オンウルの魔物・7
その日の午後は雪に雨が混じっていた。
強く降るそれが屋根をひどく大きな音を上げて叩いている。
自分の家に帰ってきたキダチェクは、家の前に人が立っている事に気付く。
こんな天気の日にその人物は動かずに、ただじっと彼の家を眺めている。
玄関のドアも叩かずにただじっと見つめている。
キダチェクはこの小さな背中を知っていた。
「…ククラ?」
声を掛けられて少年が振り向く。
キダチェクは声も出ない。
その少年の顔を流れ伝っていたのは、雨だけでは無かった。
どうしたのかと問いかける言葉さえ、かけるのをはばかられた。
ククラはキダチェクにいま気が付いたように軽く頭を下げる。
キダチェクが近寄っていってもそこを動かない。
「…何か、飲んでいかないか?」
そう笑いかけるキダチェクを、ぼんやりと見上げる。
ククラが小さく頷くと、キダチェクは家のドアを開けてククラを招き入れた。
「いやだわ。どうしたの、あなたは」
中に入ったククラを見るなり、キダチェクの妻がタオルでククラの濡れた頭を拭きとる。嫌がるかと思ったが、意外にもククラは大人しく拭かれるままにされていた。
微笑んだ妻の笑顔につられてククラも力なく微笑む。
居間の椅子にククラを座らせると、キダチェクの妻は人差し指を立てた。
「いい?此処にきちんと座っているのよ?」
ククラが頷くのを見た後で台所に足早に向かう。
水音が聞こえるから、お茶の用意をしているのだろう。
キダチェクは自分の頭を拭きながらじっと座っているククラを見る。
少し俯いたククラは酷く傷ついた普通の子供に見えた。
…この子にあんな残酷な事をさせているのか。
キダチェクはいつも会議室の中央に座っているサモールを思い浮かべる。
その姿は聖人君子然と振舞っているが、そこかしこから暴君の臭いが漂っている。
もう幾つもの部族が壊滅させられた。
目の前の少年の手で。
「はい。これをお飲みなさいな」
ククラの前に暖かい湯気を上げたお茶が出される。
キダチェクの前にも同じようにお茶が出される。
彼は自分の考えを中断してそのカップを持ち上げた。
ククラは大人しくそのカップを持って熱いお茶に口を付ける。
ぼんやりと定まらない視線は湯気を見ているのか。
「この間は本当にありがとう」
ククラの隣に座った妻がそう言うのを、キダチェクは見守っている。
少年は小さく首を横に振る。
「…別に大した事は…」
その消え入りそうな声にキダチェクは眉根を寄せる。
しかし妻は気にせずにククラの空いている手を握る。
「何を言っているの。あなたは私の命の恩人だわ。…そしてこの子の命の恩人でもあるのよ?」
そう言ってククラの手を離し、両手で自分のお腹を撫でた。
その手の動きをククラが目で追う。
ククラが見ている事に気付き、妻は微笑みながら再びククラの手を取ると、その手を自分のお腹の上に置く。
驚いて引っこめようとするククラの手を握ったまま、ククラに微笑んで聞いた。
「あなたは魔導士だから分かるわよね?此処に命がある事」
ククラは自分の手からそっと力を抜いてキダチェクの妻の顔を見る。
まだ微笑んで見ている相手に戸惑いながら肯く。
「…この子は健康かしら?」
心配そうに聞いてくる。
少し目を細めてお腹を見た後にククラが無言でうなずいた。
「良かったわ。誰にも聞けずに不安だったのよ。…ありがとうね」
キダチェクの妻が本当に嬉しそうに明るく笑う。
その笑顔を見てククラの眼に涙が溜まっていった。見る見るうちに溢れだし幾筋も頬を流れていく。
「…そう。…まだ雨はやまないのね」
ククラの頬を零れる涙を拭いながら、妻がそんな言葉を言っている。
キダチェクは声もなく零れていくそれをただ見ていた。
泣き止んだ後、恥ずかしいのかククラは顔を俯かせている。
「…私の名前はアガタよ。あなたの名前は?」
一度告げてある名を呼ばずに、妻がククラに聞いているのを見守る。
ちらりとククラに見られるが、キダチェクは微笑むだけで言葉を発しない。
「…ククラ、です」
さっきよりはしっかりした声でククラが答える。
まだ少し鼻声なのは仕方がない。
「そう。じゃあ、ククラ。私ね、あなたにお願いがあるのよ」
急に言い出したアガタの台詞にキダチェクが少し驚く。
何かを魔導士に頼むにはこの国ではお金が掛かる。
仕事の話と思ったのか、ククラが少し眉をひそめる。
「…何でしょうか」
ククラはサモールのお抱えの魔導士だ。
いくらアガタが仲良くしたとしても、いきなりの仕事を受けるわけでは無いだろう。キダチェクが止めようと口を開きかけた。
「この子の名付け親になって欲しいの」
自分のお腹をさすりながら、アガタは微笑んでそう言った。
ククラは目を丸くして、アガタの顔とお腹を交互に見た。
「…え?僕がですか?」
「ええ、そうよ。だってあなたはこの子の命の恩人だもの。あなたに名前を付けてもらうのが一番いいと思うのよ」
困った顔をしてククラがキダチェクを見る。
キダチェクは声を出して笑いながら妻に同意をした。
「はは。それはいい考えだ。…どうだ、俺達の子に名前をくれないか?」
大人二人がニコニコと満面の笑みでククラを見ている。
その二人の顔を交互に見ながら、ククラの顔はひどく焦って困った表情を浮かべていた。
しかし、それは嫌がっているものではなかった。
「…あの、今すぐには、その、思いつかなくて…」
顔を幾分赤くしながら恥ずかしそうにククラが言った。
その言葉を微笑んでアガタは聞いている。
キダチェクは自分の妻を感心して見ている。
母親と言うのはこうもすべてを包めるものなのか。
「いいのよ。ゆっくりと考えてちょうだいな」
「…はい」
何だか神妙な顔でククラは頷いた。
外の雨まじりの雪の音が止んでいる。
ククラが曇っている窓を見る。外の天気は見えない。
「…あの、僕、もう行かないといけないので」
しっかりとした声でククラがそう告げる。
言われてアガタが残念そうな顔をした。
その顔を見て、ククラは照れたような困った顔をする。
本当はこんなに感情豊かな少年なのだな。
キダチェクはククラを見ながらそう思った。
すべてはあの男が悪いのか。
「送っていこうか?」
キダチェクの台詞に首を振ってククラが断る。
「…大丈夫です。…ごちそうさまでした」
そう言ってククラは家から出て行った。
玄関まで見送ったアガタに、微笑みを返して。
キダチェクはその背中を見送る。
未だあの少年の姿は泣き止んではいない。
それがひどく苦しかった。
ククラはほんの少しだけ救われた気持ちになった。
それがまた黒く塗りつぶされることは分かっているが。
どうしたらいいのだろう。
忠誠を誓っているのは変わらない。
だが、あれは。
酷い悪寒が背中を震わせる。
あんな事をこれから先も僕は受け入れなければならないのだろうか。
ククラは空を見上げる。
灰色の空はまたすぐにでも雪を降らしそうだった。
サモールは自分の機嫌がひどく良い事を自覚していた。
あれを自由に扱う為に有効な手段だと、今朝の事を思い出している。
ククラの眼に映った恐怖がより一層自分に忠誠を誓う糧になるだろうと。
そう信じている。
苦痛を我慢しながら吐かれた息を思い出しながら、サモールの身体が熱くなる。少し自分の目がうるんでいるのが分かった。
あの愉悦を思い出すだけで、気持ちが高揚してくる。
もっと苦痛を。もっとあの声を。
ああ出来るのは私だけだろう。
キダチェクと話していた事を聞き、気持ちを暗くしたのは杞憂だったのだ。
あれは、今朝、全て私のものになったのだから。
あの肉体も。あの声も。
全てが私の為に存在をしている。
サモールは少年の様に熱い溜め息を吐いた。
未だ心臓が大人しくならない。
ククラとの事はサモールにとってひどく甘い衝撃を伴っていた。
これであれは私のいう事を疑いもなく聞くだろう。
そう思う事が何だか言い訳じみている事に、サモールは気付いていない。
ククラを初めて見た時から気持ちの奥底に何かが芽生えていたなどと。
それが支配欲に似た何かだとは考えもつかない。
サモールは自分の心の中の熱の正体を知ろうともしなかった。
集まりだした族長たちが、サモールの機嫌がすこぶる良い事にぞっとする。
会議が始まっても、その微笑みは消えることがなかった。
離れた席でその機嫌のよさに眉根を寄せている男がいた。
夜のこの会議に出ているその人物は、今日の午後に会った少年の顔を思い出していた。二人のこの対照的な態度は何なのか。
分からないまま時間が過ぎていくのが嫌だった。
「…今日は随分機嫌がいいんだな」
会議が終わった後にサモールにキダチェクが声を掛けた。
サモールが少し嫌そうに眉を寄せる。
しかしすぐに何時もの冷静な顔に戻す。
その変化を見てキダチェクは自分が何をしただろうかと考え始める。
「…今朝、良い事があったのでね」
そう言って微笑むサモールに、不信感を募らせる。
キダチェクのぱっとしない反応に少し意地悪な気持ちが起こる。
自分の心のそれが何かはサモールは追求しない。
「…ククラを、ね」
そう言ってからサモールがニヤリと笑った。
聞かされたキダチェクは最初は気付かなかった。
しかしサモールがニヤニヤとした視線で自分を見ている事に悩みだす。
それから奇妙な考えに行きつく。
この男は何かを勘違いしているのではないか。
自分とあの少年の事を勘ぐっているのでは。
何を勘ぐっているのか。
もちろんあの子はこの男の魔導士だ。仲良くなったと言われても不快だろう。
でも今の言い方はそれを連想はさせない。
どちらかと言えば。
そこでまだ、にやついている男を驚愕の眼で見る。
思いついた答えは悪魔のような行為だった。
…何という事を。
キダチェクが分かった事をその表情から確認すると、サモールは笑みを浮かべたまま席を立って帰ろうとした。その後ろから声が投げられる。
「…お前はなんという事をしてるんだ。…あの子がそれに耐えられると思っているのか?」
キダチェクの言葉はサモールを一気に不愉快にするのに十分だった。
この男が一体ククラの何を知っているのか。
サモールは黒く熱いもので胸が締め付けられる。
酷く冷たい眼で見られてもキダチェクは引かなかった。
そうか、やはりこの男があの子を泣かし続けているのだ。
この国の民、全てが同じように踏みにじられるだろう。
それは決して許される事ではない。
キダチェクの表情の変化にいち早く気付いた魔導士が、魔導を唱えようとする。
しかしその横を通り過ぎてキダチェクが足早に立ち去るのを、呆然と見送った。
サモールもまたこの場でいさかいが起きるだろうと思っていた。
だから急に身を翻し通り過ぎていくキダチェクを、止める事が出来なかった。
講堂から出て行く姿をじっと見つめるしか出来なかった。
あれは小さな部族の族長で大した勢力ではない。
サモールは気にかけた自分を自嘲的に笑うと、自分も講堂を後にした。
その日の夜、ククラは主人の家に帰ろうとはしなかった。
明日の予定を聞かなければならなかったが、帰りたくなかった。
帰れば何を要求されるかは分かっていた。
本当に嫌だった。
もしかしたら忠誠心が崩れてしまうかもしれない。
そんな恐れもあった。
何度もククラは心の中で自問自答を繰り返した。
ククラがサモールの言った事に逆らったことは今迄ほとんどない。
けれど、あんな事の為に引き取ったとは、ほのめかされた事もなかった。
いきなりそんな趣味に変わられた訳ではないだろう。
それならば考えられることは少ない。
あれはきっと僕へのお怒りの表れだ。
…僕はいったい何をしたのだろうか。
あの方がそんな事をしてまで、僕に分からせようとしている事は何なのだろう。
ククラは泣きそうな顔になる。
どんなに考えても答えは出ず、自分の気持ちを納得させることも出来なかった。
町の中に居るのは嫌だった。そうかと言ってどこに行けばいいのか。
ククラは誰もいなくなった噴水に腰掛けた。
夜の町は何かを恐れて静寂に身を包んでいる。
その対象が自分だとククラは知っていた。
事実は撤回のしようがない。この手で何人の命を絶ったことか。
ククラはじっと自分の手を見る。
たくさんの血が染みついて取れないだろう。
そんな幻想は嫌になるほど見た。
それでもそうし続けるのはサモールの事を思ってしているのであって。
気持ちが傾けばそうしなくなることは明白だった。
元々そのために魔導を習い始めたわけでは無い。
…最初って何を考えていたっけ。
ククラは自分が初めて魔導を覚えようとしたことを思い出そうとする。
しかしその記憶に確かな形はなく、昔見た夢のようにひどくあやふやだった。
大事な事のような気がするけど。
覚えてないのか、僕は。
なくした物はとても大切な物のような気がするのに。
ククラは目を閉じる。
…何だか久しぶりに一人のような気がする。
近い過去も遠い過去も自分は覚えておらず、ただ息を切らせて走って来た。
今だけを見て。
僕はどうしたいんだろう。
ククラは自分の気持ちを探り始める。
しかし呪いの主はそう簡単にはククラを手放さない。
「…何をしている?」
また雪がちらつき始めた中、長身の金髪の男がククラに声を掛けた。
「…あ」
ククラが噴水の縁から立ち上がる。
そこには寒そうな顔をしたサモールが立っていた。
吐く息が白い。
どの護衛もつけないで一人で立っていた。
「…どうされたのですか。こんな夜中に」
ククラの言葉にサモールが苦笑をする。
「それは私の台詞だ。…お前はいったいこんな所で何をしているんだ?」
ククラが答えに詰まる。
サモールが近寄ってククラの頬を撫でた。
その手が嫌だった。
近寄って来るその顔を殴りたかった。
しかしククラは自分の両手を握りしめただけで動かなかった。
「…さあ、家に帰ろう。ここは寒いだろう」
サモールが俯くククラに声を掛ける。
ククラは自分の指先が震えているのが分かった。
きっと無理だ。
このままいったら僕はきっとこの方を裏切るだろう。
たったあれだけの事で。
ククラは歩きながら自分を納得させようと試みる。
命が絶えるわけじゃない。
身体を切り刻まれるわけじゃない。
ほんの少しの間、痛みを我慢すればいいだけだ。
だけど。それは。
僕を何とも思っていないという事だ。
ただの道具と扱われる事だ。
僕はそれが嫌なのかな。
…せめて人として扱ってほしかったのか。
そうか。
もうこの方にとって僕はただの道具に成り下がったんだ。
それとも最初からそう思われていたのかもしれない。
ずっと、昔から。
ならばこの方には何の違和感もないだろう。
ただのはけ口なら、別にどんな形でもいいのだから。
サモールは後ろのククラがずっと無言なのが気になった。
しかし自分の後はついて来ている。
家に帰って何をしてもククラは抵抗をしなかった。
ただその視線が遠くを見ているような気がして、サモールは不思議に思った。
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