答えるかもしれない。


「…本来は。…今、僕がかけているのは僕の命と繋がっていますから、僕が消えない限りは続きます」

「そうなの?凄いわねえ」

アガタが感心したように言う。

ククラは少し笑った。今は笑った顔に見えた。

「ね。それに弱点なんて有るの?」


妻の質問にキダチェクは胆が冷えるかと思った。

何でそんなに直接聞くんだ。

さすがにククラがカップを降ろす手を止めた。

しかし今のククラはどんな気持ちなのかが全く分からない。


アガタをじっと見ている。

それからひどくゆっくりと口を開く。

「…僕の」

口が違う形に動いたが声にはしなかった。

暫く待ったがククラがその続きを言葉にする事はなかった。


「うん。そうよね。魔導士が自分の術の話なんてしないわよね」

アガタが困ったように笑いながら立ち上がり、台所へ行く。

キダチェクは今の口の動きで何が弱点かは分かった。

そのキダチェクをククラがじっと見る。


わざと、そうしたのだろう。

キダチェクは確信した。

ククラはサモールを裏切る気がある。

考えてみれば当たり前だろう。

こんな酷い事をされていて、それを嬉しいとは誰も思うまい。


キダチェクはじっとククラを見る。

しかしまさかお前の血をくれとは言えなかった。

さっき血を吹いていた布はとっくにアガタが捨てていた。


それに布では何の役にも立たない。

アガタが台所から帰って来る。

ククラのカップに3杯目の紅茶を注ぐ。

それを大人しくククラは飲んでいる。


「ねえ、ククラ」

アガタの問いかけにククラが見る。

「あなたのその腕の所が怪我をしているのよね?…そこを触っては駄目かしら。何だか何かが刺さっているみたいで」

言われてキダチェクもそこを見る。

確かにその部分が少し持ち上がっていた。


「…いいですよ」

ククラがそう言うとアガタがきれいな水と清潔な布を用意する。

それから度数の強い酒を持ってきた。

ククラはアガタが袖をまくるのをじっと見ている。

出て来た傷は酷いありさまだった。

大小のガラスがまだ刺さったままで肉は抉れていた。

これでは血が止まらないのは当たり前だろう。


「…抜いてもいいかしら。痛くない?」

アガタの言葉にククラが肯く。

そしてククラは何故かキダチェクを見た。


見られてキダチェクは少し怯む。

未だにククラの眼に慣れない。

大きな破片が10個近く抜かれる。


「…十分でしょう」

ククラはキダチェクを見ながら確かにそう言った。

キダチェクはわずかに頷いた。

アガタは抜いたそれを丁寧に皿の上に置いている。

ククラはそれをじっと見ている。


それは何だか後悔をしているようにも見えた。


アガタが消毒をしてもククラは顔色一つ変えなかった。

見ている方が痛いぐらいだ。

「…有難うございます」

手当てが終わって片付けているアガタにそう言うとククラは立ち上がった。

そのまま玄関の方へ向かう。

「あら。泊まっていけばいいのに」

アガタがククラに後ろからそう声を掛ける。


「…いずれ、また」

ざらついた声でククラはそう言い残して帰っていった。



二人はククラが帰った玄関を見ている。

キダチェクはテーブルに乗ったククラの血の付いた破片を見る。

アガタもそれを見た。


「…ねえ。これで助かるのかしら」

アガタがぼそりと言う。

「ああ。これでこの国は助かるはずだ」

半ば興奮状態のキダチェクに、妻は怒鳴るように言った。

「違うわ。私が言っているのはあの子の事よ!」

キダチェクは妻を見た。

その視線に妻はさらに怒りを募らせる。


「やっぱり、考えてないのね。あの子の事は」

アガタが強く言ってきた。

キダチェクは自分がすっかりククラの事を考えていない事に気付く。


あれは国の為に使う魔導士だろう?

そう思っている自分を認識する。

サモールの手足となって百人近い人間を手にかけたのだ。

その償いを国にするのが当然だろう?


「…私はあなたの妻だけど、そういうあなたは嫌いだわ」

そう言ってアガタは2階に上がっていった。


いったいあいつは何を言っているんだ。

キダチェクは不思議だった。

この国が助かるかと言う時に、あんな子供の事を気に止める必要は無いだろう。

あれは敵の手の内なのだから。


今迄思っていたことなどすっかり忘れてキダチェクはそう思っていた。

それほど勝利への切り札が嬉しかったのだ。

それをもたらした相手のことなど関係なかった。


ククラは夜道を歩いている。

足元はまだ月が出ていて明るい。


何故自分はあんな事をしたのか。


衝動的にやった事は自覚がある。

主人を裏切るのだ。

裏切るだけではない。あの方が絶たれるのを承知して置いてきたのだ。


だがククラが足を止める気配はない。

そのまま真っ直ぐに主人の家に帰る。


今日は長い散歩になった。

ククラはそんな感想しか浮かばない自分を、とても愚かだと思った。


満足そうに眠っているサモールのベッドの横に立つ。

ククラはその姿をじっと見つめている。


何故か、涙が流れた。






その翌朝早くに人が訪ねてくる。


ククラはそれが誰かは知っていた。


「…すまないなサモール。こんなに早くに来て」

キダチェクが、寝起きのサモールにそう言って笑いかける。

酷く不機嫌な顔をした主人を、ククラはじっと見ている。


「…一体家にまで押しかけて何の用なんだ、お前は」

怒り声のサモールに、キダチェクが近寄る。


ククラは腰を浮かせた。

止めようと条件反射で身体が動いたのだ。


しかしその時にはサモールは首を掻き切られた後だった。

口から大量の血を吹いて、サモールがククラを見る。


走り寄ろうとしてキダチェクに抱えられる。


「…サモール様!!」

サモールが視線を彷徨わせる。

ククラがキダチェクの腕からもがいて出る。

「…ク、クラ…わた、し、の…」

それを最後に言葉が途絶えた。



「う、あ、あああ!?」


ククラが床に膝を着く。

キダチェクはやはり自分の主人を討つのは苦しかったのかと、同情の目線をやる。

しかし真実は違っていた。


溢れる記憶が渦を巻いてククラを襲っていた。


今まで忘れていた記憶も、忘れていた間に重ねた記憶も。

全てがいっぺんに心と頭の中に入って来た。

2度もかけられた呪いの魔法の反動だった。


「あああああああ!!」

ククラの尋常ではない反応にキダチェクが驚く。

しかし、ククラの身体を何重にも魔導の光が取り巻いていて、近づく事すらできない。





遥かなる過去も、地に足を付けるべき今も。


遠き前世も、見えにくい来世も。


廻ってきた時も、還るはずの時も。


全てが見えて聞こえる。

数多の時間と世界が。


溢れる魔導の光が一面の世界に広がる。

果てもなく、限りもなく。


ククラは息が止まるような光景を見る。


それはきっと人には見えないはずで。

これはきっと何かの間違いで。


ククラの眼にはこの世界がある、星の姿が見えていた。


地球ではない、別の星。


…この星は、なんて。


数多の数多の光が、ククラの身体を包み込む。

その光は、すべてこの世界からやって来ていて。








すとんと自分の身体に戻った気がした。

上から落ちて収まったようだった。


ククラは叫ぶのをやめていた。

ただ眼を真ん丸に開いてじっと上を向いていた。


それからゆっくりと顔を下げて自分の両手を見る。

何度も開いたり閉じたりしては、その感触を確かめているようだった。


そして口を開いた。


「…そうか。それが真理か」



キダチェクには何の事かは分からなかった。

だがククラが全くの別人に見える事は分かった。


魔導の光がおさまっているのも分かった。


ククラがゆっくりと立ち上がる。

そしてキダチェクを真っ直ぐに見た。


「…確かキダチェク、だったっけ」

少し悩みながらククラがそう言った。


「…ああ。そうだ」

今迄と物言いまでが違う気がして、キダチェクは違和感を感じる。


この子は誰だろう。ごく普通にそう思った。

ククラがサモールの遺骸に近づく。

ベッドの横に立って溜め息を吐いた。


「…あんたもやり方が違っただけだろうけどな…」

ククラはそう言ってサモールのその眼を閉じさせた。

「…気持ちだけは受け取っておくよ」

ククラがそう呟くのを、キダチェクはまるでおとぎ話のように聞いていた。


ククラが不意に自分の方を向いてドキッとした。

キダチェクの焦りを察して、ククラが苦笑いをする。

「僕に出来る事があるんなら手伝うよ。…操られていたとはいえ責任はあるだろうからさ」


「…は?操られていたとは何だ?」

キダチェクの気の抜けた声に、ククラはまた苦笑した。

「…ああ。今から説明するけど、あんたに信じられるかな?」

そう笑う少年は、キダチェクには初対面としか思えなかった。




説明を聞いた後、キダチェクはしみじみと溜め息を吐いた。

要はこの少年を手に入れた事が、サモールの暴走を招いた始まりだったのだ。

しかしそれは決して、この少年に罪のある事ではない。


サモールは誰か強い魔導士を探して、夜な夜な草原に出ていたのだろう。

元々この国をどうにかしようと目論んでいたのだ。

あの男は。


サモールの遺骸は早々に身内だけで火葬にされた。

これからは自分が国を支えなければならなくなるだろう。

キダチェクはぶるりと体を震わせた。



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