オンウルの魔物・5
薄暗い空から白い雪が降っていた。
町は雪に覆われて白一色になっている。
街中を歩く人はまばらで、歩いている人もみな急ぎ足だ。
町の路地裏の事など誰も見ようとはしなかった。
「…」
ククラは足元に倒れている男を、静かに見下ろしている。
その目線は無感動で冷やかだ。
白い雪に一面の赤い色が広がっている。
それは倒れた男の身体から流れていた。
足早にククラはその場を離れる。
一体、何人を手に掛けただろう。
ククラの足跡は赤からピンクに変わり、やがて白い色に変わる。
雪を踏む音が、誰もいない道に響く。
その音が止まった。
ククラの視線の先に、見知った人物が立っている。
「…何か僕に用ですか?」
右手を軽く握って構えながら、ククラが口を開く。
酷く焦燥した顔で、黒髪黒い眼のキダチェクがククラを見ている。
「…お前に頼みがある」
絞り出すような声でキダチェクが告げる。
ククラは首を傾げる。
「…個人的な事ですか?」
「ああ。…とても個人的な事だ」
これ以上はないぐらい苦しそうな声で言われる。
ククラは少し悩んだ。
彼とはそんなに面識があるわけでは無い。
しかし主人の敵と言うほどの動きをしている訳でもなかった。
異論は唱えないが快くは思っていない。
そんな人々の中の一人なだけだ。
特に気に止める程の人物ではなかった。
しかし今の目の前の態度は気になる。
「…何でしょうか」
話だけは聞いてみようと思った。
キダチェクが傍まで来る。
ククラはその行動に危険性がない事を確認すると、少し警戒を解いた。
キダチェクがククラの顔を見る。
見下ろされたククラには彼の顔が良く見えた。
ククラと目線を合わせるのを、キダチェクはしばらく迷った。
強く降ってきた雪がゆっくりと降り積もっていく。
自分にも相手にも積もっていくのを、どちらも気にしなかった。
ククラの頭から静かに雪が落ちる。足元にばさりと落ちた。
キダチェクが悩んでいた口を開く。
「…妻を助けて欲しい」
ククラは真意を測る様にキダチェクの眼を見る。
視線を合わせた彼の眼はとても苦しそうだった。
その眼に悪意は見えない。
「…奥さまですか?」
「ああ。…この国の他の魔導士にはすべて断られた。…頼んでいないのはお前しかいないんだ」
どれほどの時間とお金をかけたのだろう。
この国の魔導士が他国より少ないといえ、何十人といるのだ。
どれほど頭を下げたのか。
ククラのような子供にまで下げなければならないほど。
ククラは静かに立つキダチェクを見上げている。
キダチェクは答えを待っている。
ほぼ絶望を抱えながら。
ククラがサモールの物なのは知っている。
サモールのいう事しか聞かない事も。
それでも頼むしかなかった。
これしか方法がないのだ。
ククラはキダチェクの瞳の絶望を読み取る。
そして軽く溜め息を吐いた。
「…見てみないと何とも言えませんが」
返ってきた返事にキダチェクが目を見開く。
ククラはそんな彼の前で少し微笑む。
「…取りあえず、奥さまの所へ行きましょう」
キダチェクはわずかに頷いた。
目の前の事が信じられなかった。しかし気が変わらぬうちに連れて行かなければならない。
キダチェクはククラを伴って雪の中を歩いて行く。
誰もいない街中を歩くのは、人目を忍ぶ二人には好都合だった。
さくさくと柔らかい足音が重なるように続いていく。
キダチェクは住宅街の中ほどの家に入る。
族長の家にしては小さな家だった。彼の人柄が分かるような。
きっと質実剛健なのだろう。
ククラは中に入り、肩の雪を落としながらそんな事を思った。
中は暖かかったが出迎える使用人たちが誰もいない。
ククラは不思議に思いキダチェクを見る。
その目線の意味を悟って、キダチェクが苦しそうに笑った。
「…皆は一時的に出入り禁止にしている」
「…何故ですか?」
ククラの問いには答えず、キダチェクが階段に向かう。
昇り始めで振り返る。
「…来てくれ、こっちだ」
ククラは少し悩みながら、キダチェクの後を付いて階段を上った。
二階には薄暗い雰囲気が満ちていた。
キダチェクが奥から二番目の扉を開ける。
開けた途端にすえたような臭いがした。
肉の腐った臭い。
ククラは思わず鼻に手をやる。
ベッドには腐った人が横たわっていた。
「…妻だ」
ククラの隣でキダチェクが呻くように言った。
ククラはそっと近寄る。
その胸がわずかに上下しているのを見て驚いた。
この人はまだ生きているのか。
こんな状態で生きている事が不思議だった。
体中が腐っていた。膿はそこかしこから流れ落ちていて顔も首も分からない。
ただ小さく開いた穴から歯が見えるので、そこが口だと分かった。
「…原因不明の奇病だそうだ。…医者には治せない」
キダチェクの声がククラの耳に届いた。
ククラが子供の様に小さく頷く。
目の前の事実に衝撃を受けて、冷静を装う余裕がない。
「…うつるかどうかが分からないので、誰にも会わせないようにしている。…魔導士達が来ない一番の理由だ」
キダチェクがそう呟く。
ククラはその言葉を聞いて、少し怒ったようにキダチェクに言った。
「…僕は何も聞いていませんが」
「……すまない。…まさか来てくれるとは思わなかったから」
その詫びる様な声音に嘘はなかった。
ククラは溜め息を吐いてから、病人に向き直る。
今までに使わなかった魔導の中から最適と思われるものを選ぶ。
誰かを助けることが出来るのが、何故だか少し嬉しい。
…不謹慎だな。
ククラは自分の中で呟く。
「…これから集中しますから黙っててください」
「……分かった」
キダチェクが肯くのを見てからククラはベッドの上に手をかざす。
光魔導の最上級の一つ。
グッと集中をしてから呪文を唱え始める。
「清らかな音声の響く庭にて戯れし天界の住人たちよ。豊かなるその御心を我ら地上の住人に分け与えたまえ。」
長い詠唱に一回息を吸う。
「…公平なる庭の華。その滴を我ら幼子に与えたまえ。我ら永遠にその美しき姿を讃えん!」
かざしていた手を頭上にあげて指先を天に向ける。
「楽園の花園!!」
ククラの言葉が消えないうちに光が辺りに満ちてゆく。
数えきれないほどの光が部屋中を埋め尽くし、病人の体を照らし出す。
不意に光が消え、何もない空間から一滴の滴が病人の腐敗した体に落ちる。
それは見えないはずの空気を波紋のように見せ、静かに消えた。
二人が見守る中、腐った身体が薄れていくように無くなり、ベッドには美しい女性が横たわっていた。
ククラがそっと近寄る。
安らかな呼吸を繰り返し、その女性は眠っていた。
「…治ったの、か?」
震える声で後ろからキダチェクが聞いてくる。
ククラは傍に行きキダチェクを見上げて頷く。
彼はベッドによろよろと近寄り、眠る妻の手をそっと握る。
そのままベッドの脇に座り込んだ。
うれし泣きをするキダチェクを残して、ククラは静かに部屋を出た。
階段を降りながら、先の病気が伝染性ではない事を告げ忘れた事に気付く。
魔導を掛けた時に分かった事だったが。
しかし今は二人をそっとしておいた方が良いだろう。
玄関にあった紙にメモをしてテーブルの上に置く。
それを残してククラは外に出た。
外の雪は止んでいて、薄い雲間から半月が見えている。
ククラはその月を見上げて微笑んだ。
とても不思議な気分だった。
主人の待つ家に帰る頃には、その微笑みはどこかに消え何時もの顔に戻る。
最近のククラはほとんど笑わず、それが主人の不評を買っていた。
笑おうとは思うのだが、どうしても笑うことが出来ない。
魔導を使うたびに酷い頭痛がした。
今のように頭痛がない事が珍しかった。
帰ったククラの顔を見てサモールが微笑む。
「…お帰りククラ。今日は具合が良さそうだね」
サモールの言葉にククラは苦笑を浮かべる。
「…そんなに僕は酷い顔をしていますか?」
「毎日、具合が悪そうだ。…私は心配をしているんだよ?」
サモールが微笑んだまま答えた。
肯いて主人の気持ちを受け取った事を伝える。
それからその顔をククラは何時も通りに見つめた。
サモールがククラに明日の予定を告げる。
ククラは真面目な顔をしてその話を聞いていた。
話の途中から頭痛がしてきたのを隠しながら。
ククラは朝起きてサモールに紅茶を入れている。
どんなに忙しくても、それを忘れた事はない。
入れられた紅茶を飲みながら、サモールはククラに今日の予定を確認させる。
昨日の夜に聞いた予定を、ククラが小さな声で復唱する。
満足そうにうなずきながら、サモールは他の魔導士と出かけていった。
この頃はククラはサモールとは出かける事はない。
ククラの行っている事をなるべくサモールと関連付けさせないためだ。
それはただの言い訳に過ぎないが、少しでも余地を残しておきたい。
そういうサモールの考えにククラが反対する訳もない。
そのために他の魔導士がサモールに雇われて護衛のために傍に居る。
それを寂しいとは思わなかった。
自分が手足となっているのは分かっていた。
同じことは他の者にはさせていない。それを信頼の証とククラは思っている。
ククラは身支度を整えると、予定をこなすために今日も外に出かけた。
サモールは数人の魔導士に付き添われて、町の中央に立っている会議のための講堂へ向かう。
歩いている間、後ろの方からぼそぼそと話している声が聞こえた。
その話にククラの名前が出たので、サモールは聞き耳を立てた。
最近は町の人も魔導士達もククラの事を陰ではこう呼んでいる。
サモールの愛玩人形。
それは自然とサモールの耳にも入ってきていた。
サモールはあえてそれを注意する事なく皆の言うに任せている。
自分自身もそう思う時があるからだ。
それに可愛いククラには丁度いいあだ名ではないか。
可愛らしい私の人形。
サモールは薄く笑いながらそう思う。
その笑みは会議室に入る頃には消えていた。
今日も夕方から雪が降ってきた。
ククラは足がふらつく感覚に舌打ちをした。
狙った相手が反撃をする為に魔導士を雇っていた。
そいつが思ったよりも強かったのだ。
狙った相手は既に物言わぬ姿で地面に転がっているが、息も絶え絶えな魔導士が足元に居る。まだとどめを刺せていない。
口は封じてあるが、早くこいつを始末しなくては。
そう思う心とは裏腹に、ククラの足は本当によろりとふらついた。
予想以上に魔導力を使っている。
仕方なく少ない魔導で呼び出せる剣を召喚する。
ククラの手に握られた剣を見て、魔導士が絶望のうめき声をあげた。
真っ赤な飛沫が視界に広がった。
ククラは自分から滴る赤い滴にまた舌打ちをする。
何処かで体を洗わなければ。
薄暗い中、ククラは一番近い用水路に向かう。
其処の水は決してきれいとは言えなかったが、気にせずにククラはその中に入る。軽く水飛沫が上がった。
腰ぐらいの水の中でククラは自分にかかった血を洗い流す。
流石に顔をゆすぐのに躊躇い、それは噴水でやろうと思いそこから出る。
水に濡れた身体に夜の空気は冷たく吹き抜けていく。
近い噴水で顔を洗ってから、ククラは真っ白な自分の息に苦笑を浮かべた。
噴水の縁に腰を掛ける。
もう誰も歩いていない。
近頃は物騒な世の中だと、人々は早いうちから自分の家に帰っている。
ククラは雪が落ちてくる空を見上げる。
灰色の空は雲が厚くかかって、その上の月を見せようとはしない。
雪が強くなって来た。
そろそろ帰るべきだとククラは思った。
立ち上がろうとして、前から人が近づいて来ている事に気付く。
座ったままククラはその人物を近寄って来るのを見ている。
雪を踏みしめながら、ククラの前にキダチェクが立った。
「…今日は何の用ですか?」
ククラが苦笑しながら問いかける。
キダチェクが微笑みながらククラに答えた。
「この間の礼を言いたかったんだ」
ククラは黙ってそこを動かずにいる。
座っているその体の上に雪が積もっていく。
髪から垂れてくる滴を手で払ってから、ククラは言った。
「…どうして僕がここに居る事を知っているんですか?」
不信そうなククラの声に、キダチェクが少し慌てた声で言う。
「…友人が、君が用水路に入っているのを見かけたそうだ。…俺が君を探している事を彼は知っていたから、教えてくれたんだ」
「…あなたは僕を探していたんですか?」
不思議に思ってククラが尋ねる。
自分は夜にはサモール様の所に居るのだ。そこに訪ねに来れば何時でも捕まるはずなのだが。
ククラのその顔を見て困ったようにキダチェクが笑う。
「…君が俺を助けた事を、きっとサモールは快く思わないだろう。…君に迷惑が掛かるのは嫌だったから、君が一人でいる所で会いたかったんだ」
そう言ってからククラのすぐ前まで近寄って来る。
ククラはキダチェクを見上げた。
ククラの髪に積もった雪を払ってから、キダチェクは屈み込んでククラの眼を見つめた。
近くからククラはキダチェクの眼を見つめ返す。
彼は少し眩しそうに目を細めながら、言葉を紡いだ。
「…ありがとう。君のおかげで妻もその子も助かった。…感謝をする」
「…お腹にお子さんがいたんですか」
それには気付かなかったククラが、少し驚いた声でキダチェクに答える。
すぐ傍の顔を覗き込んで、キダチェクが頷く。
ククラが嬉しそうに微笑むと彼もつられて微笑んだ。
「…寄っていってくれないか?妻も礼を言いたいそうだ」
キダチェクがそう言うと、ククラは一瞬嬉しそうに笑った。そしてそれを隠すように、すぐに顔を伏せて首を横に振った。
「…いえ。それを聞いただけで十分です。…僕は帰ります」
そう言うとふらりと立ち上がった。
キダチェクはその体を支えようとして手を伸ばす。
その手をククラは優しく押し返して拒否をした。
ククラの手が熱い事にキダチェクが気付く。
「ククラ?君は熱が」
その言葉をククラが顔を伏せたまま、手を上げて静止させる。
キダチェクは戸惑いながら、拒否された自分の手を戻した。
「…奥さまに、どうぞお元気でとお伝えください」
やっとあげた顔は、何時もサモールの隣にいる冷たい人形のような顔をしていた。声も聞いたことのある冷たそうな静かな声だ。
「…では、失礼します」
そう言ってククラは、キダチェクに背を向けた。
雪がさらさらと音を立てて降っている。
ククラがその中をゆっくり帰る姿を、キダチェクはじっと見送った。
何故かその背中が一人で泣いて帰る子供に見える。
キダチェクはその光景をとても悲しいと思った。
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